エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.185

ベツレヘムだより(43)    2002年12月28日
トワーヌ・ファン・テーフェレン

 予想通り12月24日に外出禁止令は解除されました。この日は、例年ローマン・カトリック大主教がクリスマスの祝祭のためにベツレヘム入りします。しかしその前日の昼間と夜間ベツレヘムでは様々な建物がイスラエル軍によって占拠されました。聖地トラストの責任者のサミ・スワドの自宅と、アリアスの義理の息子の美容院が入っている住宅ビルも占拠されました。1年中で最も繁盛する日に、美容院のドアはイスラエル兵のために開けておかなければならなかったのです。イスラエル兵は12月24日の早朝までとどまりました。町の雰囲気は静まり返っていました。聖地トラストとアラブ教育研究所、ウィーアム・パレスチナ紛争解決センター、ベツレヘム聖書大学、アラブ正教協会を含むベツレヘムの多くの団体が、大主教の通り道に沿って、聖誕教会の前で、示威行動を行うことを決めていました。大主教の入堂の際に、私たちは外出着を着て、「占領をやめろ」とか「外出禁止令は強制収容所だ」とか、さらに外出禁止令を指して「沈黙の夜、清しこの夜? (Silent Night, Holy Night?)」と書いたプラカードを持って立ちました。マリーと、クリスマスで帰省しているフランスに住む姉たち、それにマリーの大学の同僚も参加しました。ヤラも、木製のプラカードを自分で持ちたがりました。例年のクリスマスよりは少ないものの、たくさんの人で聖誕広場はあふれていました。私たちは、総主教の入堂を背景に、多くのテレビカメラとスチルカメラに撮られました。数分後に、大主教の後を追うようにして、ターユシュ(共存)のメンバーの数百人のユダヤ人が広場に入ってきました。驚いたことに、ベツレヘム−エルサレム間のメインの検問所を通って来ることができたのです。ターユシュのメンバーは、ベツレヘム聖書大学学長のビシャラ・アワドにプラカードを渡されて驚きながらも、それを受け取りました。イスラエル人たちが来たのを喜び、「いつか将来平和に共存できるような気がする」とマリーは言いました。多くの若者たちが行進に加わっていたことに強い印象を受けました。イスラエルの平和運動のメンバーは大抵高齢だからです。パレスチナ人のデモに加わっていたイスラエル人たちと一緒に近くのレストランに行きました。聖書とコーランの聖句を、何人かの若者たちが昼食の間読み上げました。

* * *

 クリスマスの前夜、パリから持ってきた特別の食材を使ってご馳走をつくりました。クリスマスの飾り付けとサンタクロースの人形で家中があふれているので、なんだか家の外で欠けている物を家の中で補おうとしているような気がしました。それに加えて、おなかがいっぱいの時には、現実はそれほど悲観的に見えません。夜遅くまでおしゃべりを楽しみました。この何日間のように多くのプレゼントを、今までヤラは受け取ったことがありませんでした。ベツレヘムの他の子供たちにプレゼントをあげたらと家族に言われ、ヤラは了解しました。クリスマスの当日の午後に、義理の父の墓へ家族で出かけました。マリーと母親、マリーの姉妹は泣きました。ヤラは墓石を抱いて、いとおしむように頭を寄りかからせました。2年前に亡くなった祖父のことを、今でもヤラはとても恋しがります。

 午後遅く、ベイト・サフールの伝統的なクリスマスのキャンドルライト行進に参加しました。年を経るにつれてこの行進は政治的なものになってきました。今回は、占領に対して抗議するだけではなく、西岸地区のパレスチナ人とイスラエル人を隔てるために現在建設中の分断の壁に対しても抗議しました。数多くの−数百人の−人々が、サンタクロースの赤と白の帽子と火を灯したろうそくで暖を取り、レバノン人歌手フェルーのクリスマスソングのテープを聞いていました。その歌はその場にふさわしく厳粛で、ほとんど陰鬱とさえ言える音色でした。雨が激しく降り始めました。激しすぎるほどの雨でした。2キロ歩いた後、当初エルサレム−ベツレヘム間の検問所までの予定だった行進を切り上げるために、ベイト・サフール教会の中庭に入りました。おもだった主催者のRapprochementのガッサン・アンドーニが、今後行われる行進について発表しました。

 クリスマスの二日目の朝、暖房に問題があることが分かりました。タメルは風邪をひき、せきをしています。それなのに、ガスが不足しているために家を十分暖房することができません。このあたりではほとんどの住宅や店舗に集中暖房装置がなく、断熱があまりされていません。いつもガスボンベを運んでくる車がやって来ません。先週ハイファの化学工場で起こった爆発(非政治的なものです)がガスの不足の原因です。ベツレヘムの南のアル・ハデルでは、予備のガスをめぐって争いが起こっています。マリーのいとこによれば、多くの家族が暖房の問題を抱えているそうです。幸いなことに、天候は徐々に好転してきました。けれど、クリスマスの2日目を楽しむ時間はほとんどありませんでした。午後2時に、予告なく新たな外出禁止令が告げられました。聖誕広場を皮切りに、催涙弾と実弾を発射しながら、通りから人々を、イスラエル兵が一掃し始めました。マリーのいとこのイサムは、たまたま発砲の現場近くにいて催涙ガスを吸ってしまい、5分間呼吸もままならず、ほとんど窒息しそうになりました。レストランでクリスマスの食事をしていた大勢の人たちが、あわてて家に戻りました。私は元来冷静なのですが、反抗的感情が湧きあがってきました。こんなやり方で人間を動物のように家に追い返す権利が、一体誰にあるのでしょうか。 外出禁止令はその後も、日中から夜になっても続きました。皆が驚いたことに、金曜の朝になってまた予告なしに、「別段の通知があるまで」外出禁止令が解除になりました。ベツレヘム大学は閉されたままです。学部と学生に連絡をとるのに解除の通知が遅すぎたからに違い有りません。通りで大学の教授に会い、彼は解除時間は歩いて体を動かし自由を味わうことにしていると言っていました。この教授は、1日のほんのわずかな間でも大学を開くことができなかったのを残念がっていました。この教授は、日常生活と仕事を続けることは、抵抗の1つの方法だと以前私に言っていました。

 アラブ教育研究所はコミュニティーの他の組織との連携を始めています。土曜に予定されていた「イエスの時代に虐殺された幼子殉教者と現代パレスチナの亡くなった子供たちを記念する行進」は、取りやめになりました。現在のような状況で、半政治的な行進のために、子どもたちに通りを歩かせることは適切でないからです。その代わりに土曜の午後に平和センターで子どものお楽しみ会が開かれます。マリーと私は、これからの数日間のプランを立てています。パリの家族も来ているので、いよいよタメルの洗礼の準備をする時が来ました。1月1日は良い候補のように思われます。その日はイスラエル軍が町に外出禁止令を施行しないかもしれないからです。洗礼の祝賀会など、人を元気づけるものは何にしても良いことだとマリーの友人は言っていました。万一ぎりぎりになって外出禁止令が施行された場合でも、祝賀会を無料でキャンセルできるようにレストランとは段取りをつけました。ベツレヘムの諸団体と宗教・行政当局は、正義と平和の行進を目下12月31日に予定しています。検問所まで行き、そこを祈りの場に変えるように参加者は呼びかけられています。この提案は、ローマン・カトリック大主教が最近のクリスマスメッセージで行ったものです。



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