エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.188

パレスチナ全住民の現状と要望
(カトリック聖職者集会と同時に開催かれた聖地の司教会議に提出されたもの)
                    2003年1月14日 於エルサレム
                 提出:Claudette Habesch
                    カリタスエルサレムの秘書
                    カリタスMONA議長
                    カリタスインターナショナル副議長

 今日のパレスチナの状況は、2000年9月に始まった暴動の単なる結果というよりはむしろ、事態は極限を極め、機会を逸したため数々の不正が半世紀以上に及んでいるということである。 これらの事件は、次のように簡略にまとめることが出来る。

1.1948年イスラエルはパレスチナ領の78%に建国された。パレスチナの住民は町や村から避難し、ディアスポラを余儀なくされた。その大多数は解決を待ちながら、今日もなお難民キャンプで過ごしている。

2.1967年、6日間の戦争で、東エルサレム、西岸地区、ガザ地区にイスラエル人の占領が始まった。占領はそれ自体、イスラエルを含む多くの民主主義国家により批准された第4回ジュネーブ会議への違反であり、つまり、人権への侵害である。これは、パレスチナ人の排除と強奪、植民地を作る目的での継続的土地の没収、占領した土地の、例えば水といった天然資源のコントロールなどを含む。また、これは、政治活動家の集団国外追放、集団処罰、投獄、抑留者に対しての裁判、告発なしの行政的拘禁、人々や物の移動の制限、この地に、自由の権利と国としての地位がある原住民からの盗みなどを意味する。

3.「原理の宣言」の失敗の後、オスロ協定と、安定と調和をもたらすいわゆる平和への過程における他の方策が続いた。殆どのパレスチナ人は、占領と圧制のもとに生き続けていたため、期待しまた望んでいた結果も利益も何ら感じなかった。

4.没収されたパレスチナの土地での打ち続く植民地建設は、パレスチナの村や町を取り囲み、領土を寸断し、移動を非常に制限している。これは、永久的な道路遮断や、検閲所、またガザ地区が他の西岸地区から孤立していることなどにより、いっそうひどくなっている。これら全てが、パレスチナ人の日々の困難辛苦に加算されているのである。

5.未だ解決されていないパレスチナ・イスラエル紛争の芯にある問題点とは、即ち、エルサレムのこと、難民の流出、そしてイスラエルの植民地である。

6.国連が、パレスチナ・イスラエル紛争と取り組む国連決定の履行に失敗したこと。

7.パレスチナ人の市民社会の要求に応えるため、パレスチナ自治政府が効率的な問題対策に失敗したこと。

 上記全てが、和平への話し合いと交渉を完全な挫折へと導き、二度目のインティファダを再開させた。しかし事態を更に悪化させたのは、このシステムが、健全なパレスチナ人の反対者や穏健な核になる人に言い分を言わせたり決定者を動かすのを許さなかったからである。むしろ、政治的な和平交渉以外の方法で結果を約束する過激派グループにとって格好な環境であった。過激派グループがパレスチナ人の間で強くなるにつれ、イスラエル人の間でも同様になり、両サイドの多くの無実の命を奪うことになった。パレスチナ人はもはや、自分の家でも、難民キャンプでも、安全ではなくなった。同様に、イスラエル人も、バスや、道路や、店でも、もはや安全ではなくなったのである。

 安全確保や、インティファダ活動制限へのイスラエルの返答は、野蛮で、現在の状況までエスカレートする結果となった。イスラエルはパレスチナ人に対し、不釣合いな過剰な戦力を用い、まるで戦争のような方法に訴えている。無差別殺戮(死者1,918人内19%が17歳以下)、負傷者(41,000人内2,500人は治癒不能)、家屋の破壊と砲撃(全壊720戸、損壊11,553戸)パレスチナ過激派の、捕虜や正規の裁判を経ない死刑執行(185名)、拘禁と捕縛(6,000名が現在囚われ、内1,700名が拘禁、子ども350名)。
 
 120箇所以上(一時的なものとは別に)の道路遮断と検問所は、機能を失わせ、締め付けるために使われた。これらは、西岸地区を300の別個の集落に、そして、ガザ地区を三つの別々の区域に分断した。イスラエル軍による継続的再占拠、侵略、長い外出禁止令は、パレスチナ人と社会を荒れるがままにし、自力では身を守れず、基本的なものをまかなうことすら出来ない、1967年の戦争以来未曾有の人道的危機を引き起こしている。

 これらの方策が、パレスチナ人の生活と社会全ての面に影響している。

経済面:社会の根幹とその発展、経済分野が崩壊した。諸分野における…観光、建設、農業、通信業、公益事業、産業といった…地方の投資と直接的な外国からの投資が特に冷えあがったので、投資のみかえりは殆どの分野で皆無となっている。先に記したものは全て集約労働であるが、成長ゼロかわずかな進展も見られない。その多くは人員削減を余儀なくされ、失業率は前例のない数字となった。これは、パレスチナとイスラエルの境界閉鎖により倍増され、イスラエルで、20万人を超すパレスチナ人労働者の職探しを妨げている。

 GNPは51%に落ち、逆に失業率はガザで67%へ、西岸地区で48%に上がった。パレスチナ人口の75%は、窮乏(米ドルで1日2$)以下の生活をしている。日々の国内生産の損失は、巡礼、観光からの外貨収入損失を抜きにして、米ドルで6〜8.6百万ドルと見積もられている。

 2002年3月の世界銀行レポートによると、経済がインティファダ以前の一人当たりの収入に戻るには、最低2年を要する。
 2002年10月に出されたUNCTADの年刊レポートによれば、パレスチナ家族の購買力は失われ、緊急時の救済と支援で生活必需品をまかなっている。

 パレスチナ自治政府が巨大な予算赤字を抱えていることはいうまでもない。殆ど全面的に費用を援助国に頼っている。このことは又、政府に、保険、教育、社会的生産基盤といった生命にかかわる様々な分野を伸ばす必要資金がないことを意味している。我々が如何にして民主的市民社会を作っていけばよいか、各々が考えねばならない。

教育面:教育システムが十分に育たず、教師の給料が十分に支払われていないだけでなく、教育はこの二年間猛烈な打撃を被った。教育相によると、850校の学校が一時閉鎖、9校は破壊され、他の8校は軍の兵舎にされ、11校は全壊、さらに、185校が砲撃を浴びた。加えて、132人の生徒が殺され、2,500人が通学または帰宅途中に負傷し、閉鎖と外出禁止令により1,135日の通学日が失われた。

 学生と、同様に教師も、学校や大学にたどり着くため種々の困難に耐えねばならない。たいていは、晴天雨天にかかわらず検閲所を避けるため、山の中、谷、泥道を歩かざるを得ない。疲れとは別に、学生たちは、多くの心理的な問題に直面している。家を離れることが怖く、襲撃で家に帰れないのではないかとか、レポートカードが配られる前に両親が学費を持って来てくれるか等を心配している。従って、学生の学力の低下は目に見えている。

保険面:パレスチナの病院を含む保健システムもまた、十分発展していない。西岸地区やガザ地区の病院ではサービスや専門治療の多くが受けられない。更に、患者は村や、離れた地区から町の中心地まで治療を受けに来ることが出来ない。従って重い合併症を起こし、多くの場合死(76件報告)に至る。妊婦の多くが検閲所で産院への通行を拒否され、幾人かは、道端で出産を余儀なくされ、このことは、乳児の死亡率を高めている。ラマラ地区の村々で2箇所の保健所を営んでいるカリタスエルサレムは、簡単な手術や、出産のような基本的な緊急医療の要請に応じるためそのサービスを拡張しなければならなかった。これらの保健所は村の住民のためだけでなく、周辺地区にも奉仕している。

 専門的治療が必要な患者は、エルサレムに来る必要がある。検問所を通ることを許可されるか、されないかの問題だけでなく、医療費をカバーする健康保険がないのでお金をやりくりする重荷が加わる。

 この医療システムの重みに加え、病院、医療に携わる人々、緊急医療に対する組織的な攻撃があった。これらの障害の中のいくつかを紹介させていただきたい。7箇所以上の病院が一度ならず攻撃や砲撃を受け、ドイツの医師、看護婦、救急車の運転手を含む15人が仕事中に殺された。180人のPRCS(Palestinian Red Crescent Society)救急医療技術者が負傷。95人のUnion of Palestinian Medical Relief of Committeesの職員がやはり負傷した。25台のPRCS救急車が完全に破壊され、197台は生物化学兵器やゴム弾で攻撃された。道路遮断でのPRCS救急車通行への拒絶は432件報告され、70人の医療関係者が、2002年3月イスラエルがパレスチナの町々へ侵入の際、逮捕された。

宗教面:パレスチナのイスラム教徒とキリスト教徒は、周辺地方の聖堂を訪れ祈ることを許されていない。例えば、西岸地区、ガザ地区からのイスラム教徒は包囲されていることと、イスラエルまたはエルサレムにパレスチナ人を入れる許可がないため、エルサレムのアルアクサのモスク(イスラエルで三番目に聖なるモスク)で祈ることは出来ない。同じ理由で、宗教儀式に参加のためパレスチナ人のキリスト教徒がエルサレム、ベツレヘムや、ナザレに入ることは許されない。

 1000年以上前から、平和のメッセージで多くの人々の心を照らしてきたベツレヘムの町が、軍隊の砲撃や外出禁止令の下、「平和の王子」へ礼拝を捧げるのをパレスチナ人のキリスト者にそして巡礼者にさえも禁じるとは、いったい誰が想像しただろうか。

社会面:社会生活は事実上終止符を打たれた。結婚と他の社会的行事は、外出禁止令が解かれるか否かによって決められる。不幸なことに、葬儀はそのようなわけには行かない。多くは、家族や、友達の最後の別れもなしに埋葬される。

 家族は電話で安否を尋ねあい、祭りのシーズンにだけ会う努力をする。エルサレムの境界線の中にいる私の娘や家族は、クリスマスイブに家族全員を招待するが、2箇所の検閲所が我々を隔てている上、一箇所の検閲所は午後9時に閉まるので、我々のイブは午後2時に始まり、8時に終わる。同じ市に住んでいるのにである。

 人道上の諸機関はこの人道的危機に出来るだけのことをしている。食物輸送計画、職探し提案、保健、授業料の支払いを含め、光熱費や家賃と言った基本的な生活費、学校かばんや衣類、衛生品、寒い冬を守る毛布と燃料、壊された家の再建などは、我々が取り組んでいる提案のごく一部にしか過ぎない。我々の対応が如何に拡大されようと、政治問題や闘争が続く限り危険が伴う。この人道的危機は、現在の占領による政治状況と不安定状態の直接的産物である。

 2002年のクリスマスメッセージの中で、エルサレムラテン教区のミシェル・サバー大主教様は、「イスラエルのパレスチナ占領に終止符を打つ…この占領は全ての悪の根源であり、平和の前で、人々と指導者の心の中にたまった全ての妨害物の源…」と訴えられた。「他方で抑圧されていながら一方で安全を願い、他方で占領されている人々が居り、一方で人々が占領している。これは実際不可能です。しかし両方に平等な正義があり、イスラエル人が自分の土地や国に住み、パレスチナ人もまた自分の土地と国を持つ時、その時こそ共に生きることが可能になるでしょう」とそれは不可能ではないと大主教は言われる。

 非難と訴え、そして、正義と平和への要求がやがて来ようとしている。国連総会、国連人権委員会、国連安全保障理事会と、その他では第4回ジュネーブ会議への114加盟国、全てが声明を出し、過剰な、不釣合いな戦力を用いるイスラエルを非難し、人道的諸機関の仕事の邪魔を全て止めるようにイスラエルに命ずると共に、イスラエルに、軍隊を撤退するようアピールする決議文を出した。パレスチナ人も無実の人々の命を奪うイスラエルでの自爆テロについて非難され、国際委員が自己抑制するよう訴えた。

 しかし暴力の連鎖は、癒えるまでに時間のかかる身体的、感情的、経済的、霊的傷跡を残し続けている。

 我々パレスチナ人は、変化せざるを得ない多くの人々がいることを期待しながら、平和を追求し、それに向かい、努めなければならない。私たちは、イスラエル人の中にも同じような人を見つけたいと思う。これは、両サイドの穏健なグループの声を強めるのに役立つだろう。平和に於ける真のパートナーとなりうる唯一のグループである。

 パレスチナのキリスト者として、我々はまた、人々の移住を懸念している。聖地からの外への移住の傾向を真に変えるのであれば、社会正義計画が準備するものよりさらに多くのことをする必要がある。教会が学校計画に参画し、聖地における帰属意識とキリスト教の伝統を奨励すること、働く場を作り、住宅建設プロジェクト、その他、安全網計画などに携わることが必要不可欠である。しかし、もし福音への熱意に従って生きようと真に望むなら、わたしたちは、不正義を引き起こす構造と取り組み、政治行動を計画するわたしたちに繋がる、適切なメカニズムをみつけなければならない。

 このように、カリタスインターナショナル主張キャンペーンは古い問題に新しく気づくことを願っている。パレスチナ人一般の尊厳と生活を脅かす元凶は、進行中の占領政策である。このため、カリタスの社会正義計画は、占領の終結、暴力の停止、包囲や攻囲の開放を主張するキャンペーンを行う努力を惜しまないことを目指している。

 しかしながら、単独では、そのような結果は得られない。国際社会、世界中の教会、そして政府に対して非難以上の強い立場を取り、パレスチナ人、イスラエル人両方を助ける、確固とした行動を取ることを訴える。解決が実行されるとき、どうか我々の主張をまじめに考えていただきたい。1948年、国際社会は聴こうともせず、何もしなかった。そして更に1967年、自分の国で生き、繁栄する正当な権利がないままに人々を捨て置いた。パレスチナ人としての我々の尊厳を、抑圧と屈辱の下に生き続けることをわれわれは許さない。そしてキリスト者としての我々の価値が、無意味な暴力と殺戮の傍観者であることを許さない。

 ここは、ユダヤ教徒、キリスト教徒、そしてイスラエル教徒にとって、聖地である。その聖性のために、また各々の方法で祈り生きた神のみ言葉を守ろうとする人々のために、我々はあなた方に調停を懇願いたします。 

参考文書:
HB Michel Sabbah, Christmas Message 2002, Latin Patriarchate, Jerusalem, 18 January 2002.

Sabella, Bernard, Dr., Situation in The Palestinian Territories, DSPR/MECC, Jerusalem, 3 January 2003.

Conference Of Major Superiors of Men, Leadership conference of Women Religious, Conference of Religious in England and Wales, Reflection of The Inter-Conference Delegation to Israel and the Palestinian Territories, Advent 2002.

The Palestine Monitor, The Voice of Civil Society, Palestinian Intifada, September 28, 2000 - December 24, 2002.

B'Tselem, Illusions of Restraint: Human Rights Violations During the Events in the Occupied Territories, 20 September -2 December 2002.

UNECO, The Impact on the Palestinian Economy of Confrontation, Border Closures and Mobility Restrictions, October 200 - 30 September 2001.

レポートと統計データーの出典
Health, Development, Information, and Policy Institute (HDIP)
Ministry of Health
Ministry of Education, 17 January 2002
Palestinian Red Crescent Society, 27 October 2001, 10 July 2002
LAW Society
Al-Haq
Union of Palestinian Medical Relief Committee
Palestinian Center for Human Rights, 28 June 2002, 3 June
Palestinian Central Bureau of Statistics
World Bank Report, March 2002



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