「なんだ、ナルトか・・・」
「なんだ、モトハシさんか・・・」
間の抜けた声で、二人は視線を咬み合わせた。
トトマルの安堵した声に背中のテトラが素早く反応する。
「にゃ〜ご」(ナルトさん、こんばんはにゃ)
「にゃう」(ごきげんようだにゃ。テトラ)
頭上のモナカも同じように反応した。ナルトと呼ばれた雪白猫は、二匹から一目おかれているかの体で、優雅な仕草でそれに応じた。貫禄とでも云うのだろうか。テトラの容姿から嘯くそれとは違って、ナルトにはその存在に対する揺るぎない重みのようなものが存在していた。
実際、ナルトはテトラやモナカよりも3年多く生きているから、可笑しなことではないのかもしれない。猫社会の上下関係の有無は別
として、ナルトから見れば他の二匹など、子供のようなものなのだ。それでいて、この3匹の関係は所謂、主従関係とは違っているようでもあった。仲間意識の中で成立した対等の関係を構築できる気のおけない間柄なのだった。
これは、彼らの飼い主達にも共通している。実を言えば、ハジメはトトマルやケイタよりも3歳年長なのだ。ある理由で3級遅れで中学に入学したのだ。だから、ケイタが彼のことを「さん」付けで呼んでいるのもそういう理由があるからだった。それでいて、トトマルが「モト」と呼び捨てにするのには、彼らの出逢い方の違いが起因しているのだが、それはまた別
に語られることとして。それぞれにそれぞれの関係において対等であることは確かだった。
同族意識のようなもので結びついている彼らの根底に流れる水は、色こそ違え、同じ味を持って躰の隅々を満たしている。
それは、苦くて切ない悲哀の味。
闇から現れたハジメの手の中で、ナルトが大きなあくびをした。退屈しているのか、緊張しているのか。猫はそういう時にあくびをするものだ。つられて二匹もあくびをする。それを見ていたケイタが堰を切ったように言葉を投げた。
「それで、今日はどう云う趣向なんですか?」
ケイタは好奇心を押さえきれない表情で聞いた。
しかし、「 趣向」と云うケイタの言葉に、トトマルは妙な感覚を憶えた。ハジメの趣向は予測がつかない。だからいつでもワクワクする感情を伴うのだ。先にあるものが不定形であるが故の興奮、興味、それが高揚と云う作用を生み出す。
今、その未知なる事象に対しての畏怖がトトマルの意識の中で大きくなり始めていた。何故、ハジメはあの森の中から姿を現したのだろう?
ケイタの問いにハジメは薄く笑って首を傾げている。遠くで聞こえていた祭太鼓の音が止んで、渇いた空砲の音が大気を揺らした。
どぉん。
音の波にトトマルはびくりとして身を縮めた。顳かみが微かに疼く。鈍い痛みが軽い目眩を引き起こす。ハジメの顔が曖昧に歪んだように見えた。
「花火、見たかった?」
ハジメは天を指差しながら聞いた。
「別に。花火は来年もあるし、」
間を置かずにケイタが返事をした。
ハジメの視線が黙って頷いたトトマルを追って、満足そうな笑みに変わる。
「よし。問題なしってことだね」
そのままハジメは踵を返すと、今出てきたばかりの散策路の中に姿を投じた。ハジメの細い肩に無彩
色の幕が降りる。双肩が呑まれる真際、ハジメの姿がグラリと傾いだ。
闇の中で鳥が啼く。
「モト、中に入るの?」
トトマルが心配そうな顔で聞いた。嘆きに近い声だった。
散策路と書かれた看板には、「夜間立入り禁止」の文字と「夏期6時30分閉門」の朱文字が並んでいる。
「大丈夫だよ。向こう側から出られるようになってるんだ、今下見もしてきたし。管理局の人間の見回りさえ回避出来れば、問題なし」
「モトハシさんお得意の悪巧みですね・・・」
ケイタが変わらず陽気な声で云う。
「何をするの?」
それは不粋な質問だった。ハジメが大丈夫だと云うのだから大丈夫なのだろう。独りではないし、3人と3匹だ。それでもトトマルはハジメの心理に疑問を抱いて焦れていた。ハジメはこの森に入ることの忌みを忘れたわけではあるまい。それなのに。
今日のこの行為に、 何かの意味があるのだろうか。
依然、思案顔のままで足の鈍いトトマルを見かねてか、
「それじゃあ、」
と言ってハジメはかけていた眼鏡を外した。外した眼鏡をトトマルの耳に優しくかけると、鼻の頭をちょこんと叩いてから、
「これをかければ、怖いものは何も見えなくなります」
真面目な顔をしていった。
その顔から、いつもの笑みが消えている。
身体が、自ら吐いた科白に脅えて、次第に強張ってゆく。
(ああ。そうか、)
ハジメはいつかの記憶を遡る。
忘れられない空の青さと、対称的に白い肌。
白過ぎる冷たい感触。雪花石膏のように緻密な粒子で創られた透過性のある色合い。
───「セレストブルー」
青く澄んだ空を指してその意味を語る細くしなやかな指先は、光を柔らかく吸収して、淡く清らかだった。
───「神います至高の天空」
笑顔の横で、腰まで伸びた金色の髪が風に吹かれて揺れている。いつでも優しく笑っていた瞳の奥で、青い燈火が燃えていた。
触れてしまえば消えてしまいそうで恐かった。
(成功のオマジナイをしてあげよう。)
優しく微笑んだ顔の中で、花弁のような口唇が語りかける。
そう、あの時僕は、まだ上手に笑うことができなかった。
笑い方を知らずに、あの人の側で、戸惑ってばかりいたのだ。
ハジメは自分の中で記憶の鍵が外れる音を聞く。
自分はいつからこんな風に笑えるようになったのだろう。トトマルがふっと笑んだような気がして、ハジメは現実に引き戻された。
「ごめん・・・」
トトマルの困惑した表情が見えた。
「大丈夫。ありがとう、もう平気だよ」
恥ずかしそうにはにかんだ後、そっと眼鏡をハジメの顔に戻して言った。
(オマジナイ)
トトマルはその言葉を反芻する。知っているのだ。ハジメの眼鏡の秘密。オマジナイと言った時の優しい表情の中に潜んだ暗い澱みが、自分の持っているそれと同じであることを。その眼鏡が誰のためでもなく、ハジメにとってのオマジナイであることを。
そのレンズがただの素通しのガラスであることの意味を。
「なんか、二人の世界って感じでずるい」
ケイタの不満そうな声が聞こえた。
その声には羨ましいと云う感情が露骨に現れていた。頬を膨らませながら二人の顔を覗き込んでいる。
「トトマルは駄々っ子だからさ・・・」
ハジメがからかうように言って、トトマルの肩をつつく。
「にゃ〜」(そのとおりにゃ)
御意。とばかりにナルトが鳴いた。
背中のテトラも肩口に顎をのせたままムニャムニャと言葉にならない声を発している。ケイタも小さく笑ってトトマルの額をつついた。
「駄々っ子だってさ、」
「ごめん・・・」
(それは、君のモノ)
「嫌か?」
「ううん」
ハジメの内側にある真意は何だろう。トトマルが嫌だと云えば、引き返したに違いない。意味がない悪巧みなど彼の趣味ではないはずなのだ。
ハジメは何かの意図を持って、この森の中に自分達を招き入れようとしているのだ。トトマルはそう考えることで少し、気分が軽くなったような気がした。
ハジメの悪巧みは何時でも僕らを楽しませてくれるはずなのだから。
(タノシイコト)
(楽しいことってなんだろう)
(笑えること?)
(笑えるから、楽しいのか?)
(違う。それは逆。楽しいから笑えるのだ。)
(哀しくても、笑えるだろう)
(笑顔は結果。)
(じゃあ、タノシイってどう云うこと?)
ケイタはまだ何かブツブツと言っていたけれど、歩調軽やかなハジメに続いて、3人と3匹は森の内部へ分け入っていった。
闇は次第に濃さを増したが、定間隔で配置されている常夜燈のおかげで、歩行に支障は全くなかった。
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