オリーブ・ブランチ NO.180
「黄金律」
サミア.コウリー
今月Rawdat El-Zuhur(東エルサレムにある小学校・幼稚園を経営する非営利女性団体。Rawdat El-Zuhurとはアラビア語で、『花園』を意味する。)で行われた戦略計画セッションでもっとも興味深かったのは、組織の将来像についてだった。何でも好きなことを夢見て良い、というプロセスだったので、大いに夢を語り合った。お金もかからないし、誰の権利を侵害することもない。学校の新しい施設やより良い設備を思い描くのはとても楽しかった。家に帰って実りある一日を思い起こしていると、同じような「夢見るセッション」を世界を対象にして行ったらどんなだろう、と考えずにはいられなかった。世界の将来像を決めるとしたらそれにふさわしい人は誰だろうか?政治家や世界の指導者にこの特権を与えるべきだろうか?それとも学校教師、ソーシャル・ワーカー、ビジネスマン、研究者、専門家、それとも宗教リーダーだろうか?私たち女性も役割の一端を担うだろうか?私たちが思いつく夢のどれだけが実現可能だろうか?
しかしそこで私は、子供たちに世界の将来像を夢見てもらったらどんなに素敵だろうと考えた。究極のところ、未来は子供たちのものだ。いつの時代にも、どのような紛争や惨事においても、一番大きな犠牲を強いられてきたのは子供たちだ。どんなにバックグラウンドが異なろうとも、子供は子供だ。自由、平和、そして安全の中で生きることを望んでいる。家と呼べる安全で暖かいシェルターを必要としている。子供たちは検問所で嫌がらせを受けたり、狙撃兵に銃を突きつけられたりすることなく、毎朝遊び、楽しみ、学校に行きたいと思っているのだ。自分たちの心配やニーズを思いやりを持って誰かに聞いてもらいたいと感じているのだ。
私はそのような子供たちが戦争もなく、武器もなく、野原に埋められた地雷もない新しい惑星を夢見る姿を思い描くことができる。餓えも、貧困も、病気も、暴力もない星。たっぷりの水と資源のある惑星。環境がきれいで、自然栽培の果物や野菜が実る惑星。人種、性別、宗教の違いに関わらず、人々が制約なく自由に行き来することができ、自分が住みたいと思うところに家を持つことができる惑星。子供たちが自由に自己を表現し、学校に行ってゲームをして遊ぶのと同じくらい勉強することを楽しみ、音楽とダンスを共通の言葉としてコミュニケーションを取ることができる惑星。
このような子供たちは理想郷を夢見ているのだろうか?私はそうは思わない。このような夢がすでに実現できている国はたくさんある。しかし残念ながら子供たちの夢を抑えこんでしまうのは、国の支配権力だ。だからこそ、すべての人々のためにこの世界をより良い場所にすべく、権力欲や金銭欲に挑戦していかなければならないのだ。
世界には数え切れないほどの壊滅的な自然災害が起きている。だからこそ私たちは人間が引き起こす惨事をコントロールすることにエネルギーと努力を傾けなければならないのだ。私たちは地震やハリケーン、洪水、干ばつをコントロールする力は持っていない。しかし戦争や資源の枯渇、史跡の破壊、破棄物の放棄、環境汚染はコントロールする力を持っている。このような人間が引き起こす惨事に加担することを既得権者たちに許しているのは、国の支配権力なのだ。
これほどの悲しみと悲惨な状況を生んでいる根本的な原因は、不当な扱いだ。「正義」が実現されていれば、戦争もなければ人の命が失われることもないだろう。資源が公平に配分されていれば、これほど多くの貧しいホームレスの人々はいないだろう。均等な雇用機会があれば、これほど多くの失業者や読み書きができない人々はいないだろう。自由と民主主義があれば、抑圧された国もないだろうし、これほど多くの難民や政治犯もいないだろう。
イエス・キリストが山上の垂訓で語った「正義」の本質は、やがて「黄金律」として知られるようになった。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ
7:12) この規範は、最終的にこの混迷する世界を最終的な解決に導く非常に論理的な指針であるように思える。というのは、この考え方はほぼすべての宗教の聖典の中で記される相互主義の価値観だからだ。
・ユダヤ教:「自分がやられて嫌なことは、人に対してもするな。これが原則のすべてであり、残りすべては注釈に過ぎない。」
・イスラム教
・仏教
・Udana-Varga
・ヒンズー教
・ゾロアスター教
・バハイー教
このような共通倫理原則があれば、子供たちだけでなく世界中の指導者たちが世界の将来像を写すスローガンとしてこの黄金律を使うことができるのではないか。子供にとって、そして大人、さらには一つの国にとって、不当な扱いを受けていると感じることほど尊厳を傷つけられることはない。兄弟間でお菓子を公平に分けることができない、というようなたわいもない不正は、母親の大きな頭痛の種になるかもしれない。同じ結果を出した生徒に違う評価を下せば、教師は信頼性を失うかもしれない。同量の仕事をこなし同時間数働いた従業員に、不公平にボーナスを支給すれば、雇用主は裁判所行きになるかもしれない。しかし一国全体に対する不当行為を是正するための手段は何だろうか?何年もの間、国連が設立される以前は、戦争だけが唯一の手段だった。しかし多くの場合、戦争は不当行為を増幅してしまった。
パレスチナの場合、1948年の第一次中東戦争は、パレスチナ領土が不当に分割された結果として勃発した。最終的には、パレスチナ人は、パレスチナにそもそも割り当てられていた領土以上の土地をユダヤ人に奪われてしまった。そして1967年第三次中東戦争の後、パレスチナの残りの領土、東エルサレムとガザ地区を含むヨルダン川西岸地域もまたイスラエル占領下に置かれることとなった。国際法では暴力による土地の取得を禁止しているにも関わらず、また占領地からのイスラエル軍の撤退を求める国連安保理決議224.338が出されたにもかかわらず、不当行為は依然としてして行われている。9月12日、国連総会での演説の中でブッシュ大統領は安保理の役割を強調していたが、なんと皮肉なことか。「我々は、国際連盟とは異なり、審議が協議以上のものになるよう、決議が願望以上のものになるよう、国連を創設した。」「国連はその創設の目的を果たすことができるだろうか、それとも不適切なものになってしまうだろうか?」ブッシュ大統領はこのような疑問を投げかけるという過ちを犯すべきではなかった。なぜなら実際、国連を不適切なものにしてしまったのは米国政権だ。米国政権は国連の役割をのっとり、決議を拒否してしまった。国連審議は単なる協議に終わり、決議も空虚な願望に過ぎない。ブッシュ大統領に黄金律を思い出して頂きたい。単純な言葉に置き換えれば、米国政権にとって有益なことはなんでも、それがたとえ超大国であっても、世界にとっても有益なことのはずである。
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