エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.178

パレスチナの私の家族
                       ハリー・ハゴピアン博士(KSL-KOG)

 聖地のユダヤ教徒とキリスト教徒、イスラム教徒が参加して、ロンドンのランベス宮殿で2週間前2日間の会議が開催されました。ユダヤ教徒とキリスト教徒、イスラム教徒と言って、イスラエル人とパレスチナ人と言わないのは、この会議の性格が大部分は宗教的なものだったからです。この会議は、三つの一神教の代表によるアレキサンドリア宣言の枠組みの中で続けられている対話プロセスの一環でした。カンタベリー大主教の援助により開催され、ユダヤ教徒とキリスト教徒、イスラム教徒の参加者の間で、困難で時として緊迫した討議が行われました。参加者は討議を終え、2段階からなるコミュニケを発表しました。一方では、占領の終結と、イスラエルと対等な存続可能で主権をもったパレスチナ国家の樹立を求めるというパレスチナの立場を再度コミットしました。他方では、暴力と自爆攻撃の即時停止を求めるイスラエルの立場を同様の重さで強調しました。

 この会議が開催されていた週に、母がロンドンを訪ねて来ました。私は中国人のパートナーと、日曜にリッチモンドのパブで母を食事に誘いました。古めかしいカントリー調のパブの中で、暖炉の横に座ってアレキサンドリア会議の進行について母に話しました。またイスラエルによるパレスチナの国土の占領と、絶えることのない二つの民族間の暴力が討議での中心的な問題であったことを言いました。

 母は1948 年の難民の問題も会議で討議されたかどうか、私に尋ねました。この質問にいささか面食らってしまいました。この問題について私は母から何も聞いたことがなかったからです。さらに、これら一連の問題について述べただけで、イスラエル・パレスチナ間の多くの会議がしばしばぶち壊しになったことを、自分の政治的経験から知っています。1948年12月のパレスチナ人難民に関する国連総会決議 194 (III) は、国連憲章と世界人権宣言の第13条を肯定しています。それどころか、上記の国連総会決議の第11条はパレスチナ人難民の帰還する権利と補償も認めています。しかしながら、イスラエルとパレスチナ自治政府との間の実際的政治によって、オスロ合意の和平プロセスではこの問題は真剣に取り組まれませんでした。現実的に一致できたであろうことさえも、この問題が両者に引き起こす激しい感情のために寄せ付けられませんでした。

 それで、母に自分の体験を語ってもらいました。1948年に私の母方の両親は、パレスチナのマンダトリーの中でも最も裕福な区域に住んでいました。実際、タルビエには多くのアルメニア人とパレスチナ人キリスト教徒の家族が住んでいました。1948年のパレスチナ分割の国連決議とそれに続く全アラブによるこの決議の条件の拒絶の後、第一次アラブ−イスラエル戦争が起こりました。ユダヤ人戦闘員(ある人たちにとってはテロリストであり、別の人にとっては自由の戦士です)はエルサレムの色々な地域に進出しました。タリビエに着くやいなや、その区域に住むユダヤ人以外のすべての住民に対して、48時間以内に持ち物をまとめて自宅から退去するようにと拡声器で放送しました。前進して来るユダヤ人戦闘員に多くの住民はパニックを起こし、事態が沈静化したらたら戻って来るつもりで、家から逃げ出しました。祖父はとてもすばらしい家に住んでいて(庭には目印のレモンの木がありました)、ペルシャ絨毯の商人として景気の良い事業を行っていましたが、ほんの少しの間も家を手放すことを拒否しました。しかしその二日後、事態が刻々と悪化し家族は深刻な危険にあると、家族の友人で顧客でもある英国陸軍大佐が祖父に警告しました。祖父は直ちに去らなければなりませんでした。

 それで祖父は慌てて最低限必要なものだけいくつか荷作りして、家の中の家具をほこりよけの白いシーツで覆い、家族を自動車に乗せてベイルートの親戚のもとに難を逃れました。しかしレバノンは居るべき所ではないと祖父は思いました。一ヶ月後彼はベイルートに戻りました。祖父は国境線が既に変更されて、タルビエには戻れないことを知っていました。そこは新たに建国されたイスラエルの一部になっていました。それで祖父は国連にいる友人たちに連絡を取り、イスラエルとヨルダンの緩衝地帯にまたがる(新門からさほど遠くない)こととなったエルサレムの区域に持っていた店を少なくとも調べさせてもらえないかと尋ねました。国連職員とヨルダン軍の将校が付き添って店に行き、商品がすべてまだ無傷であることを確かめました。それで安心して、2日後にもう一度店に戻り、エルサレム旧市街のルーテル贖い主教会の近くのスーク・エル・ダバグハに開いた別の店に移すために、店からカーペットや商品をすべて運び出そうとしました。しかし店に着くやいなや店中が略奪されていることがわかりました。

 年月がたって、祖父母と三人の娘は生活を再建しました。1967年の6日戦争の後、イスラエルがヨルダン領のエルサレム東部を占領した時、私の家族はタルビエに「レモンの木がまだ残っているか」見に行きました。私の家族は、家の権利書はもちろんのこと以前の玄関の鍵まで持っていました。彼等が玄関のベルを鳴らすとイスラエルのユダヤ人がドアを開けてくれました。家族が自分たちの体験を語ったところ、そのユダヤ人は中に入ってコーヒーを飲むように勧めてくれました。彼は私の家族の話を聞いて、家を置いて「逃げ出した」ことは気の毒だと言いました。人生こんなものだよと言い添えて、彼は私の家族を引き取らせました。それ以来祖父は二度とタルビエに戻ることができませんでした。

 私は、1915年のオスマントルコのアルメニア人大虐殺で祖父母が家と事業を失った家族の出身です。家族はそれから1948年に再び財産を失いました。私は、彼等やその他大勢の子どもたちや男女の経験を何のこだわりも無く無視することはできません。法律や政治の微妙な点とはかかわりなく、彼等の過去の経験は常に現在の生活に結び付き、彼等の将来の希望を色取ります。だれかこの経験から肯定的な教訓を見出せる人はいないでしょうか?


No.178 教皇40万ドルを聖地に寄附


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