エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.175

「現在の平和と安全の追及のための方法は誤っています。そろそろ歴史の教訓と、過去2年の犠牲者たちから学んでもいい頃です。私たちは暴力に対して暴力で応じてきました。私たちは、犠牲者の上にさらに犠牲者を葬ってきました。…」とミッシェル・サバーは語ります。

ラテン典礼大主教ミシェル・サバーの聖地キリスト教徒エキュメニカル基金へのスピーチ

2002年10月18日  ワシントン D.C.

神のともし火は今も燃え続ける:聖地のキリスト教徒は耐え忍ぶ

来賓の皆様、兄弟姉妹の皆様、
1. エルサレムからご挨拶を申し上げます。聖地のすべての人々と同様に、皆様に平和と正義があるようにお祈りいたします。

 私たちは今年の聖地キリスト教徒エキュメニカル基金の会議に集いました。私たちキリスト者のふるさとの地にある、小さいながら生きているコミュニティーの現在と将来について私たちは考えます。

 今年の会議のタイトルあるいは表題は『神のともし火は今も燃え続ける:聖地のキリスト教徒は耐え忍ぶ』です。そうです。神のともし火はそこにあります。それゆえに私たちは耐え忍ぶのです。私たちは神への堅固な信仰ゆえに希望を持ち続けます。神は全能であり、この世のどのような力よりも強いのです。私たちは詩編作者と共に、神は「御自ら世界を正しく治め 国々の民を公平に裁かれる」(詩編9:9)と信じています。私たちは、「虐げられている人に 主が砦の塔となってくださるように 苦難の時の砦の塔となってくださるように。」(詩編9:10)と信じます。私たちは神の愛と正義を信じます、それゆえ神のともし火は今も燃え続けており、聖地のキリスト者は耐え忍ぶのです。聖地のキリスト者は希望をもち、神に言います。「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」(詩編10:12)と。「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導」いてください(詩編5:9)。「主よ、あなただけが、確かにわたしをここに住まわせてくださるのです」(詩編4:9)。

2. 私たちはこの信仰をもって、この地の人々の悲劇に目を向けます。そこは、私たちのすべて、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒にとって共通の信仰の父であるアブラハムに始まる人間と、神との歴史の記憶にあふれた聖地なのです。私たちの国は神の記憶にあふれています。しかし、今日のような困難な時期に、神はまだここに、この地ではなく、神を信じ生ている者たちの心におられるのかと自問します。なぜなら、今日起こっていることはとても残虐で、神を信じる者から出てきているとは思えないからです。私たちは聖地に、占領に、占領に対する抵抗に、そして地獄のような暴力の悪循環に目を向けます。これらは多くの人間たちの生活を取り巻います。その人々の中にパレスチナのこの小さなキリスト者のコミュニティーが含まれているのです。

3. 私たちは聖地とその悲劇に目を向け、私たちキリスト者のアイデンティティーと、この苦しみを分かち合い癒しに貢献する役割に目を向けます。私たちキリスト者としてのアイデンティティーは、この地の悲劇に苦しむ多くの人々、外出禁止令と封鎖、破壊、パンを乞わざるを得ない屈辱を耐え忍ぶ人々にとって、まだはっきりと定義されていません。同時に、占領の終わりと自由の再生を求める政治的そして人間的苦闘に直接加わっている多くの人々にとっても、明確には定義されていません。

 私たちのアイデンティティーの第一の特徴は一致です。私たちはいろいろで、分裂していることは事実です。しかしそうであるからこそなのです。エルサレムには多くのキリスト教会があります。私たちには相違点と分裂があります。しかし、私たちはすべての相違と分裂を超えて一つになるように招かれています。それは、私たちが奉仕するために遣わされた困難の中にある人々の持つ同じ心、同じビジョンなのです。今日の聖地の人々のように誰かが苦しんでいる時、キリスト教会は、分裂によってその行動とメッセージを無力化させられてはならないのです。愛によって分裂を克服し、仕え、虐げられた者、貧しい者の叫びに耳を傾ければ、いつの日か神は、私たちすべての真の希望である統一と、正義と平和の恵みによって報いてくださるでしょう。

 それゆえ、エキュメニズムはこの基金の特別な使命です。それは、エルサレムの教会から出たすべてのキリスト者にとっての基礎なのです。すべてのキリスト者はこの基金に安らぎを感じるでしょう。私たちの中にそれを私物化しようとする者がいてはなりません。それは、聖地のイエス・キリストを真に証するためにすべてのキリスト教徒が出会い、反省しそして行動する場でなければなりません。

4. この第一の基本的な特徴は、自分の民族への帰属でもあります。すべてのキリスト者はどこにいても、自分のいる場の人々の一部です。それゆえパレスチナ人キリスト者は、すべての試練と苦難、自分たちの土地と自由の回復のための犠牲において、自分の民族の一部です。同時に、自分の土地に帰属し、必死にその土地にしがみつき、正義を求めそのための苦難に遭いながらも、パレスチナ人キリスト者はイエス・キリストと、その愛と正義を信じるのです。主イエスは、この引き続き起こっている悲劇の人間的な解決に特別に力を尽くす価値の具体的な表れです。イエスの霊は、自由と自分の土地を求めるパレスチナ人を豊かにすることができます。それゆえ、パレスチナ人キリスト者のアイデンティティーの根本的な要素は、イエス・キリストと、その教えに対する信仰であり、その信仰を誠実に生きることなのです。

 ある人たちは、パレスチナ人キリスト者があたかも純粋な宗教的コミュニティーで、民族への他のいかなる人間的絆も持たないかのように見ています。そのような人々は、私たちの民族性と国民性を否定しています。民族的、国民的アイデンティティーは私たち皆が共有する善です。キリスト者としてのアイデンティティーは、私たちがパレスチナの人々に帰属していることを損なうものではありません。教会の普遍性はパレスチナ人の伝統を消滅させ、国民性を破壊するものではありません。教会はすべての国民、人種、文化を包含し、肯定する信仰共同体です。私たちパレスチナ人は一つの人間のコミュニティーであり、一つの民族であり、そこではキリスト教徒とイスラム教徒は一つになっています。

5.土地と人々への結びつきにおいて、また土地と自由を求める苦闘において、
キリスト者とイスラム教徒の関係は、非常に悪意のある誘惑を受けています。それはこうささやきます、「イスラム教徒はキリスト教徒を軽んじており、生活に必要な余地をあたえない。イスラム教徒は危険であり、キリスト教徒にとって恐怖の源である」等々。このようなささやきは、パレスチナ人キリスト者にとり有益なものではありません。それはむしろ、キリスト者が恐れの中で生き、自分の土地とそこでの使命を放棄するよう誘うものです。イスラム教徒とキリスト教徒の関係は、同じ民族の中の二つの部分の密接な絆です。パレスチナ民族自身のみが、共存と協力のための最善の方法を見つけるため、大きな継続した努力を担うことができます。この関係は、どのアラブ国家やイスラム教社会に住むキリスト教徒の生活にも欠かせないものです。それは、アラブとパレスチナのキリスト教徒のアイデンティティーの基本的な特徴なのです。アラブやイスラム教世界に住むということは私たちの使命なのです。

 9月11日以降イスラム教徒とキリスト教徒の間の関係が、とても生々しい形で浮上してきました。不条理なテロリズムによって、新たな歴史の瞬間が始まりました。そこで人類は、歴史の記憶と現在の関係を真に浄化するよう招かれています。自分自身の罪、そして悪の本当の源泉と原因を認めるのは難しいことです。この歴史的瞬間にアラブのキリスト者は、自分とイスラム教徒同朋との密接な関係に対する認識を浄化し、世界のキリスト者とイスラム教徒が、一致して新たな世界を築くことができるように招かれているのです。イスラム教徒の中に生きるという私たちの使命は、すべての人々に対する賜物(プレゼント)なのです。

6. 新しい世界を築くにあたり、パレスチナ人の自由とパレスチナ人の国家はその一部でなければなりません。現在の状況は軍事的衝突と化しています。それは、無差別な人間と物に対する破壊です。私たちは今日、誰のためにもならない非常に残酷な軍事的膠着状態の中にあります。安全に対する不安の中で生活するイスラエル人も安全ではありません。そして自由と独立のための苦闘を続けるパレスチナ人は、いまだにその要求を続けています。

 聖地での状況は、非常に単純なものかもしれませんが、政治が、この単純さに対し私たちの目をふさいでいます。この抗争の本質はイスラエルによる1967年に奪ったパレスチナの国土の占領です。ところが、今世界で語られていることは、イスラエルによる占領ではなく、テロとの戦いであり、パレスチナ自治政府の腐敗であり、それに対する必要な改革です。これらは現実の問題です、しかしそれは主な問題ではありません。それどころか、もしすべてのパレスチナ人による暴力が止み、最善のパレスチナ自治政府が選ばれたとしても、それでも抗争は解決しないでしょう。なぜなら根本の問題に手がつけられていないからです。それはイスラエルによるパレスチナの地の占領とパレスチナの人々の独立と自由に対する要求です。この基本的な要求が満たされない限り、暴力と危険がパレスチナの土地を揺るがし続けるでしょう。

 現在続いている軍事的暴力…封鎖・外出禁止令・住居の破壊・パレスチナ人の殺害とイスラエル人の殺害…は、悲劇的歴史の中の、私たちの国土の不幸で、不必要な一章に過ぎません。この章はいつの日にか、多くの犠牲者と、廃墟と、両者に憎しみを残して閉じるでしょう。両者のこんなに多くの流血と憎しみは、もう少しの勇気と、もう少しの誠実さで占領の本質的な問題が考えられたなら避けられたことでしょう。もし両者がその気にさえなれば、流血と憎悪には終止符を打つことができます。そしてその時、両民族は救われ、和解のプロセスに取りかかることができるでしょう。イスラエル政府がとっている現在の軍事的解決の政策は時間の浪費であり、恐るべき生命の浪費です。それは、この長い抗争の歴史の中の残酷で不必要な合間の出来事です。

 現在の平和と安全の追及のための方法は誤っています。そろそろ歴史の教訓と、過去2年の犠牲者たちから学んでもいい頃です。私たちは暴力に対して暴力で応じてきました。私たちは、犠牲者の上にさらに犠牲者を葬ってきました。そして叶った事は後退することだけです。イスラエル人は恐怖の中に生き、必死で安全を求めています。パレスチナ人は占領下に生き、自由を願っています。この二年の間、何千人ものパレスチナ人が殺害されました。そして何千人もが捕虜となりました。それに加えて住宅と農業が破壊されました。もし同じような軍事的状況が続くなら、さらに何千人もの人々が殺害されるか捕虜になり、さらに多くの破壊が起こります。しかし、問題自体はそっくりそのまま残ります。パレスチナ人は、平和とイスラエルによる占領の終結を求め、イスラエル人は安全を求めます。今こそ変革の時です。今こそイスラエル人は、パレスチナ人が正当な自由を享受することを認めることで、自分たちの求めてきた安全を獲得すべきなのです。

7. 聖地キリスト教徒エキュメニカル基金の基本的目的は、聖地を去った人々が住む米国やその他の新天地の教会と連帯して、それらの人々の間に新たな生けるキリスト者のコミュニティーを築くことです。彼等の心と行いの中に聖地のともし火を再び燃やすために、そして聖地に住む人々が、この困難な時期に希望を持ち続けることを助けるために、基金は聖地の癒しのため、真にキリスト教的な貢献を育てなければなりません。基金が今日求められている崇高な目標を達成できるように祈ります。私たちには一致が必要です。ここにいるすべての人々と、聖地での使命の重荷を担っているすべての人びとのために、共通でより連携した行動が必要です。今晩ここにお招きいただきありがとうございました。私たちの地のすべての傷を癒す平和と正義とともに、皆様に主の祝福がありますように。


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