2007年 9月の雑記
 
 
2007. 9/1(土) ポニーテールの季節
結局、男子400mでも世界新は出なかった。それでも、もしかして出るんじゃないかと思わせるレースは興奮を倍増させた。いいレースだったと思う。

 9月に入った。戸惑うほど急に訪れた朝夕の涼しさに、夏の終わりを感じる。今年は結局、部屋でも車の中でも、エアコンを一度もつけなかった。もちろんたまらなく暑いこともあったが、我慢できる範囲内におさまった。そのかわり、よく汗をかいた夏でもあった。もとはあまり汗はかかない質だったのが、今年はそれほど暑くないときでも、背中や首筋を汗が伝って落ちたものだった。

 ところで夏の終わりといえば、松本伊代さんの「ポニーテールは結ばない」は名曲だった。1985年発売だから、もう22年も前の曲になる。歌謡曲全般は好きだったけれど、特に彼女のファンだったわけではない。それでも、夏の終わりになると無性に聞きたくなる。「ポニーテール」はもう死語だろうか。


 
2007. 9/2(日) 大健闘
土佐礼子さん、すごかった。
 当初からプレッシャーはあったと思うが、大会最終日まで日本勢のメダルゼロという状況が重なり、日本国民全員からといってもいいぐらいの、とんでもない重圧がのしかかっていただろうと思う。それでも屈せず、真正面からメダルを見据えた走りをした。序盤から積極的に前に出てペースを作り、後半取り残されそうになった時でもけっしてあきらめず、落ちてくる選手を拾って順位を上げた。
 画面から伝わってきたのは、最後まで銅メダルではなく金メダルをねらっていたことだ。その強い思いがあったればこそ、メダルを確実なものにできたのだと思う。一ヶ月前に怪我を負いながら、この粘りはすさまじい。

 そして男子4×100mリレー。昨日の夜の分を録画し、今朝再生して見た。メダルこそ逃したものの日本記録、アジア記録を更新した。彼らの走りを見、走り終えた表情を見、インタビューを聞き、とても清々しい思いで涙があふれた。
 朝原選手にメダルを獲ってほしかった。誰もがそう思っていた。ただ、これでメダルが獲れてしまわないことにこそ、安っぽいドラマではない、真実の重みがある。メダルは逃したが、朝原選手の足跡はたしかに刻まれた。自分自身でも納得のいく走りだった。彼の表情がそれを伝えていた。


 
2007. 9/3(月) 閉幕
世界陸上、閉幕。毎日、食事のたびに、録画した映像で観戦をした。基本的に食事中はテレビを観ないほうが好きなのだが、今日久しぶりに世界陸上のない食事をとったら、少しだけ寂しい思いがした。

 メディアでは、けっこう叩かれている。日本選手の不振、チケット販売の不振、それにともなう盛り上がりの低迷。個人的にはたいそう盛り上がっていたのだが、世間的にどうかと言われるとわからない。テレビ局では一局独占放送なので、他局での報道は自然、すくなくなってしまう。

 日本選手の不振については、たしかに痙攣や熱中症が多かったのは気になった。他の国の選手とくらべ、開催国である日本人選手に多かったのはなぜだろう。他の国の選手がやっていて、日本人選手がやってない対策があるのだろうか。このあたりはなんともいえない。
 チケット販売の不振、これは値段の高さが大きな要因であるのは確かだろう。僕もちょっと見に行こうかなと思って調べてみたら、意気をくじくような値段であきらめた。事前に日本での陸上競技の人気を考え、チケットの値段設定をもう少し検討する必要はあったと思う。高い料金にして売れないより、安く設定してたくさん売れたほうがいいに決まっている。

 これまで書いてなかったうちで心に残った競技は、男子走り幅跳びだ。おそらく、劇的な結末という点では、今大会屈指の競技だったと思う。
 パナマのサラディノ選手が3回目の試技で8m46を跳び、トップに立つ。このまま逃げ切るかと思いきや、最終6回目の試技で、イタリアのハウ選手が8m47で逆転した。ハウ選手はリアクションが豪快で、スタンドで観戦する母親と共に、派手なパフォーマンスで喜びをアピールした。最終試技はサラディノである。ここで彼は、自己ベストとなる8m57を跳び、最後の最後で再逆転をしたのだった。


 
2007. 9/4(火) 何が一番
“盛り上がりに欠けた”と言われる世界陸上。同期間中、もっとも世間を賑わせたのが朝青龍のニュースだったとすると、なんとも物悲しい気持ちになる。
 アメリカのメディアでも、これは話題となったようである。ただし、朝青龍の動向がではなく、朝青龍の動向がこれだけニュースになる、という点においてである。
 世の中では日々たくさんの人が死んでいる。大きな事故も起きている。なのに、このニュース(一連の朝青龍の件)が、本当にいま一番伝えるべきトピックスなのか、という指摘である。
 アメリカの批判はもっともだと思う。大相撲を愛し、朝青龍関の一挙一動が自分にとって大きな出来事になるような人にとっては、今回のことは大事件だろう。いっぽう、たとえば僕にとっては、朝青龍がどうしようがまったくどうでもいい話で、知ったことではない。そして、たぶん他の大多数の人にとっても同じことであり、単なるのぞき見根性しかそこにはない。マスコミがあおるからしぶしぶ関心を持たされているだけで、心から知りたいニュースでは決してないはずだ。

 上記のアメリカの批判は、とあるテレビ番組で観た。驚いたことに、その番組中では、アメリカも同様に朝青龍に興味を持っているというニュアンスで紹介されていた。自分たち(テレビを含むマスコミ)が批判されていることにさえ気づいていないように見え、愕然としたものだった。


 
2007. 9/5(水) ニュースの濃度
昨日の朝青龍関の話題に関連して、もうひとつ。
 大きな事件が多発する日もあれば、なにもない平和な一日もある。なのに新聞の紙面数は変わらないし、ニュース番組の放送時間も変わらない。マスコミにおいては、ニュース=「商売」だからだ。事件が毎日途切れることなく存在しなければならないからだ。だからニュースの持つ重要度はそのたびに薄まったり濃くなったりする。僕らは今流れているニュースが本当に重要なものなのか、よく考えてみる必要がある。


 
2007. 9/6(木) パレード
8/22の雑記に紹介した鈴木志保さんの新作、「ちむちむ☆パレード」を読んだ。前回書いたように、元はCD-ROMでの作品であったため、画面上のある部分をクリックすることで場面が展開したり、映像効果が得られたり、という電子媒体ならではの表現がとられていた。それが今回、紙媒体に置き換えられてどうなったか。

 結論、これはCD-ROM版とは別物だ。いやもちろん当然わかっていたことだけれど。
 CD-ROM版は、2003年9月に東京行われた、「ちびっこ店展」で見た。鈴木志保さんご本人にお会いし、サインを頂いたりお話をさせて頂いた、貴重な時間だった。
 それほど人が多くなかったせいもあって、パソコンの前に陣取り、しっかり時間をかけて見た。当時の記憶は薄れていてあまりよく思い出せない。ただ、テーマとしては今回の書籍版のほうが、より深くなったという気がする。

 CD-ROM版では、一人の少年の好きだったぬいぐるみ二体が、少年を追って高い山に登るということで終わっていたが、今回はさらにたくさんのキャラクターが加わり、タイトルの通り、「パレード」というテーマが加わっている。(このあたり、記憶違いがあるかもしれないが。)
 キャラクターの中には、「船を建てる」に出てきた煙草とコーヒーもいて、パレードは同作品における主要テーマでもあった。
 パレードとは何か。人の生き死に、輪廻、愛、さまざまな要素がそこには含まれていて、一言では言い尽くせない。言い尽くせないからこそ、時間をかけて作品を読み、味わうのである。そう、漫画にしても小説にしても、その内容を短い文章でまとめられるのならば、その短い文章を作品にすればよい。作品は、作品まるごと全部で一つなのだ。そのことを強く感じさせてくれた。
 複雑なコマの構成や奇抜なアングルなど、表現技法の冴えは相変わらずだ。僕の中では、他の漫画家とは一線を画す存在であることを再認識した。


 
2007. 9/12(水) 目指せ100本
映画というものにはさほど興味はなかったのだけれど、とある理由からこれじゃいかん、と思い立ち、以降努めて観るようになった。
 基本的には、自宅のテレビで過去の名作や気になる作品を鑑賞している。さいわいWOWOWに加入していたので最初はそこでまとめて観ていたのだが、ずっと見続けてみると、ここ20年ぐらいの新しい映画より、もっとずっと昔の映画のほうに遙かに面白い作品が多いことに気づき、以後はBSのクラシック映画を観る機会が多くなった。

 なにせ、これまでに観た作品の数がすくないもんだから、観るべき作品は山のようにある。ちなみに、これをはじめたのは2004年の6月からで、それから年末までに、97本の作品を観た。2005年は67本、2006年は忙しい時期が続いたため、わずか22本にとどまった。
 今年は、頑張っている。現時点で81本を観ているから、今年こそは年間100本を達成できそうだ。参考までに、今年観た作品名と、鑑賞日、5段階評価での点数を紹介しておこう。この中から、とくに気に入った作品の話題などもいずれ紹介したいと思う。

日付作品名評価
2/14コープス・ブライド2.0
2/17ライムライト4.5
2/20イヴの総て3.5
2/21妻よ薔薇のやうに3.0
2/24望郷3.0
2/26WATARIDORI4.5
2/28エド・ウッド3.0
3/1オズの魔法使い3.5
3/5危険な年2.0
3/7アフリカの女王3.0
3/8ゴッドファーザー4.5
3/12レアル・ザ・ムービー1.0
3/13オール・アバウト・マイ・マザー2.0
3/15ゴッドファーザーPartU4.0
3/16アメリカン・ビューティー3.0
4/10ウエストサイド物語4.0
4/23ロバと王女2.0
4/27冬の猿3.0
5/1勝手にしやがれ4.0
5/3現金に体を張れ3.5
5/4かもめ食堂3.5
5/6チャーリーとチョコレート工場1.0
5/8歴史は夜作られる2.0
5/10恋人たちのメロディー3.0
5/14男と女の詩3.0
5/16夢追い3.5
5/18遠い日の家族3.5
5/23俺たちの血が許さない3.0
5/25ベルリン天使の詩2.0
5/28恐怖の報酬3.5
5/29バーディ3.0
5/30ラルジャン3.5
5/30あこがれ3.0
5/31私のように美しい娘4.0
6/4シェルブールの雨傘2.5
6/4黒衣の花嫁3.0
6/6恋のエチュード2.5
6/7二十歳の恋2.5
6/9オペラ座の怪人3.5
6/11逃げ去る恋2.5
6/13太陽はひとりぼっち2.0
6/14二十四時間の情事2.5
6/15突撃!4.0
6/18探偵物語(1954年版.W・ワイラー監督)4.0
6/20駅馬車3.5
6/22野生のエルザ1.5
6/23ダウン・バイ・ロー4.0
6/25すべてが狂ってる3.5
6/27帰らざる河4.0
6/27ティファニーで朝食を2.0
6/28大殺陣 雄呂血3.5
6/29踊る結婚式3.5
6/30陽のあたる場所2.0
7/3エミリー・ローズ3.0
7/4トラック野郎爆走一番星3.0
7/5力と栄光3.0
7/8終身犯4.0
7/9夜の豹2.0
7/11鬼軍曹ザック3.0
7/13赤い風車3.0
7/17眠狂四郎殺法帖1.5
7/18天使にラブ・ソングを…3.0
7/20ロッキー・ホラー・ショー3.0
7/21ホワイト・プラネット3.5
7/24スターウォーズ エピソード33.5
7/26プロデューサーズ(1968年版)2.5
8/1危険がいっぱい3.0
8/3ぼくの伯父さんの休暇3.0
8/7大脱走4.0
8/9冒険者たち3.5
8/11太陽の季節1.0
8/21ハリーポッターと炎のゴブレット2.5
8/23狂った果実(石原裕次郎版)1.5
8/24うる星やつら オンリー・ユー2.0
9/2あらしのよるに3.0
9/4未知への飛行4.0
9/6麻雀放浪記4.5
9/8うる星やつら ビューティフル・ドリーマー3.5
9/8マダガスカル4.0
9/12ミザリー2.5


 
2007. 9/14(金) 映画:「ミザリー」
掲示板で話題が出たついでに、いちばん最近観た「ミザリー」について語ろう。(実際は、本日観た「愛しのロクサーヌ」が最新なのだけれど。ちなみにこちらは評価1点)

 たしかに怖いとは思った。主役二人の演技はみごたえがあった。それでも、恐怖だけでは映画は成り立たない。
 単純に恐怖をあおり、思惑どおり観る者を怖がらせることは、映画ではさほど難しいことではない。映像と音という、人の感覚器官に直接訴える手段を映画は有しているからだ。おどろおどろしくそれなりの音楽を流し、役者がそれなりの表情を作ってそれなりの行動をおこせば、恐怖は作れる。同様に、悲しい“だけの”映画を作ることも簡単だ。難病などの不幸な状況を設定し、ヒロインが死ぬなど悲しい状況をつくり、悲しい音楽に乗せて悲しい台詞を役者にしゃべらせればよい。
 問題は、恐怖や悲劇を題材に、いかに“いい映画”に仕上げるかである。一本見終わって、自分がそれまでの自分とどこか違っている、そんな映画を、僕は観たいと思う。

 「ミザリー」に話を戻す。物語中、重要な転換点である場面の表現が、ことごとくよくない。
 アニーが最初に豹変する場面。優しい女性だと思っていたアニーだが、どことなくおかしい、この女性には何かがあるのではないか、という具合に、徐々に観る者に違和感を感じさせれば、同時にじわじわとした恐怖が生まれる。「ローズマリーの赤ちゃん」が好例だ。なのにこの映画では、いきなりアニーの特異な性格をさらけ出してしまう。突発的に理不尽な言動をとる、つまりはこれで全部だ。深みも何もない。あげく、取り乱した自分にはっと気がつき、「あらいやだ、わたしったら」なんて、いまだに通用するのかこの手は、としらけてしまう。

 次には、小説内でミザリーが死んだことをアニーが知る場面。実際には、知る場面そのものはなく、知ったことを作家に告げ、怒り狂うシーンだ。ここが映画のターニングポイントである。なのに、「よくも殺したわね」と怒りの形相で迫るというのも、芸がない。観る側が描いていた空想の域を一歩も出ていないのだ。
 捕らわれた作家が、精力的に小説を書き進めるシーン。短い時間で数日間の経過を表しているのだが、ぜんぶが小説を書いているシーンだ。ここは、ときおり筆が進まず別のことに逃げている風景も入れるほうが効果的だし、リアルだ。
 作家が部屋を出たことをアニーが知る場面。僕は、落ちたペンギンを作家が拾って元に戻すところで、ああ、あとでこれをアニーが見てばれるんだな、と簡単にわかってしまった。あまりにあからさまなのだ。
 最後の格闘シーン。一度やっつけたと思ったらまだ生きていて、もう一度とどめを刺すのだが、どちらも頭を強打する、というワンパターン。

 以上、いくつか挙げてみた。さらには、老シェリフのキャラクターも不徹底だし、アニーの本性を知って以後の場面に、だれた雰囲気が漂ってしまっている。これは音楽にも原因がありそうだ。
 でも、そんなことよりなにより、オープニングで作家がタイプを打っているという場面を見て、なんだかこの映画の出来が見えてしまった気がする。ベストセラー作家が災難に遭う物語において、小説を書いている場面から始めるなど、あまりにもアイデアがなさ過ぎる。

 まあそれでも、見どころはいくつか、あった。アニーの挙動に本気でいらだちを感じてしまったのは、役者の演技力によるところが大きいだろう。作家が薬入りのワインを彼女に飲ませようとして失敗するところなどは、声をあげてしまうほどだ。
 結果、駄作というほどではないにせよ、僕の評価は低い。同じキング作品なら、「シャイニング」のほうが圧倒的に素晴らしい出来である。


 
2007. 9/19(水) 映画:「麻雀放浪記」
賭け事はやらない。麻雀は中学生くらいまでは好きだったが、今では興味がない。なのになぜこの映画にそれほど惹かれたのか。
 本作は、なにより先に、役者ありき、だ。さらに言うと、鹿賀丈史だ。劇上の人物とそれを演じる役者、この二者の差が、“演技をしている”感となって現れるとすれば、本作での鹿賀丈史には、“演技をしている”という印象はまったくない。つまり、ドサ健という役と鹿賀丈史という役者が、画面の中で一致しているのである。これにまず驚いた。
 主役の真田広之は完全に食われてしまい、彼の成長ぶりは物語の核であったはずなのに、けっきょくただの狂言回し役で終わっている。
 鹿賀丈史と張り合って立つもう一人は、高品格(たかしな・かく)だ。物語上でもドサ健と張り合う出目徳として、こちらも役になりきっている。ただ、鹿賀丈史のちゃんとした出演作を見るのはこれが初めてだったのに対し、高品格は他でもいくつか見たことがあったため、インパクトではどうしても劣る。
 他にも、女衒のタツ役の加藤健一も、きりっとして素晴らしい。まゆみ役の大竹しのぶも、ワンパターンの演技ではあるが悪くない。上州虎役の名古屋章もかなりいい。加賀まりこだけが場にそぐわない大根ぶりである。
 こうした出来のいい役者陣がそろい、昭和初期の雰囲気を醸し出すモノクロ映像の中で、丁々発止の麻雀勝負が繰り広げられる。彼らはみな、貧しい。日々の生活さえ満足にたちゆかない。それでも賭ける。賭ける金がなくなったら、家屋の権利証や自分の女さえも賭ける。とんでもないろくでなし連中だ。なのに、彼らはいたって魅力的だ。どこにそれほど魅力があるのだろう。

 ひとつ思ったことがある。ドサ健が、居酒屋のおやじに向かって啖呵を切る場面。「自分の女と母親には迷惑かけたって構わない、彼女らは俺のために生きなきゃならない」と無茶な理屈を並べながら、「手前らはどうせ長生きするしか能がないんだろう」と、平凡な生き方しかできない者たちをののしる。つまり彼は、自分の人生をドラマチックにするため、言い換えれば生きがいのある人生を送るため、日々を送っている。その具体的な方法が彼の場合は博打なのだ。金を儲けるためでも、いたずらに自暴自棄になるためでもない。つまらない人生に彩りをつけるため、端から見れば無謀だと思われる限界まで彼らは賭ける。賭け事にほとんど意味を見出せない僕だったが、ようやくここにきて共感できそうなポイントが見つかった。
 生きることは、死なずに長生きすること、では決してない。そうしたくはない。生きている間に、なにかをこの手でつかみたい。確かに自分は生きたのだという実感を得たい。そうしたエネルギーがこの映画からは伝わってくるのだ。

 ろくでなしの主人公を描いたもう一本の秀作として、「レイジング・ブル」を挙げておきたい。

 

雑記帳TOPへ ホームへ