オリーブの木
聖地の子供ニュース NO.6から |
パレスチナ住民の現状
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カトリック聖職者と聖地の司教会議に提出されたもの
クローデット・ハベシュ(カリタスエルサレム事務局長)
2003年1月 エルサレム 今日のパレスチナの状況は、単に2000年9月に始まったインティファダの結果だけではなく、半世紀以上にわたって数々の不正が行われ続けた結果です。今までの経緯は次のように要約出来ます。 1 1948年当時のパレスチナの78%にイスラエルが建国された時、大量の難民が発生した。その大多数は現在もなお難民キャンプでの生活を余儀なくされている。 2 1967年の6日戦争で、東エルサレム、西岸地区、ガザ地区にイスラエルの占領が始まった。占領はジュネーブ協定への違反であり人権の侵害である。これは、パレスチナ人の強制移住、土地の没収、占領地の天然資源のコントロール(たとえば水)、また政治活動家の集団国外追放、集団懲罰、不当逮捕拘禁、人々や物資の移動の制限などを意味する。 3 オスロ合意にもかかわらず、パレスチナ人はそこから期待し望んだ結果や利益を何ら感じることが出来ず、相変わらず占領と圧制のもとで生活し続けている。 4 イスラエルの入植地はパレスチナの村や町を取り囲むように建設されているため、領土は寸断され、自由な移動は全く出来ない。あらゆる所に検問所が設置され、永続的に遮断されている道路も多いからだ。ガザ地区がヨルダン川西岸地区から孤立していることも、パレスチナ人の苦しみをいっそう深刻なものにしている。 5 エルサレム問題、難民の帰還問題、入植地問題など、パレスチナ・イスラエル紛争の核心はいまだに解決のめどが立っていない。 6 国連はイスラエル・パレスチナ紛争に関する国連決議を実施させることが出来ない。 7 パレスチナ自治政府は、パレスチナ社会の窮乏と苦しみに対処する能力がなく、信頼を失墜した。 以上のすべてが要因となって、和平交渉は完全に挫折し、第二インティファーダに突入してしまったのです。また事態をさらに悪化させたのは、現在の政治システムが、穏健な反対勢力の活動を禁止していることです。それは政治的な和平交渉以外の方法で結果を出そうとする過激派グループにとって、むしろ格好な環境でした。過激派グループがパレスチナ人の間で勢力を増すにつれ、イスラエル人の間でも同様になり、双方の多くの無実の命を奪うこととなりました。 パレスチナ人はもはや自分の家でも、難民キャンプでも安全ではなくなり、同様にイスラエル人もバス、道路、店でもはや安全ではなくなったのです。 イスラエルはパレスチナ人に対し、圧倒的で過剰な軍事力を用いており、無差別殺戮(死者1918人のうち19%が17歳以下)、負傷者(41,000人のうち2,500人は治癒不能)家屋の破壊と砲撃(全壊720戸、損壊11,553戸)、パレスチナ過激派の正規の裁判を経ない死刑執行(185名)、不当逮捕および拘留(6,000名が現在拘束され、内子供350名)があとを絶ちません。 このようにイスラエル軍による継続的再占領、侵略、長い外出禁止令はパレスチナ社会の荒廃を招き、1967年の戦争以来未曾有の人道的危機を引き起こしています。 経済分野 社会の根幹である経済が崩壊してしまいました。観光、建設、農業、通信、公益事業、産業などの各分野で国内投資と外国からの投資が全面ストップし、その多くは人員削減を余儀なくされています。失業率は国境封鎖により倍増されました。イスラエルに出稼ぎにいっていた20万人を超すパレスチナ人労働者が失業したからです。GNPは51%に落ち、パレスチナ人口の75%は窮乏(米ドル1日2$)以下の生活をしています。 パレスチナ自治政府が巨大な財政赤字を抱えており、支出のほとんどを全面的に援助国に頼っていることは言うまでもありません。このことはまた政府に、医療、教育を支え、水道、電気、ガスなどライフラインを整備・発展させる必要資金がないことを意味しています。 教育分野 この2年間、教育システムが十分に育たず、教師の給料が十分に支払われていないだけでなく、学校教育は深刻な打撃を蒙りました。教育相によると、850校が一時閉鎖、9校は破壊、8校は軍の兵舎にされ、11校は全壊、185校が砲撃を浴びました。通学、帰宅途中で132人の生徒が殺され、2500人が負傷し、閉鎖と外出禁止令により1135日の通学日が失われました。学生も教師も、学校や大学にたどり着くために種々の困難に立ち向かわなければなりません。たいていは晴雨にかかわらず検問所を避けるため、普通は20分の道のりを2、3時間もかけて山の中、谷、泥道を歩かざるを得ないのです。また学生たちは、たとえ朝学校へ行かれても、何時外出禁止令のために帰宅できなくなるかわからないなど、多くの心理的問題に直面しています。 医療分野 西岸地区やガザ地区の病院では医療サービスや専門治療の多くが受けられません。さらに患者は村や離れた地区から町の中心地まで治療を受けに来ることができない。また救急医療チームに対する組織的な攻撃もありました。 宗教分野 西岸地区、ガザ地区のイスラム教徒とキリスト教徒は、エルサレムのモスクや聖墳墓教会へ祈りに行くことは禁止されており、外出禁止令の時は、それぞれモスクや教会へ行くこともできないのです。 社会面 結婚と他の社会的行事は、外出禁止令が解かれるか否かによって決められます。葬儀の多くは、家族や友人との最後の別れもなしに埋葬されます。(中略) われわれパレスチナ人は、変化を受け入れる多くの人々がいることを期待しながら、平和を追求し、それに向かい努力しなければなりません。私たちはイスラエルの側にも同じような人々を見つけたいと考えます。これは両サイドの穏健なグループの声を強めるのに役立つでしょう。1948年、国際社会は聞こうともせず何もしませんでした。1967年、パレスチナ人は自分の国で生き、繁栄する正当な権利をはく奪されたままに捨て置かれました。 今国際社会、世界中の教会、そして政府に対しお願いいたします。パレスチナ人、イスラエル人双方を助けるために、断固とした行動をとってください。ここは、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒にとって共通の聖地です。この聖地に1日も早く平和をもたらすために、わたしたちは皆さまの力強い介入と調停を必要としております。
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