エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.195

インタビューシリーズ

友人の皆様
アラブ教育機関(私はこの組織の理事の一人ですが)は、「エルサレムタイムス」と共同でパレスチナ人の宗教的アイデンティティについてのインタビューシリーズを始めました。

このシリーズは次のように紹介されています。

「分断と隔離」をふくめ、パレスチナ共同体が現在その下で生活している巨大な圧力。その圧力のもと、何がパレスチナ人を、アイデンティティを持った生活共同体としてまとめ、一つに保っているのか省みる必要があります。その中で宗教はどういう役を果たしているのか、また、教育やメディアといった主要な社会的分野でパレスチナ人のアイデンティティの宗教面がどのように表現され、伝達されているか、あるいは伝達されなければならないのでしょうか。海外のまだ知らされていない視聴者に、それはどのように効果的に伝えられるべきでしょうか。これらの、また、これらに関係のある諸問題がKatharine Maycock(イギリスの学者。ベツレヘムのアラブ教育機関で『クエーカーの平和と社会的証人』のボランティアーとして働いた)により探求されました。

シリーズ最初のインタビューは、教会中東評議のパレスチナ難民サービス局長であり、ベツレヘム大学講師であるバーナード・サベラ博士です。
                             トワーヌ・ファン・テーフェレン

バーナード・サベラとのインタビュー

エルサレムタイムス   2003年3月7日

 私達はキリスト教とイスラム教共存の伝統を持っていると、現実に私は信じています。私達は、お互いに文化、言葉、音楽、食べ物、地理、環境そして聖地を分かち合っています。私達は共通の歴史を持ち、共通の遺産と共通の体験を持っています。このような関係において、私たちイスラム教徒とキリスト教徒の体験は、例えばマレーシア、ナイジェリア、インドネシアやフィリピン、また、オーストラリア、カナダや合衆国、ヨーロッパのイスラム教徒とキリスト教徒の体験とは違うのです。それは、お互いを利するユニークな性質を持った体験なのです。何故なら、西欧が何も知らないこのような体験について、メッセージを広めることはとても大切だからです。西欧には、イスラム教を使って、特に軍事的イスラム教を使って攻撃を正当化したりステレオタイプに広める政治家がいるので、これは現在、特に大切なのです。私たちが知っているイスラム教徒は、西洋の政治家が言うイスラム教徒とは違います。

 私は誇張しているわけではありませんが、私達は共存という美しい絵を持っています。私は一ヶ月ほどオーストラリアに滞在しました。そこでこのことを話すと、あるオーストラリア人は理解できませんでした。「でもこれがイスラム教の隣人と友好的に平和に生きている私たちの体験なのです。」そして彼らに、「国の政府がこのような多元主義方針を奨励しているのです。アラファト議長が、イスラム教徒とキリスト教徒が、特に行事とか社会的文化的その他の開発の際、共にするよう主張しているのです」と言いました。ですから、西欧はこのことを知らないのだと思います。他の宗教と共に生きているイスラム教を示すこの体験は今日、残念なことに、西欧では存在しないのです。

 9月11日の後フランスのジャーナリストから「サベラ博士、怖くありませんか?」と聞かれました。「何を恐れるのですか?」と私は言いました。「イスラム教徒があなたに何か悪いことをすることを…。」私は答えました。「冗談でしょう。どういう意味ですか? 彼らはパレスチナ人の兄弟姉妹ですよ。共に育ち、隣り合わせに住んで、一緒に学校に行っているのです。何を言っているのですか。それはあなたの精神構造でしょう。私の体験ではありません。私の周りの世界に対する、私の認識に基づいた見方ではありません。ですから私にそのようなことは言わないでください。」

 このような関係において、パレスチナ人キリスト教徒であることは、単に私はここにパレスチナ人として生きている、そして私の宗教はキリスト教だという事です。この二つは混在し、私はこの地に属し、この地がどのパレスチナ人であれその人に属していると同様に私に属していると言う意味なのです。私にとってそれは、こういう意味なのです。この二つの間にはなんら複雑さも葛藤もありません。以上です。いまだかつてただの一度も私のパレスチナ人としての生活、歴史、体験には、私のキリスト教徒としてのアイデンティティとの問題がありませんでした。そしてこのことが、おおっぴらに腹を据えて話すということ(つまりこの場合にはイスラム教について)、私たちがパレスチナで体験してきたイスラム教について話すということだと思います。ですから私は、完全にパレスチナ人だと感じています。

 パレスチナ人社会に全然問題が無いといっているわけではありません。基本的にパレスチナ人は、大変宗教的な、極度に宗教的なグループです。私はあるとき学生たちに、パレスチナ人、イスラム教徒もキリスト教徒も、その全ての信心深さが、実践されることを望むと言いました。私達は素晴らしい。祈る人です。しかししばしば祈る精神を応用しないのです。あまりにも弾圧されているので、私達は皆乱闘を始めたり、無感覚になるのです。ですから私は、祈る人として私たちから来る一致を、パレスチナ人の文化と社会に最もよく反映される社会的一致のようなものへと変化させる必要があると思います。

共同体の中の問題について何か、詳しく話してください。

 ある土地をある場所に持ち、その土地を巡って紛争または商いがあり、いったい誰がそこに住む権利があり、誰に権利がないかという事柄に、時に敏感になります。もしそれが、キリスト教徒とイスラム教徒にかかわる場合、ある人々は実際には存在しない宗教的次元で勝手に、また自動的に読み取ろうとします。これはまったく、ナブルスの誰かがエルサレムの誰かと問題を起こすようなもので、ナブルスの人とエルサレムの人間の問題になる必要は無いのです。

 宗教的レッテルを貼ることは、各々の地方で社会的、経済的、政治的原因があり、ベツレヘムやナザレでのように宗教集会を持てば持つほど、宗教集会は両サイドに宗教的レッテルを貼りがちになります。その原因がわからなければわからないだけより多く、イスラム教徒とキリスト教徒といった宗教的レッテルを貼り付けることになるのです。ベツレヘム、ナザレといった町における関係の力学を理解するには、根本的な原因―経済的、社会的、家族その他の根本的な原因を理解する必要があります。彼らはイスラム教徒だからこんなことをするとか、キリスト教徒だからこんなことをするとか、単純に言うことは出来ません。それは実際、物事を単純化しますが、同時に彼らを混乱させます。何故なら問題の原因は宗教ではないのに、宗教的次元が問題の原因となるからです。それは、本当の原因を説明するための、あるいは隠すための宗教の利用、悪用です。

あなたは土地の問題を指摘しました。この原因は何でしょうか?

 ここには長い間居たから、あるいはあれこれの理由で、この土地は私たちのものだと言い張る人がいるかもしれません。今は小さな家族が土地を持ち、その土地の証書を持っているのです。数で圧倒する、より権力のある部族やグループがそのことを信じないということが起こっています。彼らは正しいかもしれないし、間違っているかもしれません。そのために法律を持つことが重要なのです。法廷制度が巧く働き、この核家族や親家族が属するイスラム教徒やキリスト教徒としてではなく、パレスチナ人一人一人をパレスチナ人個人として扱うことが大切です。

 差別されたとか、彼らが持っている土地を放棄させられたと証しているキリスト教徒やイスラム教徒の家族の主張が正しくないと、私は言っているわけではありません。私が言っているのは、ここには宗教を基にしていない権力政治があるということです。それは、人間性、社会的関係に基づき、本質的に宗教を基にしていません。それが今、宗教の本質と、そしてこの土地の論争者の宗教的背景との混乱を起こしているのです。

イスラム教徒、キリスト教徒それぞれのアイデンティティと言う表現は、パレスチナ国統一の件を支持するでしょうか、弱めるでしょうか?

 パレスチナ人運動におけるイスラム教帰属意識と民族主義者のアイデンティティとの間の関係に関して、ある論点が存在すると私は思います。そして、両方のアイデンティティが存在します。パレスチナ人のキリスト教徒にとり、優先すべきは国民的立場であることは明白です。なぜなら、私たちの見方からするとこの論争は大変簡単だからです。国について語るときは、キリスト教徒、イスラム教徒誰であれ、人々について語ります。宗教的アイデンティティについて語るときは、もっと広いアイデンティティについて語ります。その場合、ある意味で、イスラム教徒でないとか特別の宗教に属さない人々を隅や脇へ押しやるのです。彼又は彼女が、どのように自分が属しているのかと問う事態に置かれるわけで、それがキリスト教徒の過去そして現在のジレンマでした。私はパレスチナ人として、パレスチナ人キリスト教徒として、イスラム教徒の政治的イデオロギーには何ら反対ではありません。ある問題に関しては、例えば武力の正当化についてはキリスト教信仰が暴力を使わないよう教えているので、条件があるかもしれません。もし、私が真のキリスト教徒であれば同意すべきです。しかしそれによって私がよりパレスチナ人でなくなるわけではありません。イスラム教徒にも同じ方法論に同意する人が居ます。イスラム教は暴力の宗教ではありません。さて私たちの特別な関係において、抵抗とか占領終結についておたずねですが、抵抗は実際上、非暴力で在り得ます。占領終結の目的を達するには長い時間を要するかもしれませんが、いずれ勝ち取ることでしょう。ですから、非暴力抵抗の重要性を全くないがしろにしてはなりません。私は、パレスチナ人キリスト教徒として、パレスチナのイスラム党となら問題がありません。しかしイスラム教徒同国人と同等で、且つバランスを保たせる、非宗教的国民アイデンティティの方を好むのは確かです。これが私の選択で、隠そうとは思いません。

宗教間の関係発展に実際に役立つ活動または企画として、何を奨励なさいますか?

 私たちの立場を、つまりキリスト教徒とイスラム教徒を結んでいる、そしてユダヤ人とも結んでいる現在の立場を、私達はもっと公表しなければならないと感じています。これは大変重要なことだと思います。私たちがしたいことを共にできる広いビジョンのようなものを持つべきだと考えます。私達は、排他的であってはなりません。ですから、お互いに開放性を進展させる全ての活動を奨励します。この努力に参加し、正義のために挑戦するユダヤ人がいれば、歓迎します。私達は未来を共にするか、死を共にするかです。今起こっていることは、私たちが余りにも極端な方向へ進み、お互いに関わりあいながら結局大失敗に終わるかもしれないと言うことだろうと思います。ですから私達は、開放し、語り、共有し、良いもの、良い伝統、私たちイスラム教徒、キリスト教徒、その他誰でも、そしてユダヤ人をも結びつける共通の立場を見つめなければなりません。これは苦闘です。私達は自由を望みます。私達は独立国を望みます。私達は東エルサレムを私たちの首都に望みます。

 又、実際の生活体験も大切です。私立の教育制度を見てみましょう。もう長く続けられています。イスラム教徒とキリスト教徒が共に勉強しています。他にどんな良い企画を望みますか。これは最良の企画です。何故ならば、どのように一緒になれるかを私たちに教えるからです。これは美しい、生き生きとした企画です。学校に一緒に行き、イスラム教徒とキリスト教徒の教師、イスラム教徒とキリスト教徒の生徒、お互いに混じりあい、一緒に生活をするという体験のことを言っています。これはお互いにどのように尊敬するか、どのようにお互いを非難しないかを私たちに教えます。私の子どもたちが友人を家に連れてきて私を友人に紹介するとき、私は彼らの宗教的背景の言葉で言うと、どこに彼らを置けばよいか分からないのです。これは素晴らしいことです。ある夕方居間に入り八人以上の若者が姓でなく名前で呼び合っているのを見ることは、ごく自然なことです。もしあなたが私に、誰がイスラム教徒で、誰がキリスト教徒か教えて欲しかったら、私はきっと失敗したでしょう。これは、私たちが健全な社会であること、ステレオタイプではなく、人としてお互いに影響しあっていることを意味します。私たちの子どもたちが互いにこのように影響し合うことでよい隣人づきあいという私たちの伝統を強化していることを見ることは、価値のあることです。私は、これを美しいことだと思います。「イスラム教徒、キリスト教徒関係促進」のための企画を提供する必要があるとは言えません。むしろ、私達は一緒に生活を体験し、イスラム教徒、キリスト教徒としてではなく、自分の宗教を堅く信じている人として互いに尊敬することにより、一層良くなるでしょう。そしてその結果、お互いにもっと感謝するようになるのです。人工的な企画やプログラムは要りません。私達は毎日、体験的生活企画を実行しています-検閲所をどのように通るか、催涙ガスをどのように防ぐか、外出禁止令にどう対処するか、占領をどのように終わらせるか、そしていかにして独立を勝ち取るか。

次のインタビュ−は、教育者のSana'a Abu Ghoshです。


もう一つの側面:パレスチナ人から見たイスラエル兵     

George B. Sahhar

 かなり以前、新門とヤッファ門の間の地区でケーキ屋をしていたイスラエル婦人のことを想いだします。店があった小さな通りはもはやありません。新しいビルが替わりに建ちました。私達は長い年月、そこに通いました。その婦人は、――今、オーストラリアのなまりがあったことに気付きました――いつも感じの良い人でした。長い年月がたち、私達は成長し、ある日私たちが彼女のケーキ屋に行ったとき、ひどい訛りのめちゃくちゃの英語でこう言いました。「まあ、小さかったのに大きくなって」彼女は年々会うごとに私たちに会う喜びを表していました。このごろ検閲所で止められるとき、いつも長く待たされた後、窓ガラスを下げ、証明書を見せます。銃を持ち怖い顔の兵士が、ケーキ屋の立派な老婦人の孫ではないかと、ふと考えるのです。

 パレスチナ人の視点からイスラエル兵を描写することは、緊張した、矛盾した感情を描写することです。年老いた両親を訪ねるため検閲所で待つパレスチナ人、出産のため病院に行こうとして許されない女性とか、学校に行こうとする学生などは皆、そこに立っている兵士が怖がっていることに気付いています。しかし彼の恐れへの気付きは、兵士が取る行動に合法性を与えないのです。

 兵士によるハラスメントは、兵士は、そうでないように振舞っているが自分で自分のしていることが分からない、あるいは何故それをしているか分からない、混乱した人だとするパレスチナ人の考えを追認します。そのようなハラスメントは、パレスチナ人に、家族、子どもたち、愛する人たちが居る、人としての兵士のイメージを失わせ、代わりに彼を、輸入された屈辱を与える機械とみなすのです。検閲所では、沈黙が神経を張り詰めたように強烈なため、どちらの側も相手の目を見ず、人間の人間性があがきの取れない苦境に失われています。

 パレスチナ人の目から見たイスラエル兵を描くことは難しいです。抑圧された者は、精神的に身体的に静かに血を流し、自由に話すことが出来ないか、許されていないのです。そして彼らが話すときは、抵抗の見世物のように圧制者の非人間的処置に対抗して話すのです。

 もし兵士たちが耳を傾けようとする時、そしてそう決心するとき、歴史に対し、現代世界に対しまたイスラエル人自身に対する証言として、この非人間的なお互いの結果を言葉にする必要があります。この体験が取引されなければならないものであることを意味しませんが、これは、批判的な考えを妨害する圧力にもかかわらず何かが間違っているという一般的な感じから、むしろ何か明確な、具体的、伝達的なものへと変わることを意味します。

 イスラエル兵はパレスチナ人を人間でないもののように扱いますが、あるイスラエル人はパレスチナ人がこれらの兵士をどのように見ているか尋ねることをなお不適切と考えています。

 この悪循環を断つためには、優先権を明確にしなければなりません。イスラエル兵は、人間生活の尊厳が冒されても、無敵のイメージを追及しなければならないのでしょうか? もし答えが是なら、パレスチナ人であれ、イスラエル人であれ、どのように健全な精神を維持するのでしょう? もし答えが否なら、Mercava後の時代に向かって進むでしょう。何故私たちにとって、人間であること、人間生活の尊厳を尊重することが難しいのでしょう。これは唯、個人的な選択の問題でしょうか、又はパラダイムな手法を必要とするのでしょうか。私たちには奇跡が必要なのかもしれません。


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