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AKIFUMI SHIBA  芝 章文


心理学的一考察 “彼の場合”
 

伊東孝郎

 ああ、山が迫ってくる。
彼が幼児期を過ごした和歌山の山間は、まさに大自然の賜物に満ちていた。

 夜ともなれば、明かりは頭上よりの無数の光点のみ。遠く足下に連なる山の影また影。大いなる夜の山に対する思いは、その後の彼の生の根本をなす。決して恐怖を伴うものではない。大いなるものに包まれる恍惚感(エクスタシー)それはまるで、心が母と一体だった頃、全てをかなえてくれる重要な他者としての母に感じた感情の萌芽。いや、まだ母なるものの存在どころか、自他の区別すら知らぬ頃、自分が全てであり、全てが自分であった、万能感(オムニポテンツ)の表出。あるいは、穏やかな子宮の中の感覚の残像 一 胎児の夢。

 教員だった母は気のつく優しい人であり、彼の自己イメージに一致する。そんな母似の自分を、少年期独特の感受性が拒否する。結果、気性の荒い悪童の出来上がり。野荒らしのギャングエイジ。自然児は野山を駆けめぐる。
 
 大自然の中で感じ、対話し、学んだ彼は、それを別の形で表現し始める。すっかり町の人となった青年期、あの感じを再現すべく、彼はキャンバスに向かう。

   交錯する磁力線 一 あの山で確かに感じたものだ。
   混沌とした起源 一 自分の記憶をたどるとそこに、確かに存在している。
 
 こうして、あるものは計算され尽くした一連のシリーズとなり、あるものは意識から解放された突然変異種の作品となる。

  折からのバブル時代。彼の起源は、此国の中世までさかのぼる。前後に危うさを漂わせた、きらびやかな婆婆羅世界。 時代は彼を受け入れる。表面上の蜜月。

 まもなく泡ははじけ、彼は世界とともに沈黙する。しかし彼は一貫している。内面へと深く出自を求め、ひたすら進化の過程を逆進する。少年、幼児、胎児、人類史、さらには海の動物、脊堆を持たぬ小さな生物微生物、細胞へ。
 
 数年間の沈思の後、あの感じ、あの時黒い山々を前に、大いなるものに包まれた感じを、彼はようやくストレートに表現し始める。“MAO”と呼ばれる、現在のシリーズである。空間に漂う楕円。円内にはなにやら蠢く小物体。それぞれが呼吸し、内部にさらなる小字宙を持っているかの如くだ。
 
 これは宇宙。これは母の子宮。これは海中からの空。これは原生細胞。いずれも正しい。その全てが、彼の系統発生の過程なのだ。

 “MAO”はみるものに決断を迫る。“おまえは何であるか”
 答を持ち得る者はいない。しかし答は、確かに私達の中にある。意識の光の当たらない海の底深く。 スイスの精神科医ロールシャッハは、インクの染みを見せて迫った。“これは何であるか”  見る者は海底深く漂う己を引き上げ、何だかんだと答える。答えは様々な記号に変換集計され、量的質的に分析される。

 ある人の精神状態を探る時、我々心理学に携わる者は、意識というバイアスを避けるため、何かに投影させるという姑息な手段を使わざるを得ない。鏡像から正体を准測するのみだ。芸術家はそうではない。自らが苦悩し、その悩みの量に比例する純粋さで形態を創造する。換言すれば、自ら鏡となることで、他者に自身を知覚させるのである。そこに感動が、そして危機が生じる。“おまえは何であるか”

 出自を求める彼の旅が終わることのないように、“MAO”も永遠に完成することはない。しかしその創作過程は、絶えざる変化に富んでいる。変化の方向は、突き詰めれば宇宙創造のパラドックスに行き当たる。近年の宇宙論においては、時間軸に始めも終わりもないという。宇宙は膨張と収縮の永久運動。空間と時間は連動するのだ。となれば、彼は過去と同時に未来にもルーツを探し求めなければならない。“MAO”自身の形態が内包する“ゆらぎ”そのままに。
 
 今回被は、いったいどこにいるのだろう。“MAO”は何を語るのだろう。そして私は、いったい何なのだろう。

                          (いとう・たかお/臨床心理学)
       
          

1996年5月13日〜6月1日オオヌキ アンド アソシエイツ個展カタログに掲載


MAO - 830496 キャンバスに油彩 800×480mm 1996年
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