エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.180

『子どもへの報復』
                        2002年11月18日  ウリ・アブネリ

ウリ・アブネリは、受賞歴のあるイスラエル人ジャーナリストで、作家でもあります。過去、イスラエル国会議員として3期務めました。またメリーヴ新聞のコラムニストです。彼はまた、グッシュ・シャローム平和運動創設メンバーの一人です。

ヨルダン・タイムズ

 今週の日曜から、ある疑問が脳裏から離れず、眠りが妨げられています。どうしてあのパレスチナ人の少年がキブツ・メツァーに侵入し、二人の幼い子どもとその母親に銃を向けて殺害してしまったのでしょうか。

 戦争では子どもを殺害しません。これは全ての民族と文化に共通の、基本的な人間の本能です。イスラエル軍に殺害された数百人の子どものために復讐しようとするパレスチナ人も、子どもに対して報復はしないでしょう。「子どもには子どもを」という掟はありません。

 こんなことをする人物は、異常な殺人者であったとか、生まれつき血に飢えていたということが知られている訳ではありません。親族や隣人とのインタビューでは、ほとんどの場合、これらの人物は全く普通で、非暴力的な人間だと言われます。多くは宗教を狂信している訳でもありません。実際に、キブツ・メツァーでこの事件を起こしたシルカン・シルカンは非宗教的運動であるファタハに所属していました。

 これらの人々はあらゆる社会の階層に属しています。ある者は貧しい生い立ちで飢餓線上に置かれています。また別の者は中流家庭に育った大学生や教養のある人々です。彼らの遺伝子は私たちと変わりません。

 それなのに、なぜ彼らはこのような行為に及ぶのでしょうか。
 なぜ他のパレスチナ人たちは彼らを正当化するのでしょうか。

 対処するためには理解することが必要です。そしてそれは正当化することにはなりません。この世の何をもってしても、母に抱かれた子どもをパレスチナ人が撃つことや、寝床で子どもが眠る家にイスラエル人が爆弾を落とすことを正当化することはできません。ヘブライ語詩人ビアリクが、100年前キシネフでのポグロムの後に記したように、「悪魔でさえ、幼子の血による復讐は思いついていません」。

 理解することなしには、対処はできません。イスラエル軍の参謀たちには簡単な解決策があります:攻撃、攻撃、攻撃。攻撃者を殺害しろ。司令官を殺害しろ。敵の組織の指導者を殺害しろ。指導者の家族の家を破壊して、親族を追放しろ。しかし、驚いたことに、この方法は全く逆の結果をもたらしました。イスラエル軍の巨大なブルドーザーが、行く手にあるあらゆる物を破壊し、殺し、根こそぎにし、「テロリストの軍事施設」を破壊しても、数日のうちに新しい「軍事施設」が現われます。イスラエル軍自身のアナウンスによれば、「守りの盾」作戦以来、毎日およそ50件もの差し迫った攻撃に対する警告が発せられています。

 この理由は一語に要約すると、怒りです。恐るべき怒りです。それは人間の魂にあふれ、他の物に存在する余地を与えません。人間の全人生を支配する怒りは、人生自体を取るに足らない物にします。すべての制限を取り払う怒りは、すべての価値の輝きを奪い、家族の絆と責任を断ち切ります。朝目覚める時も、夜眠りにつく時も、夜中に夢見る時にも常に存在する怒り。その怒りは人に命令します。「起き上がれ、武器や爆弾ベルトを取って、敵の家に行き殺せ、殺せ、殺せ、どのような結果になろうとも。」

 パレスチナに足を踏み入れたことのない普通のイスラエル人は、この怒りの理由を想像だにできません。私たちのメディアはそこでのできごとを全く無視しているか、ごくわずかだけ、内容を和らげたうえで報道します。平均的なイスラエル人は、パレスチナ人が苦しんでいることをなんとなくは知っています(もちろんそれはパレスチナ人自身の責任だと思っています)けれど、そこで何が本当に起こっているのか全く知りません。いずれにせよ、そんなことには関心が無いのです。

 家々は破壊されています。コミュニティで尊敬されている商人や弁護士、職人たちは一晩でホームレスと化してしまいます。子どもも、孫たちも同じです。彼等の一人一人が潜在的な自爆攻撃者です。

 果物の木は数千本が根こそぎにされています。イスラエル軍にとって、それは単なる木であり障害物です。所有者にとっては、それは心臓を流れる血です、先祖からの遺産です、何年にも渡る苦労であり、家族の家計です。家族の一人一人が潜在的な自爆攻撃者です。

 村々の間の丘に、一団のごろつきが前哨点を設けました。イスラエル軍は彼等を守るためにやってきます。もし村人が自分たちの畑までやって来ると撃たれます。前哨点の安全を保つために、村人はそこから1キロから2キロ以内の畑や果樹園で働くことを禁じられています。子どもたちに与える食べ物が無いのに、果物が樹上で腐っていき、畑が腰丈までのいばらやあざみで覆われていくのを、農夫たちは切望するような目つきで遠くから見ています。彼等の一人一人が潜在的な自爆攻撃者です。

 人々は殺されています。彼等の引き割かれた体はさらしものとして、通りに横たえられています。彼等のうちのある者は自らの運命を選んだ「殉教者」です。しかしその他の大半の人たち――男、女、子どもたち――は「誤って」、「偶然」、「逃げようとして」、「撃ち合いの現場に近づきすぎて」等々その他諸々の、プロのスポークスマンの用いる口実のもと殺されたのです。イスラエル軍は謝罪することはありません。将校や兵士は有罪判決を受けることはありません。なぜなら、これは戦争では「当たり前」だからです。しかし、殺された人々にはそれぞれ、親兄弟、息子、いとこがいます。彼等の一人一人が潜在的な自爆攻撃者です。

 さらに、栄養失調に苦しむ、飢餓線上に生活している家族がいます。子どもたちのために食べ物を手に入れることのできない父親は絶望を感じます。彼等の一人一人が潜在的な自爆攻撃者です。

 何十万人もの人々が何週間、何ヵ月も続けて、外出禁止令のもとに置かれています。8人もの人が、2、3の部屋に閉じ込められています。想像を絶する生き地獄です。外では入植者が兵士に守られ大いに楽しんでいます。昨日の爆弾攻撃者が今日の外出禁止令を生み、外出禁止令が明日の爆弾攻撃者を生み出すという悪循環です。

 さらに、年齢、性別、社会的地位、経験にかかわらず、すべてのパレスチナ人が人生のあらゆる瞬間において経験する屈辱のすべて。抽象的ではなく、完全に具体的な屈辱です。どこに行くのにもパレスチナ人が通らなければならない数多くの検問所や、通りにいる18歳の少年の気まぐれに生死が委ねられています。一方、入植者の集団は、自由に通行し村々を「訪れて」財産を破壊し、果樹園のオリーブを盗み、木々に放火します。

 実際に見ていないイスラエル人にはそんな生活は想像できません。「すべての悪党が王様」で「奴隷が主人になった」という状況です。良くて罵られ突き飛ばされ、多くの場合は武器で脅され、時には実際に撃たれます。これは、透析を受けに行こうとしている病人、病院へ向かう途中の妊婦、教室にたどり着けない学生、学校にたどり着けない子どもたちも例外ではありません。子どもたちは、尊敬されている祖父が、軍服を着たはなたれ小僧に公衆の面前で、辱められているのを目にします。彼等の一人一人が潜在的な自爆攻撃者です。

 普通のイスラエル人はこのようなことを想像することができません。結局、これらの兵士は優しい少年たちで、私たちの誰の息子であってもおかしくありません。つい昨日まで彼等は学校の生徒でした。しかし、一旦これらの優しい少年たちを集め軍服を着せ、軍隊の機械を通して占領の状況に置くと、彼等に何かが起こります。多くの者が極限の状況で人間の顔を保とうとします。その他の多くの者は命令を遂行するロボットと化してしまいます。そしてすべての中隊には、このような状況でのさばる、おかしな連中が必ずいて、ぞっとするようなことをやらかします。彼等は、自分の将校が見て見ぬふりをするか、満足げにウィンクすることを知っているのです。

 これらすべては、母の腕に抱かれた子どもを殺すことを正当化するものではありません。しかし、なぜそんなことが起きていて、なぜ占領が続く限り起こり続けるのかということを理解するのには役立ちます。


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