オリーブ・ブランチ NO.173
ベツレヘムだより(35) 2002年10月4日
トワーヌ・ファン・テーフェレン
幸いなことに初めて雨がほんの少し降りました。農家によると9月27日の十字
架の祝日後に降るはずでしたが、現在は雨よりうわさが生まれる気配です。タクシーに乗りベツレヘムへ行く度に新しいニュ−スを耳にします。今週は、アラファトがベツレへムに来ると皆が話していました。クリスマス前に必ずベツレへムに来るためとか、イラク戦争がもたらす交通問題をさけるためとか、聖誕教会に保護を求めるためだとさえ噂されています。反応はまちまちです。
実際、殆どの人はまた外出禁止令がでると思っているので否定的です。ある人は教会の包囲はもうごめんだと言っていました。マリーはアラファトに同情的ですが、彼の周辺からの悪影響は正当化できないと言います。週の終りにはうわさは消えました。
他の風評は、ラケルの墓地域での国勢調査についてです。この地域の併合についてのイスラエル政府の決定後、ベツレへムの中心に住む数千人の住民は、突然、エルサレムの住民になるか、多くの人たちがより受け入れ易い選択肢としての退去かに、直面することになりました。国勢調査は、併合実行への第一歩かもしれません。「聖ヨゼフ」の教員室では、イスラエル人は、どうしてラケルの墓をベツレへムからエルサレムに移さないのかと話しました。弱者の幻想です。
イラク戦争は今や確実になってきたと言いふらすのは、主に強者の幻想です。ハ・アレツ紙(Haaretzイスラエルの新聞)によると、極秘の計画では、パレスチナ領土をイスラエル領土へ(西岸地区及びガザ地区のイスラエルへの併合)、ヨルダンをパレスチナ人へ(西岸地区、ガザ地区のほとんどのパレスチナ人をヨルダンへ移送)、そしてイラクをヨルダンのものとする(ヨルダンのハーシム家がイランを治める)のだそうです。タクシーの運転手は私の名前を尋ね、怒って言いました。「トアーヌToine、アラブ人は『お金』の両替屋ではないんだ!」
ある日、ヨルダンがアレンビー橋(Allenby Bridge)を閉鎖したので、戦争が始まるかもしれないという噂がとびかいました。それは、戦争が始まって、西岸地区からヨルダンへ人々が逃げるのをヨルダンが望んでいないことを意味しています。事実、現在西岸地区のパレスチナ人は、医療や教育のため叉は他の国へ移る時のみヨルダンへ行くことを許可されています。家族の訪問はめったに許されません。
うわさは無力感のあらわれです。最も無力感に打ちひしがれるのは、明らかに検問所においてです。この前私は兵士の前で列に加わりました。人々は、検問所から20m程離れた「ここで待て」と手書きされたボール箱のマークの所で待っていました。人々は一人ずつチェックを受けます。気の短い人たちが数メートル列を前方へ押しやりました。兵士が一人検問を済ませた時、ある人たちが列の前に並んでいた女の子に「行け、行け!」と促しました。 しかし女の子は兵士が何のサインもしないので躊躇していました。仕方なく行こうとして20m歩きましたが、兵士にまだサインを出していないと言われ、戻されました。待っている人たちはいらだって舌打ちをしました。ある人が反対方向から兵士に背を向け、待っている人々に意味ありげな目つきをして歩いてきました。新しいグループの兵士は非常にゆっくりと交代し、待ち時間がまた10分程長引きました。突然私は、このしきたりが単なる一時的なものではなく、エルサレムからパレスチナ人を隔てる道への一歩であることに気付きました。オスロ合意の年の間、また延長された静穏な期間でさえ、検問所はなくなりませんでした。自爆テロが、今や更に険しい道のりへと人々を順応させるために正当化されています。
気まぐれな決定に権力は特に現われます。マリーは最近赤ん坊を抱いて検問所に近づいた男の話を聞きました。驚いたことに彼は身元について何も尋ねられず、合図に従い通ったそうです。その兵士は彼が現代のアラブ人のようだから通れるのだと言いました。他のお粗末な例は、近所の人から聞いたことですが、検問所を通るには結婚し、子供を生まなければならないと言われたそうです。
最近エルサレムの中の検問所を通りました。パレスチナ人の車はユダヤ人の車と分けられていました。両方とも黄色のナンバープレートをつけているのに何故このようなことをするのでしょう。(西岸地区からの青いナンバープレートはエルサレムへの乗り入れを許可されていない)運転手によると、警察は古ぼけて安い車だけ選び、脇で調べているそうです。
無力感に対抗する一つの方法は、文部省やその他の機関、イスラム教とキリスト教の聖職機関、さらにラテン教会総主教ミッシェル・サバー(Michel
Sabbah)をも加えたベツレへム地区のNGOグループにより組まれた、教育の権利を支えるための降誕教会広場での集会です。色々な学校から5万人程の生徒が来ました。生徒たちは「占領に終りを」とアラビア語と英語で書かれた帽子をかぶり、「パレスチナに自由を」と書かれた旗を掲げました。生徒の自由への権利についての旗が、ヘリウムガスをつめた風船に付けられました。それは空に向かって厳かに掲げられるはずでしたが、ある生徒達が専門的な技術で、風船を破裂させてしまいました。それ以外は、我慢できるほどの天候のもと集会は成功し、メッセージを広くゆき渡らせました。その日遅く、捕虜達の家族がろうそくを灯し、スローガンを唱えながら停電の暗闇の中マドバッセ(Madbasseh)通りを進みました。占領に対し、市民の大衆運動を進める時期が来たのでしょうか。
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