エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.179

ベツレヘムだより(38)    2002年11月16日
トワーヌ・ファン・テーフェレン

 11月15日の独立記念日の折りに、およそ60名の学校の生徒や大学生、教師と共に、ラマラの北東にあるタイベの村に実地研修に出かけました。これはかなりの長旅でした。今どき西岸地区で誰が2時間もかけて、勉強や仕事などの特別な目的もなしに移動しようなどと思うでしょうか。誘われていた学生の何人かは、エルサレムを迂回する長く曲がりくねった道、ワディ・ナールが封鎖されたと前日に聞いて参加を取りやめました。途中で私たちはイスラエル軍のパトロール隊に止められました。バスの中に置いていたパレスチナ人の教育の権利を宣言した横断幕を広げるように兵士が命じるのではないかと思いました。アラブ教育研究所の活動に参加しているシリア人のエリアス神父がいたことが、検問所検問所の通過に役立ったようです。大学生の一人がバスから外に連れ出され、身分証明書をチェックされただけでした。遠くには十数名の労働者が立っていました。野原を通ってエルサレム地区に入ろうとして捕まったのでしょう。私たちは比較的早くその場を離れることができ、タイベには早く着きました。私たちのホストのラエド神父が予想していたより早かったようです。検問所では普通1時間待たされるそうです。でも今日は道も空いていました。政治色の濃い独立記念日に、自分たちの町や村を敢えて離れたいとは、多分誰も思わないからでしょう。

 タイベはパレスチナとイスラエルで唯一の、キリスト教徒だけの町として最も良く知られています。また、地元の人のみならず、外国人の滞在者にも人気のタイベビールの醸造所があることでも知られています。1,500人のローマ・カトリックとギリシャ正教そしてギリシア・カトリック(メルキト派)を信仰する人々が住んでいます。移住や勉強、高い女子の出生率のために、女性の人口が男性の人口の3倍にもおよんでいます。ラエド神父が若者たちに語っていたところによると、タイベ(良い)という地名は、以前のオフラという地名の代わりに、サラディンが勧めたものだそうです。住民から聞いたところによると、オフラという地名は、「アフリート」(悪魔)や「アフラス」(ほこりを立てる)という言葉と関連があるそうです。この村の地下には、たくさんの洞窟と大きなトンネル網があります。後者ができたのは、オフラすなわちエフライムが旧約聖書の時代に避け所の町だったからです。エフライムは、後にイエスが死を宣告された時に退かれた「荒れ野に近い地方の町」(ヨハネ 11:54)タイベ村です。高い所から見渡した、東の方向の砂漠の景色はすばらしいのですが、それは、場違いなスイスの山小屋のような、赤い屋根の家が集まったおきまりの近くの入植地を除いてのことです。ずっと以前は、数十キロ向こうのヨルダン渓谷まで、村民の土地が広がっていました。しかし今は、検問所と入植地の道路で村は取り囲まれています。入植者の住宅が見渡せる場所に残っている、パレスチナ人の村など一体どこかにあるのでしょうか。

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 いちばん始めの総会は非暴力についてでした。活発な白熱した議論が行われました。イスラム教とキリスト教の非暴力について造詣の深いラエド神父は、この議題を提起し、「非暴力は政治的命令に屈服することになるのではないか」という、懐疑的な生徒からの質問に対して苦労して答えました。聴衆の間での一致した意見は、組織と計画、リーダーシップそして展望が必要であるということでした。今これらすべてが全く欠けていると若者たちは感じています。

 別のセッションで、生徒たちが1988年のパレスチナ独立宣言(持ってもいない物ばかりを事細かに定めています)について議論を行っている間、グループの中の外国人は、ラエド神父に村の古代からの伝統をよみがえらせるためのプロジェクトを案内してもらいました。プロジェクトには、村の博物館とベドウィン・ゲスト・ハウス、村の井戸、さらに印象的な250年前の家が含まれます。この家は、昔の家庭での習慣を説明するためのもので、ラエド神父はたとえ話を説明するのに用いました。実は、村には修理を待つ多くの無人の昔の家があります。新しいプロジェクトの一つは石の学校だとラエド神父が言いました。石とは何でしょうか?それは何十人もの若者に、古い家の修復方法を教えて、村に雇用を創り出すということです。学校自体はそのような家の一つに設けられます。学校の修復が実際にカリキュラムの一部になるのです。

 それから、私たちはタイベのビール工場を訪ねました。工場のオーナーに、ラマダンなので学生たちにビールを与えないようにお願いしました。断食はほとんどの学生が行っています。キリスト教徒の学生も連帯のしるしとして行っています。(今回の訪問で一緒になったオランダ人の、フランシスコ会のルイス司祭は、ラマダン中はずっと断食を守っています。これは個人的な行動で、去年も行い地元で有名になりました。)

 「子どもを学校に行かせよう」キャンペーンの一環としての示威運動を行いました。これは一連の示威運動の第二弾です。月曜に、聖誕教会前の飼葉桶広場で最初の示威運動を行いました。その時は100人が参加し、外出禁止令や路上バリケード、検問所のために現在学校に行けない、何万人ものパレスチナの子どもたちの、教育を受ける権利を要求する横断幕を掲げて歩きました。私たちは厳粛に、聖誕教会とオマール・モスクの前を通り過ぎました。ムアッジンの声のために、イスラム教徒とキリスト教徒の子どもたちが、コーランや聖書からの節を唱えたり歌ったりするのを聞き取るのは困難でした。市長や数名のNGO職員と共に行進に参加していたベツレヘム知事モハマド・メダニは、教会とモスクの前で別々に祈りをする必要は無く、祈りを一緒にしてはどうだろうかと言いました。

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 そこで、タイベではラテン典礼の小教区の前で行うことにしました。今回は教会の鐘が、二つの聖典からの朗読に合わせて鳴らされました。タイベの若者も参加しました。横断幕が広げられ、何百人もの若者や教師と共に、タイベの日当りの良い曲がりくねった通りを行進しました。沿道の家族はベランダに出て、一体この侵入者は何物だろうと見ていました。実地研修と示威運動を組み合わせることなどできるのでしょうか。私たちにはそれができました。若者は市長の演説を聞いて喜び、聖グレゴリオスのビザンチン教会の遺跡を説明しました。ここでは、人々が約2週間に一度誓願を行い、動物のいけにえを捧げます。(実はこれはキリスト教徒以前のカナナイト人の儀式で、村人は伝統を守る上でこれを続けています。)

 この行進は何にも増して、自由を要求するための祭りの示威運動であり、祝いです。タイベはラマラの中心部から遮断されていて、娯楽も無いため、村の少年たちの何人かは集団になって、やって来た少女たちをじろじろと見ていました。その後私たちはイフタルと呼ばれる断食後の食事を、時間ちょうどにとりました。ファウドは、食事が許される時間が来る前に食べ始めないように、キリスト教徒の若者を待たせていました。食事の後バスは出て行きました。有頂天になって車を乗り回したタイベの若者が、クラクションを鳴らしたり叫んだりしながら、村の境界を出るまで2度3度とバスを追い越して行きました。検問所ではすべての年長の青年男子、つまり大学生がバスから降りるように手招きされました。しかしまもなく出発することができ、楽しい実地研修ではおきまりの、全員の拍手と手拍子が始まりました。その後ベツレムに戻ってから、聖ヨゼフの少女たちは、兵士が検問所を通してくれなければ良かったのにと密かに思っていたとスージーに打ち明けました。彼女たちは、教会の隣りの居心地の良いホステルで、就寝時間まで何をするかまですっかり予定を立てていました。少なくとも、忙しくてざわついたベツレヘムの通りから、静かで美しい村に戻ることができたであろうにと少女たちは言いました。

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 家に帰ってから、次の日にエルサレムに一緒に来るかどうかをメリーと相談しました。結論はノーでした。1週間行くことを考えていましたが、ぎりぎりになって再び行かないことに決めました。彼女は、「夜の盗人の様に」でこぼこの野原の道を横切って行き、エルサレムでは頻繁な検査にびくびくしたくないのです。その上、エルサレムの店員は以前と比べパレスチナ人に対して好意的ではありません。食事の時、メリーは急に私たちの食べていたオリーブのことをとても大げさに誉め始めたので、隣人と私は、大きなことを楽しめない時は、小さなことで楽しもうとするものだと言いました。その後メリーに、天気の良い午後には何がしたいか尋ねたところ、ヤラとタメルを浜辺に連れて行くわと、彼女はあざけるように言いましたが、彼女の笑い声は普段より大きかったです。夕方に独立記念日の花火の音がしました。それともあれは銃声だったのでしょうか。

一方、ヤラはメリーと私に、もうタメルのようなかわいい子どもを生んで欲しくないと言いました。彼女は妬いているのですが、それを遠まわしに言ったほうがいいということを知ったのです。鳥やボート、羽のあるお姫様それに黒い白雪姫(肌の黒いバービー人形をもらってからです)の絵を書いている時、ヤラは幻想の世界にいます。


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