2007年 8月の雑記
 
 
2007. 8/22(水) 鈴木志保さん新作出る
鈴木志保さんの新作が、二作同時に発売された。一冊目は、漫画で好きな作品はと聞かれたら生涯これだと言い続けるであろう、「船を建てる」の復刻版だ。元は全6巻だったものが、上下二巻構成となり、今回発売されたのは上巻のほうである。この作品に出会った時の衝撃はすごかった。新しい世界と出会い、読む前と後とで、自分が確実に変わった。
 もう一冊は、「ちむちむ☆パレード」というタイトルで、以前はCD-ROMという電子媒体でのみ存在していた作品だ。今はもう終わってしまったが、パルコ主催のアーバナート展という催しで大賞を獲った作品である。今回、全面書き下ろしで書籍化された。CD-ROM版のほうは見たことはあるが、また別物だと思っている。これからじっくりゆっくり読むつもり。

 寡作の鈴木志保さんだが、それでも近年になって単行本がいくつか出版されている。月刊プリンセスに連載されていたものをまとめた「ヘブン…」と、過去の未単行本化作品を集めた「エンドアンド」。どちらも鈴木志保節健在で、読み終えた後に、自分の中のやさしい感情があやういまでに増幅されていることに気づく。「エンドアンド」には、大傑作「ロータス1−2−3」「たんぽぽ1−2−3」が掲載されており、これだけでも買う価値はある。

 参考までに、amazonへのリンクを掲載しておくので、興味のある方は、この機会に是非。

「船を建てる(上巻)」
「ちむちむ☆パレード」
「ヘブン…」
「エンド アンド」


 
2007. 8/23(木) 幸せな野菜
毎日のように珍しい野菜を食べている。たとえば今日なら、「刀豆(ナタマメ)」と「白爵」だ。
 刀豆は、さやえんどうを大きくして先端を尖らせた感じの豆である。長さが30cmほどもあり、手に持つとまさしく武器のように見える。この時期は若サヤなので中の実はなく、外側のサヤの部分だけを食べる。サヤといっても厚さが3cmほどもあり、茹でて食べると芋のようにホクホクとしてうまみが強く、何もつけなくてもおいしく食べられる。
 先日は天ぷらにもしたが、いちばん有名なのは福神漬けだ。普通の福神漬けの中に入っている菱形のような形状をしたものがそれで、食べたことは何度もあるはずなのに、これまでまったく知らなかった。

 「白爵」はカボチャの一種で、外皮が白いためにこの名がついている。栗のようなさっぱり目の甘みが特徴で、こちらもほとんど味付けなしで美味しくいただける。今日は蒸してつぶしてサラダにした。塩と酢をほんの少々加えただけで、もちろん砂糖は入れないし、マヨネーズなんかも入れない。なのに幸せな味になる。

 今年の春から、近くにあるオーガニックレストランで月一回、有機野菜の直売がおこなわれるようになった。上記の野菜はそこで仕入れたものである。野菜に対する強いこだわりと、新しい野菜に対する飽くなき好奇心とから、店頭にならぶ野菜は他では目にしないものが多く、決まってどれも美味しい。一度購入してからやみつきになり、毎月一度の直売日には開店前に訪問し、クーラーボックス一杯買って帰るのが恒例となっている。

■参考URL
・オーガニックレストラン「まぁるごと」さん
・野菜直売の「土磨(DOMA)」さん


 
2007. 8/24(金) 幸せな野菜のごった煮
珍しい野菜シリーズ、今日ご紹介するのは「黄爵(おうしゃく)」と「コリンキ」だ。
 「白爵」がカボチャだったから「黄爵」も同じかというとそうではなく、こちらは芋である。名前のとおり、皮も中身も黄色い。先日やはり天ぷらにして食べたが、鼻に抜ける芋の旨みが濃厚で驚いた。栽培した「DOMA」さんのページによると、ベイクドポテトやリヨネーズポテトなどに向いているらしいので、今度じゃがバターにしようと計画している。
 「コリンキ」は、こちらこそカボチャなのであった。皮が黄色く、普通のカボチャよりも小ぶりである。なんと生で食べられるカボチャで、サラダにしてもよし、炒め物に使うのもよし。ただし煮物にはあまり向かないらしい。我が家で一番よく作るのは、味噌とみりんに一日ほど漬け込む即席漬け。これをぽりぽりやるのがたまらない。ほかにも、味噌炒めにしても美味しい。

 これらの野菜を買ったのは先週の日曜のことだが、同じ日にとある方からナスやらピーマンやらトマトやら、自家栽培の野菜をたくさんもらったので、ラタトゥイユを作ってみた。トマトとナスの煮物というイメージが強かったのだけれど、ネットでみつけた本格的なレシピには、カボチャもピーマンもネギも材料に含まれていて、つまりはフランス風野菜のごった煮というものが正体らしい。
 カボチャは普通のカボチャに「白爵」に「コリンキ」にと、三種類そろい踏みでたっぷり使う。ワインビネガーで煮込む、とあるのだがあいにく家にはない。かわりにりんご酢があったので、こちらと白ワインに置き換えて作ってみた。味付けは他に塩と各種スパイスのみのシンプルなものなのに、出来上がったものを食べてみて、その美味しさにびっくりした。
 ある程度料理に慣れてくると、この素材とこの味付けならこういう味になるだろう、というのがおおよそ予見できるものだが、今回はまったく想像がつかなかった。ほのかな甘みと酸味、あとはすべて素材の旨みである。最近はいろんな料理を作っているけれど、これはピカイチの出来映えだった。

■参考URL
ラタトゥイユのレシピ(味の素)


 
2007. 8/25(土) 開幕
二年に一度のお楽しみ、世界陸上が開幕した。しかも16年ぶりの日本開催である。前回の東京大会からもうそんなに時間が経ったのかと、思わず当時を振り返ってみる。
 1991年の東京大会。就職して3年目に入り、初めての職場異動を経験したのはその年の7月だった。8月に入り、当時親しかった先輩と初めての海外旅行にでかけた。場所はロンドン。それまでさほど海外旅行に興味はなかったのに、以来僕は毎年のようにどこかよその国へでかけるようになった。
 衝撃的で、魅惑と興奮に満ちた一週間を終えて帰ってくると、東京でカール・ルイスとマイク・パウエルが死闘を演じていた。走り幅跳びの当時の世界記録はたしか8m90cmだったと思うが、カール・ルイスがそれを超える8m91を跳び、さらにマイク・パウエルが8m95という驚異的な記録を出して優勝した。
 これを書きながら思い出したことだけれど、世界陸上を必ず見るようになったのは、この後の1993年シュツットガルト大会からだった。僕の人生にとっていろんな“初めてのこと”が、たくさん訪れた年だった。

 今日は朝から、男子100m予選で盛り上がった。35歳の大ベテランになった朝原選手が出場し、今大会優勝最右翼であるアメリカのタイソン・ゲイ選手をおさえ、堂々トップで予選通過を果たした。短距離というのは意外に選手生命が長いもので、30歳を超えてピークを迎える選手は多い。僕の大好きだったジャマイカのマリーン・オッティ選手が自己ベストを出したのは、なんと36歳のときだった。朝原選手もこのまま順当にいけば、メダルは難しいかもしれないが、初の決勝の舞台に立てるかもしれない。

 それにしても何度も書いているけれど、フライングのルールは、誰が見ても納得いかないものだと思う。一つのレースでフライングがあった場合、同レースで二回目以降は誰がフライングを犯してもその選手が失格となる。時間短縮のためだけに、近年になってこうしたルールに変更されたのだが、それなら一次予選、二次予選、準決勝、決勝と4回あるレースを一回削って元のルールに戻したらどうなのかと思う。今日も、ポルトガルのオビクウェルという有力選手がこのために競技場を去った。2年に一度のこの大会に照準を合わせ、この大会のために何ヶ月も練習し、この大会のためだけに遠い距離を移動してやってきた。そして、この愚劣なルールのために、ただの一度も走ることなく去っていく。それを思うと、単なる部外者の僕でさえたまらない思いに駆られる。


 
2007. 8/26(日) 敗走
400mハードルの為末選手が、予選で敗れた。リーダーシップが強く、日本選手団の中心として選手たちを引っ張っていた。世界陸上で二度の銅メダル獲得という輝かしい戦績から、マスコミに取り上げられる機会も多く、今大会での活躍、つまりメダル獲得という周囲からの期待は相当なまでにふくらんでいた。

 ご本人の公式サイト(こちら)に、試合前日の心境が掲載されている。そこには、意外なまでにさらけ出された心の内が吐露されていた。
 彼はこれまでほとんどコーチングを受けず、一人で調整をおこなってきたという。そのためのしんどさはあったろうけれど、またそのために身につけた能力もあっただろう。為末選手はサイトにて、「先を読む能力などはかなり高まっ」たと書いている。
 「こういう成績が出た選手はだいたいこのぐらいまで、このタイムがここで出ればだいたいこのぐらいまで。そういう風に選手を分類し、また自分自身を見極めて」きたという。そうした能力が高まれば、自分自身の直近の結果から、レースにおけるだいたいの結果が予測できる。というか、できてしまう。良い結果ならいいが悪い結果のこともある。今回の大会では、後者のほうだった。今シーズンのここまでの成績は絶不調ともいえる出来で、そこから予測するなら、「メダルなどというのは到底不可能で、決勝進出を狙うのもおぼつかない」状態だったという。
 自分自身のこうした能力を高く信頼できるからこそ、ここまでやってこられた。しかしその能力のおかげで見えてしまう未来と、自分がいかに戦っていくのか。大会前は眠りの浅い日が続いたそうだ。それでも救いはあって、前回大会の時もそうして良くない予測を立てた中で、銅メダル獲得という、予測をくつがえす出来事が起きた。「思ったことも最後まで貫けば出来る事もあるというのを初めて体験し」たのだという。この点に賭けて、為末選手は試合に臨んだのだと思う。

 この為末選手のコメントを読んで、いろんな思いが頭を巡った。大きな大会に向けて体調や精神をコントロールすることの難しさ、コーチをつけずに一人ですべてをまかなうしんどさ、開催国ならではのプレッシャー、そしてなにより、自分自身で磨いたはずの能力とさえ戦わなければならないジレンマ。
 ただ僕が強く感じたのは、先を読む能力、というこだわりを無くしたほうがよいのではないかということだ。本来、人間に未来を完全に予測することなど不可能なのだ。
 この世のあらゆる事象には、それに関わる要素が無限ほどに多くあり、さらには一つ一つの要素の値がすこし違っただけで結果が大きく異なってくる。すなわち、「予測などできない」ということになる。カオス理論と呼ばれるものだ。どんな予測を立てようがそんなものはほんの少しの変動でひっくり返る。そんなことなら、自分が今できる最大限のことをやるしか方法はないのではないか。まあそう考えるのは今度は単純すぎるのかもしれないが。
 為末選手はここがまた分岐点になりそうな気がする。選手としてまだ一花咲かせるチャンスはあるはずだ。頑張ってほしい。

 100mの朝原選手も、準決勝で散った。何度も挑戦してはことごとく跳ね返されてきた「決勝進出」という夢に、今回がいちばん近いと思われていたが、やはり現実は甘くはなかった。
 レース後のインタビューで、珍しく涙を流し、言葉をつまらせた。夢を果たせなかった悔しさもあったろうが、これまでの長い陸上競技生活で経験した様々な出来事や思いが押し寄せてきて、様々な感情が一気にあふれ出し、胸を詰まらせたのだと思う。

 選手一人一人に、それぞれのドラマがある。
 勝っても負けても、ドラマは見ている者の心に残る。


 
2007. 8/27(月) 陸上余生
昨日の女子100m予選を見て驚いた。僕がずっと好きで応援していた、マリーン・オッティ選手がエントリーしていたのだ。
 2大会前の2003年、パリ大会。もうオッティは引退してしまったんだろうな、と僕は思っていた。なのに予選に姿を現した。既に年齢は43歳。この時でじゅうぶんにびっくりした。ピーク時の走りは見られず、準決勝で姿を消した。もうこれで現役のオッティを見るのは最後だろうなあと寂しくなった。
 ところがなんと彼女は、翌年のアテネオリンピックに出てきた。44歳である。準決勝まで進んだが、そこで足を痛め、棄権した。これがほんとにほんとの最後の舞台、そう思っていた。
 そしたらなんと今大会でもエントリーしていたのだ。47歳ですよ。信じられない。さすがに一次予選も通過できなかったが、おそらく練習量は前とくらべてさほど変わっていないだろう。47歳で、少なくとも世界選手権の舞台に立てるだけの実力は保っているのである。

 実力がありながら、出る試合でことごとく3位となり、ブロンズメダルコレクターと言われた時代があった。それでもめげず、ようやく金メダルを手にした瞬間もあった。彼女の出るレースには常に波乱の匂いがした。そうした時期を経て、今はとても楽しく走っている、と彼女は言った。そして来年のオリンピックも、世界で戦える力が残っていれば必ず挑戦するという。辛く厳しい現実をひとつひとつ乗り越え、みずから作り上げた素晴らしき“陸上余生”だと、あえて言いたい。


 
2007. 8/28(火) 珍し系野菜 まとめ
先日書いたじゃがいもの「黄爵」で、今日はホクホクじゃがバターを作った。思ったとおり旨みが濃厚で、バターをつけても塩をつけてもとてもおいしい。
 購入した「土磨(DOMA)」さんのところは特にじゃがいもの種類が豊富で、これまでにも他に、「アンデスレッド」と「デストロイヤー」という種類を買った。アンデスレッドは皮が赤く、中は黄色い。万能型で、煮物でも炒め物でも美味しく食べられる。いっぽうデストロイヤーは、肉じゃがにするならこれが最適、という種類である。ちょうど新しく買ったステンレス鍋で肉じゃががとてもおいしくできることがわかった頃で、お店で上記の説明を聞き、即座に購入を決めたものだった。

 ついでに、これまでに買った主な珍し系野菜を紹介しておこう。

四葉(すうよう)
きゅうりの一種で、30cmほどもあるとても大きい種類。味はほぼ普通のきゅうりと同じ。

油麦菜(ゆうまいさい)
レタスの原種。サラダでも食べられるし、ニンニク炒めにしてもおいしい。

リスターダ・デ・ガンディア
ナスの一種。紫と白のきれいな模様をしている。なんとサラダにできるナス。あくがほとんどない、との話だったが、食べてみるとちょっと気になったかな。

アカモーウイ
ウリの一種で、外皮が赤茶色をしている。沖縄原産で、ゴーヤの次に有名な野菜らしい。これまた万能選手で、生でサラダやお浸し、漬物にしてもよし、煮物に入れてもよし、炒めてもよし。けっこう大きな実なので、たっぷり楽しめた。


 
2007. 8/29(水) 不調
やはりこの時期の大阪は、陸上競技をおこなうには暑すぎるのではないだろうか。それぐらいに怪我人続出の世界陸上である。
 日本人選手の成績も良くない。為末選手、室伏選手、末續選手など、メダル有力とされる上位選手でさえ、あっけなく敗れ去っていく。地元の利という加勢は、今回は効かないようだ。
 ひとつ気になるのは、なぜか多くの日本人選手が、今期あまり世界レースに参加していないことだ。基礎的な体力をつけたり、研究をしたりすることは大事だろうけれど、やはり実戦に出てこそ能力はつちかわれる。実際、世界陸上やオリンピックなど大きな試合では、そのシーズンにいい成績を残した選手が活躍するケースが多いように思う。試合に出て、いい結果が出なかった場合の精神的ダメージを考慮しての作戦だったのか、などと勘ぐってみたりする。

 それでも熱戦は続いている。男子1万m、三連覇を飾ったベケレ選手のラストスパートはとんでもなかった。終盤、表情からはもう余力は残っていないかに見えたのに、最後の200mあたりで一気に加速し、2位の同僚シヒネ選手を置いてけぼりにした。あんなすごいスパートは見たことがない。しかも、10kmを走った最後に、である。
 女子800mも劇的だった。先に書いておけばよかったが、僕はケニアのジェプコスゲイ選手か、モロッコのベンハシ選手が勝つのではないかと予想していた。
 ベンハシ選手は最初の一周で大きく遅れた。それでも彼女は最後にじわじわと上がってくるのがいつもの戦法だ。はたして残り一周を切ったあたりで、外側から上がってきた。モザンビークのムトラ選手もスピードを増す。この時点で僕はムトラ選手の勝ちはないと見た。全盛期の彼女なら、ゴール直前まで3位ぐらいにつけ、ラストスパートで抜き去るというのが常套手段だったからだ。たぶんもうそうする体力はないのだろう、なるべく早めにスパートをかけておこうという姿勢が見られた。それでも追いつけない焦りから無理をしたのか、残りわずかのところで足に異常を来たし、レーンの外に崩れ落ちた。

 男子400m障害では、アメリカの大器クレメント選手が、大舞台でようやく結果を出した。はっきり言ってハードリングは下手くそだ。なのに圧倒的な体力にまかせ、ゴリ押しともいうべき方法で金メダルをもぎ取った。技術面では彼を大きく上回る為末選手は、彼の優勝をどう受け止めたのだろう。


 
2007. 8/30(木) 日本人は思う
男子400m障害に続き、走り高跳びでも“ゴリ押し勝利”が見られた。競技を始めて2年足らずの選手が、世界の舞台で優勝してしまったのである。技術は目に見えて未熟なのにもかかわらず、身体能力で勝ってしまった。跳ぶ際に足をばたばたさせる不格好なフォームが、まさに勝利をもぎ取ったというイメージを喚起させる。こういう選手を見ると、日本人はたまらなくなるだろう。バハマのドナルド・トーマス選手である。

 日本人は従来、身体能力のなさを技術で補ってきた。柔よく剛を制す、の精神である。人は鍛えればここまで到達できるのだという感動を、見る者に与える。
 走り高跳びでは、スウェーデンのホルム選手もそれに該当するだろう。身長2m近い他の選手に比べ、181cmと格段に小さい。なのに、自分の身長を遙かに超える高さを楽々クリアしていく。そのホルム選手が、トーマス選手の跳びを目の当たりにして何度も首を横に振っていた。なんだあいつは。あれで跳ばれたらたまらんな……。そんな表情だった。

 ただ、下手くそなように見えて、じつは理にかなった跳び方なのかもしれない。かつてマイケル・ジョンソン選手が登場したとき、その特異なフォームに誰もが驚いた。走るということは重心の移動であり、速く前へ進むには前傾姿勢になるのが当たり前だ。しかしジョンソン選手は直立かやや後傾ぐらいで走る。不格好で、陸上の基本にまったく背いている。なのに誰よりも速く走り、世界記録を打ち立てた。
 トーマス選手の足をばたばたさせる跳び方は、なんとなく走り幅跳びのはさみ跳びを思わせる。空中で三歩ほど足を前後させるやり方だ。無駄な動きのようにも見えるが、今や普通のそり跳びよりも主流の跳び方だ。
 彼の跳躍をスローで見ると、足を動かすことでうまく体を持ち上げているような気が、すこしだけする。技術というのは変化するものであり、いつか彼の跳び方がメジャーになる日が来るのかも知れない。ともかく、これから先が楽しみな選手ではある。

 ところで先ほど予選を終えた、棒高跳びの澤野大地選手。いったい何があったのだろうか。一回目の跳躍の助走から、なんとなく動きがぎこちない気がした。そして、ポールを手で滑らせるという、目を疑うような展開。二回目の試技も、満足に跳ぶことはできなかった。画面からは、どこが悪いのかよくわからない。傷めたのはおそらく足なんだろうが、それにしては引きずったりするような感じもない。
 なんだか、緊張でちょっとパニックになっていたような気もする。地元開催のプレッシャーが、自分でも思いがけないほど急激に襲ってきたのだろうか。三回目の試技を終えたあとは、全身がけいれんしていたようだった。
 残った競技のうち一番メダルが近いと思っていた。澤野、お前もか、という心境である。


 
2007. 8/31(金) 世界新
連日世界陸上の話を書いているくせに、昔見ていた頃に比べて自分の中の熱狂度は低い。回を重ねるごとに新鮮みが薄れていく、というのがひとつの要因だが、もう一つ大きな要素がある。世界新記録だ。
 世界新。なんと魅力的な響きであることか。テレビを通してではあるものの、自分の目の前で、世界新記録が生まれる。過去に何度も経験したことがあるが、やはり興奮するものだ。いま走った選手の、あるいはいま跳んだ、いま投げた選手の記録が、人類史上で最高の記録なのだ。歴史が変わる、まさにその現場に立ち会えたことが心から幸せに思える瞬間だ。

 最近の世界陸上では、前回こそ3つの世界新が生まれたものの、2003年、2001年の大会ではともにゼロだった。そして今回、世界新が期待できるような種目はそれほどない。もっとも可能性のあった女子棒高跳びでさえ、あえなく失敗に終わった。
 もう、人類の限界にかなりのところまで肉薄しているのだと思う。競技が発展途上の段階であれば毎年のように記録は生まれるだろうが、こうも技術が進化し、極限までの記録が作られてしまっては、そうそう更新できるものではない。

 つまりは世界新の予感が感じられない、そのことが見る興味を削がれる大きな要因になっている。もしかしたら出るかも、とみじんも感じさせないレースは、可能性のあるレースよりも見る側の身の入れ方におのずから差が出てくる。どうもこの点で、昔ほど見ていて興奮しなくなった。
 女子棒高跳びに関してはまだ競技の歴史が浅く、男子にくらべて記録の比率も低いので、まだまだ世界記録は出続けることだろう。ただ、それが世界陸上やオリンピックの舞台であるとは限らない。

 今回、残る競技でわずかに期待できるとすれば、男子400mぐらいだろう。
 世界新が見たい。切実に思う。

 

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