最上義光って、だれ・・・?

 

 

 最上義光という人物については知らない方も多いはずです。東側の大手門から霞城公園内に入ったところにある銅像をご存知でしょうか?上の画像がそうです。この馬に跨った勇壮な人物が最上義光その人です。ただ、参考となるような義光の肖像は現在のところ残っていませんので、この像もあくまでも推定によるものでしかありません。

 さて、では最上義光について具体的に説明しましょうか。

 義光は天文15年(1546)最上家当主であった義守の嫡男として生まれました。しかし義守は義光よりもその弟の義時を愛したため家督相続の争いが起こります。両者は一旦和睦し義守は隠居しますが、義時が再度叛意を持ったために誅殺します。この頃の義光は四面楚歌の状態で、その中でももとは同じ一族であった天童城主天童頼澄が大きな力を持っており最大の脅威でした。義光は頼澄の盟友であった延沢城主延沢満延に的を絞り、その嫡男光昌に自分の娘を嫁がせるなどして懐柔し、これが功を奏してやがて頼澄を追い出すことに成功します。この後近辺の一族を従え、また白鳥氏、寒河江氏、大江氏などを滅ぼし、現在の村山、最上地方にあたる領域を支配することになります。この間、陰に陽に最上家に関わってきたのが隣国の領主伊達輝宗です。輝宗は義光の妹である義姫を正室に迎えていますが、最上家の家督争いでは義時の側につくなど積極的に介入し義光と敵対しています。義光もこれに対抗し、大崎氏、蘆名氏、佐竹氏などと共に伊達包囲網を形成し、輝宗や政宗を苦しめます。

 村山、最上地域を支配下においた義光は更なる拡張を目指し、仙北の小野寺氏、庄内の武藤氏などとも争うようになります。武藤氏の家臣を叛意させ当主の義氏を謀殺することに成功し庄内を領有することになると、今度は越後の領主上杉景勝とも干戈を交えるようになります。武藤氏の名跡を継いだ息子の後ろ盾として本庄繁長が越後の村上から怒涛のごとく侵攻し最上勢は敢無く敗退、庄内支配は水泡と帰します。

 

 

鶴岡市内から善宝寺に向かう道路沿いのG.S.の裏に、このときの戦いで最上勢として戦い死んだ東禅寺右馬助の首塚があります(左の画像)。また、羽黒山に向かう道路沿いにはこのときの戦いを伝える案内板が設置されています(右の画像)。もし近くをお通りの際は探してみてください。

 庄内を奪われた義光は豊臣秀吉に訴えますが、本庄繁長は処罰されたものの庄内はそのまま上杉景勝の支配となってしまいます。秀吉の死後、同じ奉行同士(大老というのは間違いらしい)だった徳川家康と上杉景勝が対立し、上杉討伐のため家康は景勝の領地会津に向け進軍します。義光は米沢口からの攻撃を担当し、この部署の責任者に命じられますが、栃木県の小山あたりまで来たときに石田三成の挙兵を知り引き返します。米沢口に集まりつつあった秋田、仙北の諸将、及び南部氏もこれに伴い自分の領国に引き返します。この隙を狙い、上杉家の宰相直江兼続が置賜、庄内の両面から最上領に侵攻し、義光は生涯最大の危機を迎えます。庄内からの侵攻により谷地、山辺などの城が落ち、白鷹から来た兼続の本隊により畑谷城は数百人が全員玉砕し、居城である山形城も風前の灯となってしまいます。しかし上山口では守将里見民部が上杉軍別働隊を破り司令官の本村氏を討ち取り、長谷堂城では守将志村伊豆が兼続本隊を相手に粘り強い戦いをします。そして関が原西軍敗退の報が入り、上杉軍は空しく引くことになります。翌年、義光は庄内討伐の兵を起こし、志田 修理ら上杉の諸将を追い出し、念願の庄内領有を果たします。そしてこれらの功が家康に認められ、現在の村山、最上、庄内に秋田の雄勝や由利辺りも加えたおよそ57万石という生涯最大の版図を獲得します。

 順風満帆にも見えた義光の人生ですが、やがて暗い影を落とします。嫡男義康との仲がうまくいかず、高野山に蟄居させることとなりました。そして高野山に向かう途中、何者かによって襲撃され非業の死を遂げます。通説では義光の命ということになっていますが、どうもそうではないようです。義光の死後最上家は家康の下で小姓として仕えていた次男の家親が継ぎますが、わずか3年後謎の死を遂げます。その後家親の嫡男義俊が幼少ながら最上家を相続しますが、後にお家騒動が起こり改易させられます。鳥居氏が新しい領主として山形に赴任しますが、その後の山形は半ば左遷地のような扱いを受け、領主も度々変わったため、満足な領地の整備が行われません。そのため、今でも義光の行った領地整備の名残が残っています。もし、最上家が江戸時代もずっと続いていたら・・・・・、と考えずにはいられません。

 

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