エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.196

<インタビューシリーズ>
Sana'a Abu Ghoshとのインタビュー

Sana'a Abu Ghoshはベトレヘムの南西、Battir村の女子校UNRWAの校長です。アラブ教育機関の理事でもあります。彼女はBeit Jalaに住んでいます。

貴女にとってパレスチナ人イスラム教徒であることの意味は何ですか?

 先ず私はアラブ人であること、第二にパレスチナ人であること、第三にイスラム教徒であることです。アラブ人であり、パレスチナ人であり、イスラム教徒の女性である、これが私のアイデンティティです。

Beit Jala(ベイトジャラ)でイスラム教徒とキリスト教徒が一緒に住んでいることをどのようにご覧になりますか?

 私達はここに、一つの家族のように住んでいます。私は今までずっとBeit Jalaで、キリスト教徒の中で暮らしてきました。私は、キリスト教の学校に行きましたし、隣人は全てキリスト教徒ですし、私の友人の大半はキリスト教徒ですからキリスト教徒と違っていると感じたことは一度もありませんでした。ですから私にとり、ここに住むのに何の問題もありませんでした。私は彼らと同じようです。Beit Jalaにはキリスト教徒より学歴の低いイスラム教徒がいます。貧しくはありませんが、女の子たちを高等学校にやりません。彼女たちは市場で野菜を売っています。教育を受けていないし、中流階級ではありません。時にキリスト教徒は、イスラム教徒は皆彼女たちのようであるという印象を持つかもしれませんが勿論、高い教育を受け、良い身なりの中産階級のイスラム教徒もいます。

 Beit Jalaのキリスト教の環境は、イスラム教徒にとりとても快適です。何故なら、ここのキリスト教徒の「男性」は、女性を余りじろじろ見ないようです。彼らは女性に話しかけようとはしません。イスラムの女性を性的に考えようとはしないのです。彼らは偏見のない人たちです。少年たちは少女たちときょうだいのように遊んでいます。イスラム教徒にとって居心地がいいわけです。このためここの私たちの多くは、キリスト教徒の中に住むことを好みます。キリスト教徒は隣人と仲良くします。興味津々でもなければ騒がしくもありません。もし私たちの許を訪れたいときは、電話をしてきます。私達は関わるのが好きですが一日中ではありません。他の場所では、違います。私の叔父は、エルサレムのオールドシティーに住んでいますが、彼の隣人はすべてキリスト教徒です。朝一緒に出かけ、イスラム教徒、キリスト教徒、一緒にコーヒーを飲みます。Beit Jalaではそういうことに慣れていません。時々私達は忙しすぎるのです。けれども暇なら、私達は出かけ、飲み、噂話をします。

 キリスト教徒の中に住んできたので、私は彼らのことを知っています。私達は学校で、「ハレルヤ」のようなキリスト教の賛美歌を習ったものでした!!(笑い)それによって問題があったわけではありません。自分の祈りを知っていましたから。両親も私をキリスト教の環境に連れて行くとき、このことを分かっていました。私は自分の宗教を知り、キリスト教徒とどこで関係を止めるべきかを知っています。私は沢山の友人を持っています。けれども私の宗教がキリスト教徒とは、結婚すべきでないというなら、私は出来ません。私達は友人であり、隣人であり、そのようなものですが、イスラム教徒は、キリスト教徒の家族に嫁ぎません。これは禁じられています。私はこのことを知っていますし、彼らも知っています。

イスラム教徒とキリスト教徒の間で何か問題はありますか?

 Beit Jalaではキリスト教徒が多数派で、イスラム教徒が少数派な為の差別はあります。エルサレムやラマラでは、イスラム教徒が多数派でキリスト教徒が少数派なので、差別は反対だと言うことを付け加えなければなりません。時々、宗教の故の差別のようなものを感じることがあります。例えば、キリスト教の高等学校で働こうとしましたが、もし私がキリスト教徒であればそこで働く機会がもっとあったように思われます。他には、ここベツレヘム地域では、キリスト教徒が好まれ、イスラム教徒はキリスト教徒が居ない場合にのみ任命されます。

 差別は時々土地の所有権について起こります。Beit Jalaの村はもともとキリスト教徒のものでした。私達はイスラム教徒の難民で、ここに来て彼らから沢山の土地を買いました。1990年、私の家族が家を建てるために土地を買いたかったとき、キリスト教徒はこれ以上イスラム教徒に土地を売らないことに決めました。最初、父がある人に話し買う土地のことで合意していたのですが、しばらくしてこの人は気が変わり、土地を売りたくないと言いました。ところが彼はその土地をあるキリスト教徒に売ったのです。Beit Jalaの周辺地の殆どは、イスラム教徒が所有しています。特にヘブロン地域、何故なら彼らは裕福で土地を買う余裕があるからです。Beit Jalaの土地は、環境がよく、とても静かで、非常に清潔なので、このあたりでは一番高いのです。

 他の例では、ドーハ(ベツレヘムの南部地方自治区)は、Beit Jalaに属する土地につくられました。そこはイスラム教徒によりその殆どの土地が買われ、キリスト教徒はほんの僅かであるため、Beit Jalaはその土地が自治体に含まれることを好みませんでした。後にドーハは自分の自治体を持ちました。これも宗教による差別だったといえます。

 時々イスラエルが、私たちの仲をイスラム教徒とキリスト教徒に分けようとします。例えば少し前、Beit Jalaのキリスト教墓地で十字架が壊されました。イスラム教徒がキリスト教徒を嫌っていたのでそのお墓を壊したというわさが広がりました。けれども偏見の無いキリスト教徒とイスラム教徒たちは集まり、イスラム教徒がそのようにキリスト教徒の所有地を攻撃することなど実際あり得ないことだと言いました。パレスチナ人当局は捜査を始め、二人の知恵遅れのキリスト教徒の仕業だと分かりました。この人たちは精神医学上の問題がありました。イスラエル人は彼らに破壊行為を行うようお金を与えたのでした。それは私たち皆に、イスラエル人の占領下で生活していることを忘れさせるため、ベツレヘム地域のイスラム教徒とキリスト教徒の間に問題を起こさせる一つの手段でした。生誕教会攻囲の間、イスラエル人は国際世論に、イスラム教徒とキリスト教徒間の問題を強調しようとしました。40日間いたイスラム教徒が教会の中をわざと汚したと言ううわさが流れました。でも何故彼らは教会の中に避難したのでしょう。もしあなたが弱く、保護を望んでいるならモスクや教会に行くでしょう。これはやはり1967年に起こったことです。ベツレヘムからの大勢のイスラム教徒やキリスト教徒が身を守るため生誕教会に入りました。イスラム教徒とキリスト教徒の関係について広まるうわさは、イスラエル人の占領(特にベツレヘムでの)作戦であることを、私達は知っています。かれらは、より大きな問題から注意をそらせようとします。人はもし自分に問題があれば、より大きい問題を見ようとしません。

 私たちの最大の問題は勿論、占領です。去年私達は、約6ヶ月近く外出禁止令下にありました。外出禁止令は私たちを抑圧し、神経質にさせます。インティファダのはじめ、イスラエル人はBeit Jalaのたくさんの家を破壊し、イスラム教徒もキリスト教徒も、他の地域に引っ越すか移住しなければなりませんでした。彼らは私の家にも火をつけました―――(彼女は私を外に連れ出し、弾丸の穴を見せました。)―――電気も無く。彼らが線を切ったのです。電話線も。弾は窓から撃ち込まれ、父の頭の僅か数インチ横を通り過ぎました。父は自分が立っていた場所が家の中で一番安全だと納得しました。後で彼らが撃っているとき父は私を呼び、「Sana'a おいで。私は一人で死にたくない」と言いました。私達は長い間、本当に苦しみました。まる二十日間電気も水もありませんでした。外にでるたびに軍隊が「動くな」と言いました。道路は全て戦車で壊され、修復に一年もかかりました。

パレスチナ人の多重性を強調するPNA戦略をどう思いますか?

 ヤセル・アラファトはいつも、イスラム教徒とキリスト教徒の絆を強めようとしています。そのため彼は、キリスト教徒を当局の中で大変微妙な立場に置いています。パレスチナ上院で定数を割り当てられています。これは、彼らに自分たちは少数派ではない、むしろ多数派の一部であると感じさせるためです。私は、これは別にかまいません。毎年アラファトは生誕教会のキリスト教聖餐式に出席すると主張します。彼はキリスト教の女性と結婚しています。

イスラム教徒とキリスト教徒のパレスチナ人は、どのようにお互いに学びあえるでしょうか?

 お互いを学ぶ一番良い方法は、何かを一緒にすることです。例えば一緒に断食したり、あるいはイスラム教徒、キリスト教徒として一緒においしい食事をしたり、パーティー、お祭り、といった社会活動をしたり、あるいは合同の学校活動をしたり。何故なら私達はベツレヘム地域でキリスト教徒の間に住んでいるため、差別しないというだけではなく、受け入れに値する人を受け入れること、つまり宗教を基にするよりも能力を基に、イスラム教徒かキリスト教徒かに関係なく受け入れることを学ぶのは、やさしいのです。両グループからの心の広い人たちは橋をかけようとしています。ベツレヘムでは、キリスト教徒とイスラム教徒が関わりあえるように努力している多くの学校があります。例えばLiqa Center,アラブ教育機関、Freres School等で、それらはヘブロンとベツレヘムの間で企画を実施しています。18万人の町ヘブロンに住むキリスト教の家族はたったの23軒です。もしキリスト教徒の中に住まなかったら、その人たちのことを知らなかったでしょう。

あなたは学校で、どのようにキリスト教について話していますか?

 Battirでは全員がイスラム教徒です。キリスト教徒はいません。先生も全員イスラム教徒です。

 パレスチナのカリキュラムは教会やキリスト教徒について触れています。他の宗教に対するイスラム教の歴史について教えます。私の意見では、イスラム教は大変良い宗教で、他を寛容に扱います。自分たちを相手と等しいと考え、相手を尊敬します。このことは、学校で教えられる歴史の中にあります。例えばCaliph Omar Ibh Khattabがエルサレムを取ろうとやってきたとき、キリスト教徒が彼のところに来てエルサレムの鍵を渡しました。かれは兵士に、これ以上殺さないように、樹を切らないように、他者を尊敬するように命令しました。祈りたいとき、聖墳墓教会には行きませんでした。そこに行くことを断ったのです。他の宗教を敬い、兵士たちと近くの場所―後のオマールのモスク(聖墳墓教会の近く)に行き、祈りました。

 コーランは、アラブ人と他の人々の間には違いがないと言います。人々を区別するたった一つのものは'Taqwa'つまり、神への尊敬、神への畏れです。ですから、私とヨーロッパ人の間には違いが無いわけです。これはイスラム教の信仰です。そしてこれらのこと全てが学校で教えられます。テロリストになるために教育されているわけではありません。又、コーランがイスラム教を守るため、真理のために戦わなければならない、もし誰かが私たちを攻撃したいなら、自分たちを守るため戦わなければならないと言っていることを否定できません。イスラム教に差別的な世界の多くの政府は、イスラム教徒をテロリストだと言います。

 私達は、地元の教育機関を通じて活動しようとしています。学生たちや先生の多くは、Freres SchoolやSt.Josephといったキリスト教学校とこれらの活動を分かち合っています。あるプロジェクトでは、二人のイスラム教少女(内一人はBattirから)、二人のキリスト教少女と共にベルギーへ行きました。四人の少年たち、私を含む四人の大人もいました。それはとてもよい経験でした。夏のキャンプでは、グループを作り、パレスチナ問題について話し合いました。多くのベルギー人がイスラム教徒とキリスト教徒の関係について質問しました。ある人たちは全てのイスラム教徒がベールをかぶっていると思っていました。私達は、私たちの宗教がそれを着けるように勧めますが、それを望むか望まないかは自分や家族しだいであること、又、どのように生きているかによることを話しました。彼らはイスラム教について、ステレオタイプなのでそのように考えるのでしょう。実際、彼らは私の髪や容子から私がイスラム教徒だと思いませんでした。私をキリスト教徒だと思いました。これが人生で、人々はこんなものです。皆が皆、偏見が無いわけではありません。旅行の情報が、参加した学生を通して私たちの学校へもたらされました。同じ企画の以前の活動の中で、私達は野外活動を行いました。そして多くのパレスチナ人が(キリスト教徒もイスラム教徒も)Battirを訪れ、私達は皆を案内しました。地元のイスラム教、キリスト教の聖なる場所をたくさん訪ねました。私は、気分転換のためそして環境を見るため、一般に学校の外に行くのが好きです。

来週はHaniaBitarです。


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