エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.198

ベツレヘムだより(52)    2003年4月14日
トワーヌ・ファン・テーフェレン


苦しみ

 ベツレヘムの街を歩いていると、壁や商店のドアに張られた、大きな肖像写真が載ったポスターをよく見かけます。これらのポスターには、古くて破れた物もあれば新しい物もあります。これらはシュハーダ(単数形はシャヒード)すなわち殉教者の写真です。欧米人には殉教者という言葉は時代遅れに聞こえるか、それとも宗教や国家のために命を喜んで捨てることのできるような人の極端な性向を連想させます。しかし、パレスチナでは殉教はそれより広い意味を持っています。実際に、民族闘争の中で命を失った人はだれでも殉教者とされます。それは戦闘や超法規的処刑の近くにたまたま居合わせた人たちにも当てはまります。先週ガザで7人がロケット攻撃で亡くなりましたそのうち2人はハマスの指導者とその助手でした。2人の子供を含むその他の犠牲者は通り掛かりの人たちで、あわてて現場に駆けつけたときに、新たに発射されたロケット弾の攻撃に遭いました。

 また、2週間前に超法規的処刑のために亡くなった10歳の少女、クリスティーヌ・サーデも殉教者です。ポスターには、クリスティーヌの顔の横に十字架とパレスチナの旗が並んで表されています。そのポスターはベツレヘムの街の壁と家族の家の回りに張り出されています。先週の初めアラブ教育研究所の代表を伴って家族の家を訪ねました。父親のジョージはまだ弱々しく顔色が蒼白でしたが、回復しつつありました。ジョージの妻の表情は、家族が今感じている大変な悲しみを表していました。女性たちは黒衣をまとい、車座になって座っていました。彼女たちの顔は苦痛と疲労で消耗しきっていました。ジョージは、エルサレムで良い弁護士を見つけてほしいと私たちに依頼しました。ジョージは行動を起こして、圧倒的な無力感となんとかして戦おうとしているようでした。 訪問から戻ってきて、感情を押さえることができずにこの世を呪いました。なぜこのようなことが、あんな小さな子供のいる家庭に起こらなければならないのでしょうか。

 マリーはイラクでの爆撃を見て肉体的苦痛を感じました。傷つきそして命を奪われるすべての人々のことをマリーは思いました。多くのイラク人が感じている解放感にマリーは共感できません。マリーのお気に入りのエジプトの歌はドゥムア、すなわち涙です。オランダ人の冷静さに影響を受けている私には、この歌は少々メロドラマ的に思えます。地元のテレビで苦しみの様子を絶えず流す事は、それを克服することをより困難にし、被害者としての立場を固定化するのではないだろうかと、モルコス家(義理の家族)の拡大家族の中でよく議論しています。しかし、この苦しみについて何ができるのだろうかと人々は問いかけます。多くの場合はほとんど何も出来ません。子供が政治的暴力で亡くなった人たちからなる「遺族の親」を結成したイスラエル人とパレスチナ人の団体の行動が思い浮かびます。これらの人々は、苦しみを通し、占領に反対する政治的プログラムに基づく自分自身と他者への和解に達しようと努力しています。

* * *

 苦しみを受けて弁護士を求めている人が他にもいます。それはアラブ教育研究所青年グループメンバーのイマド・オゥエィネです。イマドはビレツ大学の前途有望な学生です。ベツレヘムに住むオランダ人のフランシスコ会士ルイス・ボーデに宛ててイマドは自分の体験を記しました。ビレツはベツレヘムの北のラマラからさほど遠くないところにあります。ベツレヘムからビレツに行くためには臨機応変でなければなりません。2週間前イマドは他の学生や年長者と野原と丘を横切り、閉鎖されているラマラ〜ビレツ間の検問所を迂回しようとしました。特に年長者は歩きそしてよろめき、走りました。丘に潜んでいるイスラエル兵に捕まるのではないかと明かに恐れいていました。過去1年間、イマドはアラブ教育研究所が開催を協力した行進やデモに積極的に参加しており、公然たる非暴力抵抗の支持者です。イマドはこのことを普段の態度でも表していました。かれは威嚇的ではありませんが、簡単にはおじけづきません。 イマドは丘の上にいる兵士たちの視界に入ったときも逃げ出さず、落ち着き払って歩き続けました。兵士が来るようにと招きました。イマドは、特に老人たちが安心して岩の間を通りぬけさせてもらえるように、兵士たちと理性的に話し合うチャンスがあるだろうと確信して、落ち着き払って言われるとおり兵士の方に向かいました。その態度が兵士の気に食わなかったのです。兵士は侮辱的な言葉を続けざまにはき捨てました、そしてその次に何が起こったかイマドには思い出せません。最後に自分の体が完全に麻酔にかかったように感じました。それから顔面に痛みが走りました。イマドは甚大な被害を受けていました。あごを砕かれていたのです。苦しんでいるイマドに対して兵士は水も応急処置も与えずに、そこに留まるように命じました。通りかかった他の兵士もまったく当たり前のことを見ているかのように振る舞いました。「これはわれわれが投げつけられる何百もの石に対するお返しだと思え」と加害者の兵士は言いました。イマドは3時間後に立ち去ることが許されました。イマドは手術を受けましたが、これから何週間もの間しゃべることも、固形物を取ることもできません。しかし、戦争と占領に反対し平和と正義を求めるための示威行為を行っている地元のパレスチナ人と国際支援者が最近開催した、聖誕広場での日曜の夜のビジルにイマドは参加していました。「もちろん私はイスラエル人に殴られたり撃たれたりした初めてのパレスチナ人ではありません。そして私はそのような最後のパレスチナ人でもありません。またこれはイスラエル軍がパレスチナ人に加えた怪我のうちでもそれ程ひどいものでもありません。またこのけがは、私たちの長い間の苦しみやイラクでの恐るべき戦争ほどは重要ではありませ。また世界中の何千もの紛争や病気に比べても同様です。しかしそれだからこそ多分自分が何かできるのではないか、パレスチナ人と正義のために勝利を得ることができるのではないかと考えます。」さまざまなパレスチナとイスラエルの団体がイマドの証言を記録しました。

* * *

 苦しみや犠牲者を見ないためには海外に行かなければならないとヤラは言います。オリーブ山から聖アンナ教会までの枝の主日の行進では、ヤラは肩車してもらわずに、自分で歩きたがりました。ヤラももうお姉ちゃんです。行進にはベツレヘムからの代表団が参加していました。代表団はベツレヘムから出る許可が得られて意気揚揚としていました(申請したすべての家族が許可を得られたわけではありません)。ホザンナを歌い歓声を上げる群衆に、白と黄色のバチカンの旗を身にまとった少年が肩車されていました。「ベツレヘムよ静まりなさい。ここは聖なる都です。」と1人のフランシスコ会士が上機嫌で言いました。多くの青少年たちにとって、この行進は西岸の牢獄から逃れて悩みを忘れ、異性と出会う行楽でもあります。行進の間、平和の歌がさまざまな国の言葉で歌われました。

 ヤラは学校で復活祭の習慣について教わりました。例えば茨の冠やイエスの墓をふさいだ巨大な石の形をしたクッキーを焼いたりすることです。赤いリキュールはイエスの血を表します。復活祭の卵は、墓が開いたことと復活を象徴していると先生に教わりました。実は地元の多くのイスラム人の家庭では、クリスマスツリーを買うのと同様に、復活祭には卵に色付けをします。全般的な状況や住民の困窮のために、多くの祝祭やパーティーは取りやめになったり控え目に行われたりしていますが、クリスマスと復活祭はベツレヘムの家庭生活においてはいまだに重要な行事です。これらの行事は、しばしの間人々の苦しみを和らげてくれます。

 ほとんど取るに足らないことですが、去年の聖金曜日に生まれたタメルは、歯が生えてきているので痛がっています。タメルは泣いても長く泣き続けることはありません。「ママはどうしてこんなにかわいい赤ちゃんを生んだの」とヤラはマリーに向かってため息をつきながら言い、タメルばかりに構っていることにいら立ちを表しています。


もどる


HOT NEWSのもくじ

トップページに戻る