オリーブ・ブランチ NO.176
聖地でのある一日の苦闘
2002年10月24日 マリア.C.コウリー
マリア.C.コウリー(Maria C. Khoury)は、エルサレムで出版されたChristina's
Favorite Saintsとギリシア正教会の4冊の子供の本の著者である。 |
毎朝4時、時には4時20分、私はイスラム教の祈りの知らせで目を覚ます。あと20分遅くてもいいのではと思うのだが、我々の小さなキリスト教徒の村をはさむ二つのイスラム教徒の村から、アラビア語で「神はすばらしい」と叫ぶ拡声器の大音量を7年間も聞きつづけると、キリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教の聖地であるこの地において、伝統や習慣に不平を言っても意味のないことだと思う。我々には政府も、警察も、土地も、秩序もない。あるのは完全軍事占領だけである。この軍は、エルサレムとエリコの中間地点、パレスチナでもっとも 高い山岳地方の一つである「聖書(時代)のエフライム(※)」として知られる小さなタイベ村を囲む何百ものイスラエルの違法入植地を守っている。しかし、我々には、キリストが誕生したこの地で、キリスト教徒の存在を維持する責任と道徳的義務がある。不幸にも、基本的人権と尊厳を剥奪する恐ろしい軍事占領のために、パレスチナ人人口300万人のわずか2%にしか過ぎないキリスト教徒の数は次第に減少しつつある。
[※タイベは、ヨハネ福音書に出てくるエフライムです。イエスがご受難の前にユダヤ人を避けた町として出ています。]
外はまだ暗く、朝起き出すにはまだ早い。台所の窓から外に目をやると、オフラのイスラエル入植地がまた新しく拡張されたのが目に入る。オフラはヨルダン川西岸地区でもっとも大きな入植地であり、実質的に私の家の玄関先にまで拡大してきている。ようやく朝日が部屋に差込み始めると、私は起きだして美しい丘陵とユダヤの谷を出窓からじっと見つめ、ここはキリストが十字架につけられる前に訪れた村であることに思いを馳せる。「イエスは‥‥荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、‥‥。
」(ヨハネ11:54) 本当に自分は聖なる場所に住んでいるのだと日々実感する。しかし、イスラエル兵の銃口にさらされながらこの聖地に生活し、キリスト教のパレスチナにおける起源を必死で子供たちに教えるキリスト者として、なんて高い代償を支払わなければならないのかと思う。
子供たちを叱り付けてなんとか時間通り7時までに家を出ると、また今日も安全に学校にたどり着けますようにと祈りながら、村の中心にあるカトリック教会や、そのすぐ右隣の正教会、そしてその左手にあるメルキト教会の前を通り過ぎる。中でももっとも壮麗なのは、4世紀に聖コンスタンチヌスとエレナによって建てられたセントジョージ教会の遺跡だ。日々この史跡を目にするたび、キリスト教信仰を守り、キリストの歩いた場所を重んじる証として、聖地のあちこちに聖堂や教会を建てたこの二人の偉大な聖人の深い信仰心と献身を思い知らされる。実際のところ、パレスチナを「聖地」と呼んだのはローマ皇帝コンスタンティヌス大帝であった。キリスト教の祭りや祝日があるたびに、この土地はキリスト自身によって神聖なものになったのだということを気付かされる。キリストは人々の中に入っていき、神の救いについて、そして神こそが真実であり、この暗い世の中にあって神こそが道であり光であると説かれた。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 」(ヨハネ 1:4) 祖国、自由、そしてイスラエルの占領と残忍行為からの開放を必死に求めるパレスチナの人々に対し、国家テロリズムが行われて2年が経過した。そのとき、数々の貴重なキリスト教の遺跡と共に、キリスト生誕の地はほぼ完全に破壊されてしまった。その今日ほど、聖地が暗闇に閉ざされたことはない。
学校に行くには村の外に出なければならないが、ここ2年以上の間、通行を阻むため、二つの主要道路は大きなコンクリートのブロックと泥の山で塞がれたままだ。いつも村の若者たちが一部のブロックを脇にどけ、少なくとも車一台が通れるようにしてくれている。そうすれば、外国のパスポートとイスラエルの登録車両さえあれば村から出てイスラエル入植地にこっそりと出て行くことができるのだ。しかしそれができる人の数は片手で数えられるほどしかいない。残りの1300人の住民は事実上村の囚人も同然である。どうしても必要であれば、徒歩で山を越え、谷を渡って町を出ることもあるが、決まって銃撃戦の最中に捕らえられたり、何時間も拘留されたりしてしまう。村に戻ってみると、朝通った同じ道が完全に閉鎖されており、暑く疲れる一日を過ごした後、家に帰れなくなったことが何度もあった。子供たちは車から降り、石のように重たいバックパックをしょって泥の山を歩かなければならない。私は夫を呼んで検問所まで来てもらい、私の代わりに谷の合間を運転してもらうようにしている。夫が運転すれば、私が運転するよりも岩に衝突することも少なく、もし車が傷ついたとしても家で喧嘩になることも少ないからだ。
明るい秋の朝、泥の山を超えると、少なくとも入植地の道路を45分は運転しなければならない。運転をしながら、私はシカゴの聖使徒教会で録音されたビル・シガノス神父のテープを聞く。ここ数年、お説教をテープで聞いたり電子メールで読んだりすることで、私は何とか正気を保つことができてきた。また人々の祈りが私を救い、心の平和を与えてくれた。もし宗教上自殺が禁じられていなければ、私は当の昔に自分の命を絶っていたであろう。しかし今私は自分の命を神の手にゆだね、苦悩や苦痛なく平和に日々を過ごせるよう毎日神に祈っている。この祈りを終える頃には、主要道路から高い場所に移動された二つの空の検問所の前を通り過ぎる。6月のある日曜日の朝、近隣の検問所で7人の兵士が殺害されてからというもの、山の上には米国資金で購入した武器を持つフル装備の兵隊たちが立っている。
顔に当たる日の光で道路が見にくいながらも、山の上に銃を持った兵士たちがいることに気付く。その右脇には白いタオルかローブを頭に巻き、本を手にイスラエル国旗の横で体を前後に揺らしながら祈るイスラエル入植者がいる。身を守るための銃と兵士がなければ祈りを捧げることができないのであれば、どこかでひどい不当行為が行われているということではないか。こんなことは普通ではない。人は平和と自由のもとで祈りを捧げるべきである。だがもちろん、他国の土地を取り上げ、その土地の人々から人権を剥奪し、まるで動物のように村に閉じ込めるような行為をしたのであれば、平和と自由のもとで祈れるはずなどないのだ。1948年のイスラエル建国当時、わずか一日のうちに何千人ものパレスチナ人が虐殺され、村々は完全に破壊され、そしてその結果何百万人もの人々が難民となった。このひどい不当行為の後には、間違いなく何かしらの不幸や苦難が訪れるに違いない。
ようやくラマラの手前にあるベイト・エルと呼ばれる主要道路を封鎖する検問所にやってくる。山の上や谷には、ラマラの町の学校や仕事に向かう大勢の学生や教師たちが、検問所を避け、雑草や泥、岩をぬって歩く姿がある。山麓の道の路肩では、少なくとも6人の完全武装したイスラエル兵士がジープから降り、10人か15人のパレスチナの若者たちに銃口を向けている。これは日常の光景だ。イスラエル兵士が何の理由もなしに無作為に人を止め、嫌がらせをするなどは日常茶飯事である。ついこの間、同じ村に住む20歳の若者ルイは、朝9時から夕方3時まで拘束され、うだるように暑い一日の終わりにようやく身分証明書を返還され通行を認められたという出来事があった。ルイは金製造工場で働く数少ない一人だが(6割の人々は包囲のために職を失っている)、兵士たちに移動を妨げられてしまうと給料をもらえなくなってしまう。本当に信じられないことだ。こんなことが何の罪もない人々に起こり得るとはとても現実とは思えない。さらに苛立たしいのは、こうした人々はただパレスチナ内の村や町の間を行き来しているに過ぎないということだ。彼らは何も1967年前の国境線のイスラエル領地に侵入しようとしているわけではない。イスラエルが1967年にヨルダン川西岸を侵攻し、それ以来不法入植地を建設し軍事装備を置いて立ち退きを拒否しているそのヨルダン川西岸地区で、嫌がらせを受け苦しめられているのだ。そのまったく非人道的な苦悩が日々繰り返されることにより、武力衝突が起きたのだ。
通過しようと検問所に私が到着するや否や、兵士は引き返して近づくなと手で私に合図を送ってくる。それでも車を近づけ、「おはようございます。」と挨拶をするだけで兵士を益々腹を立てる。兵士は「外出禁止だ。戻れ。」と厳しい口調で答える。「私の知る限りでは外出禁止令は出ていません。現にこんなに大勢の人たちが町に行こうと山腹を歩いているじゃないですか。子供を学校に連れて行かないといけないんです。」と何とか通してもらおうと私は兵士に懇願する。「ひどいことにイスラエル軍が好き勝手に外出禁止令を出すので、9月中はたった9日間しか学校がなかったのです。もし今日学校があるのであれば、学校に行って子供に勉強させたいんです。」すると兵士はまた険しい口調と顔つきでまた答える。「ラマラは閉鎖されていると言っただろう。さぁ帰れ。」
苛立ちと怒りを覚えながら車を数メートルバックさせると、タイベで宗教の教師をしているジャック神父に電話をし、彼が検問所を通過することができたか、本当に学校が開いているのかどうか聞いてみる。私よりも聖職者に多くの特権が与えられているということが、私には本当に腹立たしい。私はこのような形でキリストに奉仕したいと考えているのに、宗教上女性が聖職者になることは許されていない。私の通行は許可しなかった兵士がジャック神父の通行は許可したと知り、私はますます怒りを感じていた。夫に電話をし、助けを求めるのだが、彼はいつも決まって「家に戻って、今日は学校に行くのはやめなさい。」と答えるのだ。どうすることもできず、このまともとは思えぬシステムにすっかり落胆しながら、私は再び兵士のところへ行って、有効な観光ビザのあるギリシャのパスポートを見せ、自らリスクを犯して検問所を通過し、ラマラで死ぬのも自分の国際的な権利だと主張した。すると彼はこう答えた。「車を壊されないと、引き返さないのか?」以前兵士に車を傷つけられたことがあり、そのための修理代をまた払うのはいやだと思い、私はようやく引き返すと一番近い谷の斜面に車を止めた。そこからは子供たちは雑草や泥の間を歩き、反対側でタクシーを拾って学校へ行かなければならない。戦車や装甲車が群がる界隈では、これは必ずしも安全な行為ではない。子供たちが車を降りると、私の胸の鼓動は早く鳴りはじめる。
子供たちの身に何かが起きるのではないかと心配でたまらず、安全に学校にたどり着けたことを確認するまで私は5分起きに電話をし続けた。2000年9月以来、2000人近くのパレスチナ人が殺され、そのうちの多くが登校途中の子供たちだった。16歳と14歳の二人の息子は青年へと成長しつつある。イスラエル軍がパレスチナ人の一斉検挙をし始めるときには、15歳の男の子でさえ連行していく。四月にラマラの母親たちと話をした時には、イスラエル軍が一軒一軒の家を襲って息子たちを連行し、尋問の末に帰されるのを待つ間、家族は生きた心地がしなかったと話していた。 このようなことが民主国家イスラエルによって行われているのだ。イスラエルは世界に対し、「テロリストを捕らえているのだ。」と言いつつ、実際はタンクや装甲車、攻撃型ヘリコプター、F−16ジェット戦闘機、暗殺計画、そしてパレスチナのあらゆる近隣居住地での絶え間ない爆撃や銃撃で私たちを恐怖に陥れている。国際条約では、武装していない一般市民に対する武器の使用は禁じているにもかかわらず、イスラエルはあらゆる法を超越しているのだ。
一日の奮闘はこれで終わったわけではない。3時には子供たちを学校に迎えにいかなければならないが、町は包囲されているため、また別の検問所を試してみなければならない。通過するのに3、4時間はかかることで有名なカランディアという30分ほど離れた検問所に行ってみることにする。この美しい真夏日にカランディアに向かう途中、列に並ぶ無数のトラックや車を追い越して横入りをすることにする。撃たれる危険をおかしさえすれば通れるものを、わざわざ何時間も待たなければならないのはばかばかしいからだ。こうした検問所の周辺はあまりにも無秩序状態で混乱しているため、私でなければ必ず他の誰かがやってきて検問所の列に横入りしてくるのだ。そして自分もそうすればよかったと思いながら何時間も列に並ばなければいけない羽目になる。あまりの無秩序、混乱、遅れに、暴動のときに母が私のもとを訪ねていたときこう言っていた。「たとえ鎖で繋がれたって、こんな国にはいたくない。」ベイト・ジャラのキリスト教徒居住地が毎晩爆撃されていたころ、ギリシア正教会の著名な主教が、子供を連れて出て行くようにと私に指示してきたことがあった。聖地にはキリスト教徒の存在は必要ないと感じたからだ。シャロンは私たちみんながここを出て行きたいと思うように仕向けるのがとてもうまい。場所によってはこの強制移住は、民族浄化と呼ばれているのだろう。
キリストに仕えることの真の意味とは、自分の命を犠牲にし、それによって神の国で永遠の命を得ることだ。神を救い主として本当に受け入れるならば、神が私たちにお与えになる十字架をも受け入れなければならない。欧米諸国で自由と活気を味わったことがあるキリスト教徒とイスラム教徒が、このようなひどい状態でどうやって毎日生活したらよいのか、誰一人としてわかっている者はいない。それでも、聖地に住むキリスト教徒として、敢えてこのような悲劇的で残酷な状況下にあるすべての人の中に神を見出すこと、そして、どんなリスクをも犯してでも、平和的な解決策を信じ実効することで、キリストの生まれた地で救い主キリストを証言すること、それが私たちに課せられた義務なのだ。真にキリストは私たちの中におられ、私たちは一つなのだ。あらゆる地にいる人々の祈りは力強く、いつか聖地において正義が勝つ日が来る。今すぐこの世界に平和がなくても、少なくとも心の内に平和を持とうではないか。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
」(ヨハネ 14:27)
|