Sea Lion Island 読書感想
◆2024年12月
韓国文学といえば、過去の辛い歴史を背負った人物が登場する、どちらかというと重たい物語を多く読んできたが、本作は明るい青春もの、そして保健室の先生が妖魔をやっつける痛快アクションものと思って読み始めた。最初は予想どおり、ヤングアダルト小説とも思える軽いタッチで、読みやすいけれど読みごたえに欠けるかなあと感じたが、徐々にそればかりではないことに気づく。主人公の勤める学校には厳しい受験戦争という現実があり、内申書のため課外活動に励む生徒もいたりして、どうしても韓国の社会的状況に影響されないわけにはいかない。登場する悪霊まがいの存在も、なぜそこに取り憑いているかの理由が示され、それもまた社会の影響から逃れられない。明るい話もあれば陰鬱な話もあり、起伏のある連作短編集となっている。
2019年7月に発売された文芸誌『文藝』に掲載された「韓国・フェミニズム・日本」特集が話題となり、同誌は創刊以来86年ぶりの三刷となった。この特集を増補する形で出版されたのが本書だ。韓国語翻訳の第一人者・斎藤真理子氏が責任編集を務めている。
四つの短編小説が掲載されているほか、翻訳家や書評家による寄稿エッセイ、近年のお勧め韓国文学などが紹介されており、この一冊の意義は大きい。「現代K文学マップ」と称して、韓国文学を愛と恨み、POPとHEAVYという2つの軸の元に並べた図もわかりやすくて有用だ。小説も硬軟交えてバラエティに富んでいるが、中でも僕は「クンの旅」が印象に残った。主人公の体についた「クン」というよくわからないものがいろんな例えになっており、よくわからないながら面白い。本作を書いたユン・イヒョンは日本ではほとんど知られておらず、これからの翻訳が待たれる。
◆2024年11月
3年以上に渡り世界中を混乱に陥れたコロナ禍において、日本でも多くの感染対策がなされた。本書では人類学者の観点から、県をまたいでの移動禁止、愛する家族の最期に立ち会うことも許されない病院の対応、感染者が増えるたびに叫ばれる「気の緩み」という表現など、あらためて当時の社会認識や感染対策を振り返り、“和をもって極端となす”風潮が問い直されている。
コロナ禍において、僕が強く疑念を感じていたのは、「基礎疾患がある人や体力が落ちている人は、感染すれば命取りだ」→「ほんの少しの感染の可能性も取り除かなければならない」→「あらゆる行動が禁止されていく」という連鎖だった。やはり、やり過ぎと思う場面が多かったものの、「自分が感染し、それが別の人にうつるかもしれない、それで命を落とす人がいるかもしれない」と言われると、どうしても返す言葉が見つからない。そこに大きなストレスを感じていた。
生活の喜びや利便性との兼ね合いのため、どこかで危険性とのバランスを取る必要がある。それは、「感染リスクは完全にはゼロにならない」ということであり、言い換えれば、「多少、人が死んでも構わない」という覚悟を伴うものだ。そのあたりを本書でもう少し言及してほしかった気がするものの、そうしたことを個々人が考えるきっかけとなる好著だと思う。
サブタイトルにあるアディクションという用語は、著者いわく、「それを失えば自分が駄目になってしまうという強迫観念に似たもの」「生活に支障をきたしてもなお、あるものから離れられないこと」らしい。「執着」とか「依存症」とも訳されるが、著者は「固着」という言葉で表現している。たとえば摂食障害は、自分の痩せている姿に固着するあまりに食事をとれなくなって引き起こされる。恋愛による痴情事件も、この人との関係を失えば自分はもう終わりだ、という観念が引き金となる。著者は、そもそも「思考」そのものがアディクションであるという。
僕自身で考えると、これがうまくいかなければ駄目になる、という思いからやはり摂食障害、睡眠障害を患った経験があり、本書で提起された問題に強い共感を覚えた。著者は、問題の本質は自分への無価値感であり、「愛されたい」という思いであると説く。「安全に狂う」とは、著者自身がセラピストから受けた言葉だ。アディクションを完全になくすというより、安全な方法でそれを昇華すればよい、ということなのだろう。
◆2024年10月
ノーベル文学賞を受賞したハン・ガンさんの最新作。僕は邦訳第一作となる『
菜食主義者』において、作り物めいたところが今ひとつ受け入れがたく、評価は低めだった。ところが本作は、序盤から一気に引き込まれてしまった。一つ一つの文章の繊細さ、そこに隠された思いの深さのため簡単に読み飛ばすことができず、時間をかけてゆっくりと読んだ。
恥ずかしながら、済州島四・三事件についてはほとんど何も知らず、本書の解説やネット記事などの手助けを借りた。インソンと彼女の母親にまつわる事実が少しずつ解き明かされると共に、事件で何が引き起こされたのか、当時の人々の心情がどうだったかが明かされていく。
本作で強く感じたのは、フィクションの持つ力と存在意義だ。物語で読者の心を引き寄せ、登場人物に共感させることで、疑似体験として実感的に伝えることが可能となる。詩人でもある著者の言葉はときにリアルに、ときに詩情豊かに胸に迫ってくる。そして個人の小さな物語が韓国という国の歴史や状況の投影になっているところは、韓国文学の大きな特徴だろう。
『別れを告げない』というタイトルは、痛ましい事件に別れを告げず、過去のものとせず、哀悼の意を捧げ続けるということ。それは、インソンが指の傷口に針を刺すことで神経を生かし続けることと呼応しており、その激烈さが、体感として強い印象を読者に残す。
読むのは3回目くらいだが、本当によくできた、いい小説だと思う。脱獄した横領犯が逃げてくるというサスペンスを軸に、住宅地に並ぶ10軒それぞれの家庭の物語が同時に進行し絡み合っていく様は、精緻に編み込まれたタペストリーのよう。実に美しく、実に優しい物語。甘すぎるとの批判もあるかもしれないが、これくらいの人間賛歌があってもいいと思うし、これが人間本来の姿だとも思う。
◆初回の感想はこちら★読書の手助けになるよう、作品に登場する住宅地の地図を作りました! 本書の冒頭にも地図はあるのですが、北が上ではなく右になっていたり、人物表と地図が別になっていたりしていて、やや使いづらい。そこで、北を上にして登場人物も入れた地図を自作しました! これを印刷して見ながら本書を読むと、さらに理解しやすくなると思います。下記よりPDF版がダウンロードできますので、ご自由にお使い下さい。
・つまらない住宅地の住宅地図※上記リンクを右クリックまたは長押し後、ダウンロードを選択
◆2024年 9月
東京で一人暮らしをする女子大学生・瀬戸杏奈。入学式前に広まったコロナ禍により不本意な学生生活を強いられ、生活資金はぎりぎりで、鬱屈した日々を送っている。そんな彼女のもとに、あのマリリン・モンローから電話がかかってくる――。
あらすじから想像されるようなファンタジーな話ではなく、大学生の抱える実情を丁寧に描くリアリズム小説として展開する。主人公の感じるマリリン・モンロー像は逆に美化しすぎだろう、と部外者で年長者の僕としては思ってしまうが、そこも含めてリアルに肉付けされた人物像として、興味深く読んだ。同じコロナ禍を生きた同世代の読者には、痛切に響く内容だろう。
副題の『東映京都撮影所血風録』のとおり、東映京都撮影所の設立から今日までの歴史をたどり、そこでどんな熱い思いがかわされ、どんな無茶苦茶なことが行われてきたかが紹介される。時代劇評論家の春日太一氏が長年のインタビューを経て書き上げた、渾身の一作だ。春日さんはラジオで話をされるのを何度か聞いたことがあるが、時代劇に対する愛情、時代劇ばかりではなく映画全体に関する博識ぶりに圧倒された。著書を読むのは初めてだが、喋りと同様、熱い思いがぱんぱんに詰まった文章が綴られており、非常に読み応えがあった。
東映の繁栄を支えた人物が何人か登場するが、まずはマキノ光雄。日本最初の映画監督・牧野省三の息子に生まれながら奔放な生活を送り親を困らせたが、やがて改心し映画のために一生を捧げることになる。彼の死後、その思いを引き継いだのが、インテリなのにヤクザも黙らせるほど肝の座った岡田茂。さらにはプロデューサーの俊藤浩滋、俳優の中村錦之助や大川橋蔵などなど、クセの強い彼らによる、時には犯罪まがいの行動によって東映の作品は作られ、栄枯盛衰の歴史を作ってきた。この時代の映画を少しでも見た人なら、本書を読んで興奮せずにはいられないだろう。僕は本書に出てくる作品のいくつかを、リアルタイムではなくすべて後追いでだが見ていたので、全編くまなく心躍らされつつ読み通した。
強烈なエピソードはいくつも出てくる。とにかく制作費がなかった東映は、大道具小道具の準備が行き渡らず、拳銃を使う時は警察から借りたという。(そんなことができたのか、と思うが。)だから東映の拳銃シーンは他社とは比較にならないほどリアルなものらしい。
若山富三郎と鶴田浩二のエピソードも最高だ。ある映画で二人はそれぞれのヤクザの組を率いており、若山の組の組員だった八名信夫が裏切って鶴田の組に寝返るというシーンがあった。若山は演技の途中で、裏切った組員のことを本気で憎らしくなってしまい、思わず殴ってしまう。これに怒った鶴田が山口組に応援を求め、本物のヤクザが撮影所に乗り込んできた。この騒ぎをいさめたのが前述の俊藤プロデューサーだが、もはや「アホか」と笑ってしまうような話だ。
淀川長治氏による独特の映画評が楽しめる一冊。僕は本書で紹介される映画の6割ほどを見ているが、納得できる評もあればそうでない評もある。評価のしかたは幾通りもあるので、納得できないからと言って自分の映画の見方に失望することはないが、別の見方をすれば面白く思えるかも、と見直すきっかけにもなる。文章の上手い下手とは別の次元で、淀川氏の映画を語る力には感服する。本書を読んで見たくなった映画、見返したくなった映画はたくさんあった。好著だと思う。
◆2024年 8月
話題の一作をようやく読了。次に読もうと思っているタイミングで、主宰している読書会で他の方が激推しされていたので、これは読まねばとすぐに買いに走った。世評ほどネタバレ厳禁ということもないとは思うが、核心には触れずさらっとした感想だけ書いておきます。それも気になる方は、以下は読まないでください。
**********
僕はずっと面白く読み進めることができ、途中では泣かされ、熱い思いにもなりました。ものすごく読みやすく書かれているので、上下巻という長さは気にならず、あっという間に読むことができます。本作が生涯ベストという方がいても納得の一作です。わからない用語がけっこう出てくるので、僕のようにSFを読み慣れない人は少しつまづくかもしれません。ただ、用語の意味が正確にわからなくても、およその理解だけで読み進めれば問題はないでしょう。
◆2024年 7月
話題になった映画の原作。アウシュビッツ収容所が舞台であることと、所長のドル(映画では本名のヘス)が重要人物として登場することは同じだが、中身はまったくの別物といってよい。本作ではドルの他、青年将校トムゼン、ゾンダーコマンド(ユダヤ人でありながら収容所内で虐殺の加担をさせられる)として働くシュムルという、3人の視点から描かれる。
翻訳がいいのだろうが、深刻な内容なのに非常に読みやすく、通俗的とさえ言える。ドルやトムゼン、およびその他の取り巻き連中の言動がとにかく軽薄で、そこに戦争やユダヤ人虐殺といった重大な悪徳が実行されていることがおぞましい。
映画ではナチス側の悪をシンプルに描いているが、小説ではより深く多層的に見せていく。ナチス上層部の誰もがユダヤ人絶滅を本気で目指していたわけではなく、トムゼンの語る「消極的な同調者」という表現に、そういうことかとうなずかされる。ゆえに収容所長のドルは当時のナチス思想の体現者ではなく、逆に時代遅れの狂信者として周囲から浮いた存在になっていく。
またひとつおぞましいのは、主に男性からなるナチス関係者が、この異常な状況をやり過ごし、目を背けるために女性を利用していることだ。ゾンダーコマンドであるシュムルが、ここでは〈気が触れるか感覚を麻痺させるか〉しかなかったのと同様、ナチス側も自らの異常な行為をごまかすための何かの手段が必要であり、それが女性の役割になったことは戦時における隠された不幸だったと思う。
物語は、3人の主要人物の行動、そして彼らの“役割”を克明につづっていく。その中でたとえば、ゾンダーコマンドのシュムルは作業の効率化のための存在であると同時に、ドルのような人間にとって「自分より下等な人間がいる」と安心させる存在でもあることがわかってくる。そうした流れの中で、彼らがいかに変わっていったか、そしていかに変わらなかったか。物語の鍵は、これまた映画とは全く別の描かれ方をされるドルの妻ハンナが握っている。
妻と一緒にウディ・アレン映画を何本か見るうち、彼に人生を踏みにじられたミア・ファローの生涯に興味を持ち、手に取った。父親が映画監督のジョン・ファロー、母親が女優のモーリン・オサリヴァン、自宅はビバリーヒルズの豪邸という、絵に描いたような芸能一家だ。母親がビビアン・リーと同級生だったり、撮影所に遊びに行くとジョン・ウェインが抱き上げてくれたり、父親の仕事のためスペインに滞在中、ベティ・デイビス親子が遊びに来たりなど、ため息の出るエピソードには事欠かない。やがて父親が亡くなって家計が苦しくなり、彼女自身も役者の道を志す。ブロードウェイの端役をこなすと、TVドラマ『ペイトンプレイス物語』で一躍有名になり、その頃に出会ったのがフランク・シナトラだった。彼から、パームスプリングスに遊びに行こうと誘われるくだりが凄くて、「じゃあ明日、迎えの飛行機をよこすから」という現実離れぶりに、読んでいると笑うしかなくなる。そんなシナトラとの結婚生活は2年ほどで終わり、その後、ピアニストのアンドレ・プレヴィンと再婚するもふたたび離婚、その後にウディ・アレンと付き合うことになる。ウディ・アレンはミア・ファローの養女と肉体関係を持つという鬼畜の行為に及ぶのだが、彼がそれ以外にもどれほど非人間的なおこないを繰り返してきたかが詳しく語られる。
いっぽう、ミア・ファロー自身においても、やはり生い立ちや生活環境において、どうしても一般人とは隔絶しており、真っ当に生きているのにどこか考えや行動が浮世離れしている。明らかに無理な養子縁組を繰り返したり、ウディ・アレンの行為を知った後でも彼を頼ってみたりなど、彼女の側にも少なからずの問題があったように感じてしまう。様々な意味で非常に読みごたえがあり、映画ファンならのめり込むように読める一冊。
◆2024年 6月
武蔵大学人文学部准教授で、専門はシェイクスピア、舞台芸術史、フェミニスト批評という北村紗衣氏。「saebou」の愛称でラジオに出演されているのをよく聞くが、著書を読むのは初めて。本書は広く一般向けに、〈誰もが楽しく批評ができ〉るように書かれた指南書だ。①精読する、②分析する、③書く、の3ステップに分け、実にわかりやすく批評のやり方が紹介されている。よく読み、よく考えて書く、という当たり前のことを心がければ、並外れたセンスや専門の知識がなくても批評はできるということ。本書では、我々になじみ深い実例をひもときつつ説明してくれるので、うまく興味を保ったまま読み進めることができる。文章や音声で書評や映画評をネット配信する人が本当に増えたが、そうした方々にはうってつけの一冊。
まだ十分に言語化できないが、これは格別の小説だ。バイオレンスな部分についてばかりではなく、小説で表現しようとしていることの硬度、濃密さにおける衝撃は相当のもので、読みづらさを厭わずに著者の体内からあふれる言葉、体を通して伝えられるべき言葉が書き連ねられている。だから読み始めには大きな躊躇を覚え、50ページほどを過ぎて登場人物達が頭に入った時点で頭からもう一度読み直した。
僕が本書で強く感じたのは、人間の行動の理不尽さと、それに伴う「赦し」だ。主要人物となる生崎陽(きざき・よう)と笹岡樹(ささおか・いつき)の二人は、ともに理不尽なおこないをした両親に強い憎しみを抱き、許すことができないでいる。彼らが最後に演じる太平洋戦争末期の米軍捕虜虐殺事件の理不尽さを見つめ、自分の親の行動を見つめ直し、そして彼ら自身が理不尽なおこないを実践した先に、初めて「赦し」が生まれる。今年読んだなかではダントツの一冊。
ふだんあまり読むことのないポルトガル文学。強烈な表紙の装丁に目を奪われ、手に取った。主人公の〈俺〉は祖国を追われ、言葉の通じない〈しま〉で暮らしている。ある日、妻のカルラ、息子の〈チビ〉の3人で出かけた帰り、地下鉄の故障で駅に取り残されてしまう。正確な状況も把握できないまま、やることなすこと全てが裏目に出るばかりで、事態はどんどん悪い方向へ向かっていく。
真面目とは言えない主人公と妻の言動が面白おかしく描かれ、ユーモア小説として読みごたえがあるけれど、本書は移民の置かれた辛い立場と深刻な状況を如実に写し取っており、彼らにはこれが現実なのだと思うとやるせなくなる。ここではユーモアは手段として使われているので、素直に楽しむことがエンタテインメントに担わされた役割なのだろう。彼らが幸せになることを祈らずにいられない。
◆2024年 4月
前に読んで気に入った『
ワニの町へ来たスパイ』の、シリーズ第2作。田舎町シンフルに戻ってきたいけ好かない元ミスコン女王・パンジーが殺される。疑いをかけられたのが、おなじみCIA工作員の女性主人公・フォーチュンだ。容疑を晴らすべく彼女は、アイダ・ベル&ガーティという元気もりもりおばあちゃんズと共に、ドタバタ捜索劇を繰り広げる。前作から1年を待たずに出版されるというスケジュールのためか、やや構築に粗さも感じられるものの、物語の疾走感、フォーチュン達の連携プレイの小気味よさなど、読む楽しさは存分に味わわせてくれる。まさしく町ぐるみの犯罪ともいえる顛末と共に、今回の読みどころの一つは、イケメン保安官カーターとフォーチュンの関係が微妙に変化していくところだろう。二人の関係がどうなっていくのか、次回作への期待を抱かせてくれる。
イギリス一国の歴史を記した本を読んでみたいと思い手に取った。内容をはしょり過ぎだとか大事な部分が抜けているという評価はあるようだが、あえてそうすることで、短い分量ながらイギリスの概略通史を紹介することができ、僕には有益な一冊となった。抜けているところやさらなる詳細は、この本を読み終えてまた他書をひもとけばよい。
とにかくイギリス史においては、ヘンリー7世と8世が飛びぬけて興味深いということがわかった。このあたりの経緯を誰かに話したくてうずうずしている。それだけでも大きな収穫だ。
作家の津村記久子さんが、純文学、エンタメの境なく近現代の文学作品を紹介する一冊。一作ごとに一般的な書評よりも長めの文量で(良い意味で)こってりと説明してくれるので、非常に読みごたえがある。あとがきで著者が〈文学の教養がまったくない人間が、数年にわたって月に一回、自分がどうも文学らしいと思っている本を読んだ感想の記録〉と述懐しているのはさすがに謙遜が過ぎるが、それでもイカニモブンガク的な紹介では全くなく、一般人の視点から難しい用語や概念を使わず、しかもその本を読んでみたいと思わせるように書かれているのはもはや名人芸と言っても差し支えない。面白い本がないかと探している人、あらためて世界文学に目を向けてみようと思っている人など、たくさんの人にまず本書をお勧めしたい。
◆2024年 3月
『
11文字の檻』につづき、青崎有吾作品を読むのはこれが2冊目。高校を舞台にした連作短編集だ。
毎回、一つのゲームや遊びが提示され、その競技の中に巧妙にドラマが埋め込まれている。たとえば誰もが子供時代に遊んだ「グリコ」。じゃんけんで勝ったほうがグーなら「グリコ」で3歩、チョキなら「チヨコレート」で6歩、という風に進んで勝ち負けを競う。これに「地雷」というルールを付加したのが「地雷グリコ」だ。勝負は階段で行われ、地雷が仕掛けられた段に止まったら10段戻る。先に最上段にたどり着いたほうが勝ちだ。学園祭での場所取りをめぐり、主人公の女子高生・真兎(まと)が先輩と競う姿を描くのが冒頭の表題作。
単純なルール付加だけでこれだけ緊迫した展開になることに驚き、それをどんでん返しの続く見事なストーリーに落とし込んだ作者の手腕にまた驚かされる。シンプルなルールゆえに「その手があったか」と唸らされる意味では、表題作のほか、「自由律ジャンケン」も素晴らしかった。同時に学園もの、青春ものとしての要素もたっぷりで、若い人も楽しめる一冊だろう。
連作の後半に進むにつれ仕掛けがどんどん複雑になっていき、ラストの「フォールーム・ポーカー」あたりはルールと状況が複雑すぎて、やや爽快さに欠けるきらいがある。ただ、主人公の真兎が次々と難敵を下していく過程で、彼女の中学時代のエピソードや友人との交流もサブ的に描かれ、それが最終作で結実するという意味では、やはり見事な構成と言うしかない。一作ごとに相当シビアで緻密な構築を要求される作品なので、著者が本作を書き切った功績は大きいと思う。
屠畜に興味を持って世界中を飛び回ったり、今度は自分で豚を育ててみたり、小豆島に移住したりと奇抜な生き方を続ける著者だが、本作は彼女が乳癌と診断された際の闘病体験を、これまた奇妙に赤裸々につづる内容となっている。
巻末で彼女は語る。〈私のように意志ばかり肥大させて生きてきたような人間には、それはちょうど良い体験だったのかもしれない。(中略)癌を通じて、私の意志は一度身体に降参し、身体のいいなりになるしかなかったのだ〉
この言葉がタイトルになったわけだ。身体を無視して好きなようにやってきたが、結局はそれが身体に無理を生じさせ、しかも身体を治さなければ好きな生き方もできない、身体のいいなりになるしかない、という意味だ。この結論に至る傷だらけの過程が著者の体験の特殊性を生み、本書の読みどころとなっている。
ただ僕は本書を読んでもう一つ、「医療のいいなり」という言葉が浮かんだ。医療が何よりの正義で必ず従わなければならない、という信仰に基づいて彼女は行動しているわけだが、僕個人としてはそこに大いなる疑問を感じた。僕は本書で書かれている医療、治療をほとんど全く信じていない。だからここで紹介されている治療はまったく意味がないどころか、体に害でしかない、と思う点では、本書は受け入れられなかった。
ナチズムやファシズムに関する小説は数多くあるが、イタリア内にあるドイツ語圏の村という設定が独自だ。主人公のトリーナは、ファシズムの名のもとに近隣の村が蹂躙され、イタリアへの同化を強いられる状況に苦しんでいる。そこへダム建設の話がもちあがり、湖に沈む村からの立ち退きを要求される。夫は村にとどまることを主張し、息子はナチスが自分達を助けてくれると信じている。やがて第二次大戦の脅威が忍び寄り、トリーナ一家に過酷な運命が襲いかかる。
本作はトリーナが娘に語りかける形式をとっているが、その理由が明かされる部分が切ない。誰もが幸せを望みながら、それぞれの思いを胸に引き裂かれざるをえないのだ。穏やかな場面と激しい場面とが変わらず丁寧な描写でつづられ、読者はトリーナの置かれた状況に否応なく引き込まれていく。読み終えて表紙を見直せば、歴史の暴力が作り上げた限りなく美しい光景が胸を打つ。
◆2024年 2月
ジャネット・ウィンターソンのデビュー長編にして自伝的側面の強い作品。どこまでが事実なのかは想像するしかないが、強烈な個性を持つ母親から正負両面において大きな影響を受けたこと、田舎町においてレズビアンであることがいかに生き辛いものであったかというあたりは、ほぼ事実とみて間違いなさそうだ。
同著者の小説はこれまで、『
灯台守の話』『
フランキスシュタイン』の2作を読み、どちらも大好きな小説になった。これら2作に共通するのが、メインの物語と平行して様々な別の物語が語られるところだが、このデビュー作から既にその方法がとられている。自伝的ストーリーの合間に突如としてアーサー王の物語がはさまれたりするが、そうしたやり方は、作を重ねるにつれ洗練していったように感じる。
小川哲作品を読むのは『
地図と拳』に続いて2作目。よく言われるように、作風の多彩さにまず驚く。綿密な調査の元に書かれた大河ドラマだった『地図と拳』に対し、本作はクイズ番組を題材にした、大衆向けの軽快な一品だ。
テレビのクイズ番組で、問題が一言も発せられないうちにボタンが押され、正解するという事態が起きる。なぜそんなことが可能だったのか、不正はなかったのかと裏事情を探る過程はやがて、プレイヤー達の人生や生きる姿勢にまでつながっていく。著者のクイズに対する関心、人間や人生に対する興味がびしびしと伝わってくるから、この人の書く作品は単なるエンタメに終わっていない。
◆2024年 1月
昨年のニュージーランド旅行の際、ニュージーランドの作家の本ということで選んだ。少しずつ読んでいる津村紀久子さんの『やりなおし世界文学』で紹介されていたせいもある。
冒頭の一篇「園遊会」は、割と有名な一作。1950年代の翻訳のせいか、読みづらいというほどではないが、なんとなく日本語に違和感を覚えてしまい、入り込むのに時間がかかった。上流階級の子女の素直すぎる反応が描かれるが、彼女に同意できるか否か、考えさせられるのが面白いと思った。続く「パーカーおばあさんの人生」は、老いた女性の悲哀を皮肉まじりに描く。その後も、割に短く断片的な小品がつづき、アリ・スミスの『
五月 その他の短編』を読んだ時のような戸惑いを覚えた。
印象が変わったのが、「船の旅」だ。これも短い一作ながら、少女が一人で船旅に出なければならない理由、その状況や心情が見事に描写され、感心というか感嘆してしまった。そこからは、いじわるユーモアがさく裂する「鳩氏と鳩夫人」も楽しく読めたし、やはり船を舞台にしたドラマティックな一篇「見知らぬ者」にも唸らされた。
一冊を読んで感じたのは、独特の皮肉交じりのユーモアや予定調和のないストーリーで、そしてなにより細密かつ的確な描写力にしびれた。これはすごい作家に出会ってしまった。