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AKIFUMI SHIBA  芝 章文



浮遊する磁場 

    荒井千春子


 彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するもの、澱んでいる中に、目のあいて来るを、覚えたのである。 した。した。した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。

 この絵の前に立った時、まず浮かんできたのは『死者の書』(折口信夫著)の冒頭であった。つまり、塚穴の底の死者が目覚めたときの第一声である。

 有機的な陰りの中で、さまざまな光は、ふと、どこからか湧いてきた和音のように淡々と華やかさをにじませていた。 中心を設定することなく、また、焦点を結び合す直線の存在しない構成。豊かな色彩にも関わらず、いずれの色の優劣も定めない配置。絵の表面には、張り詰める緊張感も、激しい身振りも示されず、代わりに、微妙な均衡が緩やかに保たれているばかりである。

 それは、ゆっくりと、生成しているのか、または壊れているのか。否むしろ、いったん破壊されたものが再び収拾されていく過程なのか。

 既に、目の前の画面からは、いつの間にか、“それは通過点であり、対極の狭間を移動中である”という前提が投げ与えられている。この霊感に打たれてしまった人、とりわけ、“自分は、自分の観ているものを知っているに違いない”という、何とも近代的な、奇妙な信仰を多少なりとも崇拝する者(私を含めて)はなおさら、この曖昧な立場から一刻も速く脱出し、自らを安心させようと、「知っている」あらゆる手掛かりを求めて内部への標流を開始してしまうのである。

 今やオブラード状に和らいだ画面の表層を一たん抜けてしまえば、その朦朧とした空間がたちまち私をとりこんでくる。 それでも諦めずにあぶなっかしい波乗りを繰り返していたら、画面に散在する光の間の距離が、次第に、自分のかつて経験した感覚;卵の温かみ、夜の樹、兎の目、遠い電話、蜂蜜の流れ、硝子の影 等によって補われ始めているのにふと気がついた。

 かくして、幸運にも思い出した人は、“観ていたもの”と“知っていたもの”とが「失われたはずの記憶」という媒体のレールを通じて、限りなく急接近していき、遂には一致団結してゆらゆらと立ち昇ってくる瞬間を目撃できるはずである。一度座っていたくぼみに、もう一度身を置くような感慨を伴って。

 次に続くものが現れて初めて、最初のものの存在が確認されるという、この「反復」という興味深いメカニズム。

 繰り返される初めの一回、もしくは一回だけの繰り返し。

 今回、画家は、この果てしないリフレインの、最初で最後の一章節が、我々の前をすり抜ける瞬間をとらえ、MAOを通じてその入り口を我々の前にぽっかりと開いてみせたのである。

 そういえば『死者の書』は、こう結ばれていた;其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢のたぐひかも知れぬ。

 “失われたはずの記憶”は、あるいは、MAOが誘い出した、“存在しなかったはずの記憶”だったのだろうか。

                          (あらい・ちはるこ/美術史学)
               
          

1997年7月1日〜7月19日 オオヌキ アンド アソシエイツ個展カタログに掲載


MAO - 2210597 キャンバスに油彩 150×150 cm 1997年
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