エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.182

ベツレヘムだより(41)    2002年12月5日
トワーヌ・ファン・テーフェレン

 昨日、夏のような陽気の中、イスラム教の断食明けの祭りのベツレヘム市街を見に、ヤラと散歩に出かけました。外出禁止令が敷かれています。出かける前に銃声が2発聞こえました。マリーは、「ちょっと待って、催涙ガスかもしれない」と言いました。しばらくたってから出かけ、大学通りの始まる所にある子どもの墓地の横を通り過ぎました。墓地の入り口は開いていました。断食明け大祭の期間は肉親の墓に参るのが通例になっていますが、墓地には誰もいませんでした。通りも子どもたち以外は誰もいません。大学のそばでファウドと奥さんのシルヴァナが通りかかりました。その時、以前シルヴァナが催涙ガスを吸い込んだために流産してしまったことを不意に思い出しました。二人はイスラム教徒の友人に、「毎年が平和でありますように」と挨拶するため外出禁止令を破っていたのです。どんどん町の真ん中の方に進んで、マダバッセ通りに入りました。そこでは、食料雑貨店の店主が、半分閉ざした入り口から外の様子をうかがっていました。この店はほとんどいつでも営業しているのですが、軍用ジープがやって来ていないかどうかと警戒していました。

 先日マリーはこの店に買い物に来て店の中にいた時、ジープが走って来て通りにたむろしている子どもたちに催涙ガスを投げつけました。兵士は市の清掃作業者に通りから退くように命じました。その食料雑貨店は急いで入り口を閉めました。マリーは30分店の中にいて、外の催涙ガスの臭いがなくなるのを待ちました。待っている間、店主に催涙ガスについての話を聞きました。ある日ベイト.サフールで、店主が入り口を閉じるようにとのイスラエル軍の警告を2度無視して、毎回ジープが去るのを待っては入り口を開けていたところ、2度目にイスラエル軍が店に踏み込み、棚にあった物を根こそぎ床に落として、多くの人がいる店内に催涙ガスを投げ込み、入り口を閉ざしたそうです。店主は自分自身で見た事についても話しました。2、3日前はイスラエルのツヌヴァ牛乳の商品を運ぶ車をイスラエル軍が止め、運転手に窓を開けるように命じ、催涙ガスを車内に放り込み、また窓を閉じるように命じました。マリーによれば、イスラエル軍は最近あまり通りで見かけませんが、人々が家から出てくるよう挑発し、そうしたとたん懲罰を加えます。ベツレヘムの中央市場でも、商人たちが朝早く商売を始めることがあり、しばらくはそこにいることが許されるのですが、兵士がまたやって来て、野菜や果物を地面に投げ散らし、売り子たちを追い払います。食料雑貨店を出た後、マリーはマダバッセ通りにはパンを買いに行かないことにしました。パンが催涙ガスの臭いがするかもしれないからです。

 ごみの山が10日間も放置されているため、ベツレヘムの目抜き通りは散歩するには快適な場所ではありません。2、3分後に聖誕広場に着きました。そこには教会の建物の近くに立っている一団の少年たちを除いてはだれもいませんでした。私たちが近づくと、石を投げ始めました。(インティファーダの間に色々な種類の投石を見分けられるようになりました。それには、挑戦的か友好的か、または速くて危険か、という違いがあります。)今回は友好的な投石で、少し的を外して、高めの放物線を描いて飛んできました。少年の一人ひとりにあいさつをしました。かれらは皆良い身なりをしていました。ヤラは用心して遠くから見ていました。「イスラエル軍がここに来たのかい?」と少年たちに聞きました。やはりそうです。30分前に来たところでした。少年たちは、「チョコレートと香水を振りまきながらね」と笑いながら言いました。散歩を続けていると一人の外国人に通りで会いました。その人の目には困惑が現われていました。丘のさらに上にある、ベツレヘムで最も古い建物の一つの前を通り過ぎました。その建物は、2002年の世界サッカー選手権でのブラジル・チームを称える落書きだらけでした。ヤラは疲れてしまいました。肩車してあげたほうがいいか、それともそんなことは外出禁止令の中、非常識だろうか。しかしヤラはそれまでずっと家にこもりっきりだったので、歩いてとても疲れたのです。薄笑いを浮かべてすれ違う人たちに、いくぶん恥ずかしさを感じながらあいさつをしました。 しばらくすると、人気の無い通りは、ごみの山を除けば、日曜の午前のフランスの静かな古びた村のように見えてきました。ヤラと、静寂の中の音を聞くゲームをしました。遠くの足音、鳥のさえずり、隣人のイブラヒムの声。それから、行く手に自分の店の前に立っている商店主がいました。他の商店主同様、そこに陣取って事態を見守りながら、ジープや戦車が近づいてきたら、いつでも店に引っ込む態勢を取っていました。外出禁止令が出ている時に通りを歩くには、注意していつも耳を澄ましていなければならないとその商店主は言いました。先週、ラマラの95歳の女性は、乗っていたバンがイスラエル兵に指示されたのに停止しなかったために射殺されたそうです。その商店主が一番言いたかったのは、ベツレヘムのキリスト教徒は経済的困難をこうむっているのに、キリスト教世界はそれには目もくれないということでした。彼は英語で話し続け、自分の話を聞いて欲しくてたまらないのでなかなか放してくれませんでした。

 親類の家に帰って、ヤラにおとぎ話を聞かせました。人類に死をもたらす、災いの臭い風が流れ出るパンドラの箱の話もしました。パンドラは、最後のたった一つのきれいな風が逃げてしまわないうちに箱を閉じることができました。それは希望でした。ヤラにはこの話は早すぎて、退屈してしまい最後まで我慢ができませんでした。そこで、丘へ自転車に乗りに出かけました。座席に気持ち良さそうに腰掛けているヤラを押して丘を上がっている時、マリーが私たちを昼食に呼びに来ました。マリーは急に、「そこで止まって、振り向いて右側にあるぶどうの葉を見てごらん」と言いました。確かにその葉はきれいな秋の色をしていました。家ではタメルが「ママ」、「カカ」、「ババ」と初めての言葉をしゃべっていました。初めての歯が生えてきたのが触れてみると分かります。また新らしい画期的な出来事です。マリーは自由テレビを見ています。この放送局はフランス語のチャンネルで、美しい休暇旅行先を紹介する番組や、空想的なサンタクロース(聖ニコラオ)が西ヨーロッパの市街を歩く番組をやっています。「もう、そんなのいやだ」とヤラが抗議しました。「怖がらないで」―ヤラが私たちから学んだフレーズで、自分が一人前で、自分に任せてほしいということを表すために使うようになりました―「ベツレヘムのクリスマスはとてもすばらしいものになるから、楽しみにしていなさい。」とヤラは不思議なことを言いました。

 午後、ルイス神父がイスラム教徒の友人を訪ねてアッザ・キャンプに入って行くのを部屋の窓から見ました。白くて長いあごひげをたくわえているので、神父はみんなのために聖ニコラオとサンタクロースになろうと計画しています。12月5日が無理なら、ベイト・ジャラで聖ニコラオのお祝いが行われる12月19日に。そして12月25日にできなければ、ギリシャ正教やアルメニアのコミュニティーの1月のクリスマスの祝日に。

 夜、私たちはみんなクリスマスツリーの下に靴を置きました。翌朝、聖ニコラオは外出禁止令の敷かれている区域を無事に潜り抜け、オランダの友人たちからのプレゼントを置いて行ってくれました。タメルはクリスマスツリーのライトに興奮して(実はどんなライトにも興奮するのですが)、電球をつかみ取ろうとしています。

 今日は金曜で、外出禁止令の一次的解除の時間が早朝に発表されました。まるで鎖に繋がれた犬が戸外に放たれるような気分だと誰かが言いました。いつものように解除時間の間は、非常に混み合っています。この間の月曜は、マダバッセ通りに出るのはほとんど無理でした。みんながあらゆる事を同時にしなければならないからです。例えば、通勤、親族への訪問、買物、薬の受け取り、同僚との打ち合わせ、そして学校では中間試験。クリスマスには解放されるのでしょうか?


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