エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.177

キリストの時代に遡るタイベ村のルーツ
      2002年11月2日  マリア.C.コウリー

マリア.C.コウリー(Maria C. Khoury)は、エルサレムで出版されたChristina's Favorite Saintsとギリシア正教会の4冊の子供の本の著者である。

 新約聖書に記してあるように、タイベにおけるキリスト教のルーツは、救い主イエス・キリストご自身にまで遡る。最高法院がイエス告訴の決断を下した後、イエスは弟子たちとともにタイベ村に行かれた。
「それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、
荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き・・・」(ヨハネ 11:54)。

タイベ村 タイベの聖書名は「エフライム」というが、1187年頃、イスラムの指導者サラディンによって「タイベ」という現在の名前に改名された。民話によると、エフライムの村を訪れたサラディンが、村人たちから親切なもてなしを受け、アラビア語で「善良で親切な人々」を意味する「タイベン」と述べたと伝えられている。
 それ以来、聖書に出てくるエフライムは、「タイベ」という現代名で呼ばれるようになった。しかしこの地域には「タイベ」と呼ばれる場所が3箇所ある。ひとつはヨルダンにある「タイベ・ザマン」(元祖のタイベ)。もうひとつはイスラエルの北、ジェニンの近くにある「タイベ」だ。

 私たちのタイベ村は、パレスチナに残る唯一のキリスト教徒村であり、エルサレムから20分ほど、エリコの手前にある。1300人の村人全員がキリスト教徒であり、その大半がギリシャ正教である。ごく一部の外国人を除いて、みなパレスチナ人だ。1967年のイスラエル軍によるヨルダン川西岸地区の侵略以来、およそ一万人の人々が政治、経済不況、そして軍事占領による日々の苦しみを理由に、タイベからオーストラリア、アメリカ、ヨーロッパに移住していった。村はヨルダン川西岸地区として知られるユダヤの地、エルサレムとエリコの間に位置する。残念ながら、村は現代の地図上には存在しない。

 しかしキリストの時代から、村はここに存在しており、アッシュール山と呼ばれる
聖書で言うところのユダヤ・サマリア地方のもっとも高い山の上にある。晴れた日、タイベの一番高い丘からは、死海、ヨルダン渓谷、サマリア山脈、ユダの荒れ野の山々、そしてエルサレムの町の絶景が見渡せる。エジプトの聖マリアが40年間孤独に過ごしたとされるまさにその谷を見下ろしているのだと思うと、とても不思議な気がするのと同時に、霊的に満たされた心地になる。
 村には、4世紀に建てられたギリシャ正教の旧聖ジョージ教会遺跡を含め、1929年から1932年に再建された新しい聖ジョージ教会、1964に建てられたメルカイト教会、「イエスの最後の隠遁」を記念して1971年に開らかれたローマカトリック教会、そして1990年フランス人の修道士ジャック・フランによって建てられた小さな修道院の5つの教会がある。

 村はC地区として指定されており、オスロ平和合意が締結された今もなおイスラエル軍占領下におかれたままである。イスラエル入植地は平和のために大きな妨げになっている。パレスチナ人がABCの地区間を仕事や学校、病院のために行き来するのもままならず、大変苦しんでいるからだ。イスラエル軍がすべての道路をコントロールし、パレスチナ人がコントロールできるのは街の中心だけという状況では、どこにも行くことができない。私たちが住んでいる周辺には何百もの不法入植地があるため、この地域がパレスチナ自治政府に引き渡されたことはない。西岸地区最大の入植地「オフラ」は、私たちの村の隣にある。オフラは、エフライムのヘブライ語名だ。

 村には、リアド・ムアディ(Riayd Muaddi)博士が経営するカリタス後援の病院
と、薬局、そして無数の小さな食料品店がある。タイベ村は、1956以来、水道、電気、電話がもっとも早くつながった地域のひとつである。タイベには、プロフェッ
ショナルな職業を持つ人は少なく、人々は伝統的に、農業、特にオリーブの木の栽培によって生計を立ててきた。1993年のオスロ平和条約の後、カナーン・コウリー一族がタイベビール会社を設立して始めて、村は地図上に記されるようになった。このビール工場はタイベにあるたった一つの工場であり、中東唯一の地ビール醸造所である。

 タイベ村は、近隣のイスラムの村々と良好な関係を保っている。一方でレイモン村と、反対側ではディエル・エジーア村と隣接している。しかし、村から水を奪い、イスラエルの不法入植地建設のためにパレスチナの土地を奪う近隣のイスラエル入植地とは交信を持っていない。タイベ村の住民たちは、近隣のイスラムの村々と言語、食べ物、音楽、そして文化的価値観を共有しているため、互いに結婚式に招待し合うこともよくある。しかし、イスラム教徒とキリスト教徒との間の結婚はなく、禁止されていると言ってもいい。そのような異教徒間の結婚が稀にあったとしても、結婚した夫婦は家族からは縁を切られてしまう。イスラム教徒とキリスト教徒は、パレスチナ人としてのアイデンティティと、独立と自由を求める闘争という共通項によってある意味では団結しているが、礼拝の仕方や聖日の祝い方は明らかに違うのである。

 ローマ皇帝コンスタンティヌスが聖ジョージにちなんで初めて聖地に教会を建てたのはまさにこの小さな村であったが、それ以来、タイベ村は常に守護聖人聖ジョージの保護のもとにあった。この取るに足らない小さな村は、聖地において二千年の間、キリスト教の信仰を証ししてきた。ありがたいことに、この小さな村は、近隣のラマラやパレスチナのその他の地域が被ったような破壊や爆撃は受けずにすんできたが、4月にたった一日だけ村に夜間外出禁止令が出されたとき、人々はイスラエル兵たちがやってくるのを神に祈りながら待った。これほどの流血や恐怖を経験すると、人は恐れや不安を超越して神を信じて待つようになるのも不思議ではないだろう。最終的に私たちが行き着く先は神の国なのだから、私たちはイスラエル兵の銃口下で生活しながら、神のあわれみみを請うしかないのだ。そしてその一方で、私たちは神がお与えになった十字架を背負って歩き、キリスト誕生の地におけるキリスト教のルーツを守っていかなければならないのだ。


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