最上義光は本当に「冷酷無残」か?

 義光に関して書かれたものを見ると、「冷酷無残」と評しているのをよく見かけます。しかし果たして本当にそうなのでしょうか?ここに私なりの検証を試みてみます。

1.なぜ、「冷酷無残」なのか?

 最上義光についての概略でも述べましたが、義光が家督を相続したときには四面楚歌の状態でした。この状態を挽回するには、兵をもって相手を攻めるという正攻法だけではなく策略を用いることも必要でした。義光はその生涯で策略を多用していますので、そのことが陰険なイメージを印象付けているものと思われます。また、以前にNHKの大河ドラマで「独眼龍 政宗」が放映されたときにも、政宗にとって陰険な敵役の役割を演じていました。そしてなんと言っても有名なのが、白鳥十郎謀殺事件です。この話は現在も脈々と語り継がれ、あるいは小説の題材とされ、その評価を決定的なものにしています。

 ここで白鳥十郎謀殺事件について説明しておきます。当時村山地方北西部を本拠地とした武将である白鳥十郎なる人物がいまして、晩年にはそれまでの領主だった中条氏を滅ぼし谷地方面まで進出するほどに勢力を伸ばし、伊達家と最上家の仲裁を任されるほどの力を持っていました。(下の画像はその居城である白鳥城址)

 

 

ある時十郎は織田信長に良馬などを送り誼を通じ、出羽の支配権を認めさせました。このことを聞いた義光は驚き、急ぎ腹心の志村伊豆を派遣、最上家がその祖斯波兼頼の出羽按察使としての下向以来の名門であることを示しながら、出羽の支配権が自分にあることの正当性を訴え認められました。しかし十郎が信長まで視野に入れた計略をもっていることに脅威を感じた義光は十郎を亡きものにしようと考え、策略をめぐらします。まず自身の嫡男義康の正室に十郎の娘を迎え、後に義光は病気と称し引きこもります。そして「自分の死後を十郎に託したいから」と居城である山形城に十郎を呼び寄せ、枕そばまで来た十郎を布団の裏に隠していた刀で義光自ら刺殺しました。以上が白鳥十郎謀殺事件のあらましです。

 

2.「冷酷無残」の評価は妥当か?

 では具体的に検証してみましょう。正々堂々と兵をもって攻めるのではなく、策略をもって相手を倒すというやり方はたしかに陰険かもしれませんが、はたしてそれほど悪いことなのでしょうか?兵をもって攻めれば敵味方に関わらず多くの死傷者が出て、そのため多くの人々が悲しみます。白鳥十郎の一件にしても、策略を用いたことで死傷者が最小限で済んでいます。義光は兵が傷つくことを極端に嫌ったとも言われてます。当時の兵の多くは農民でした。戦さが起こる度に動員され、帰って来ない者も多くいました。領民たちにとって最良の領主とは、戦さを起こさない、あるいは他国から攻められることのない人物だったのです。庄内の武藤義氏はなにかと戦さが多かったため、部下や領民の評判を落としそれがために滅びました。織田信長や武田信玄は自国に戦さを持ち込まず、常に他国で行いました。そのため領民に慕われたのです。義光が山形を統治していた時代に一揆が起きた記録は無いそうです。これも領民に慕われたことの表れではないでしょうか。

 次に大河ドラマ「独眼龍 政宗」での義光ですが、これは伊達側から見た歴史ですので当然のことながら敵である義光のことは悪く描かざるを得ません。伊達家は幕末まで大藩を維持しましたので、比較的に当時の記録が現在まで残っています。反面、最上家は改易になったこともあり有力な史料が乏しいという事情があり、そのため最上家の調査にも伊達家の記録から引用することが多かったのです。そこに義光の評価が芳しくない理由の一つがあるのです。私が思うに、「冷酷無残」という表現は義光よりも政宗によく当てはまるのではないでしょうか。政宗はその生涯に幾度かの大虐殺を行っていますが、義光にこのような行為はありませんでした。また、義光は中野義時、上山満兼などの一族でも自分に逆らった者は殺していますが、自分に味方したものは約束に従い新たな城主に据えたりして手厚く遇しているなど、実に情の厚いところもあるのです。一族や兄弟を抹殺することは織田信長や伊達政宗もやっていますし、徳川家康は嫡男をも殺しています。つまり戦国時代は親兄弟と言えども信用できない時代なのです。ですから、当時の事情をまったく考慮せずに非難することはいささか偏った見 方ではないでしょうか。

 

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