「いつもの所で」
元端一(モトハシ・ハジメ)は校門を出た所で、急ぎ足の山崎兎斗丸(ヤマザキ・トトマル)を呼び止めた。
密談をするように細めたハジメの瞳が、眼鏡の奥で微かに笑んでいるようだ。トトマルは自然、眉根を寄せる。
(また、悪巧みか?)
と呆れ顔を作りながら肩で合図を送ると、ハジメは得意そうにニコリと笑った。悪戯をする時の、ちょっと狡い感じの笑い方は、ハジメの丹精な顔に微妙に似合っていて可笑しかった。
内心またか、と思いながらもトトマルはこの悪巧みが嫌いではない。むしろ、それを楽しんでいたりする、と言えば聴こえが悪いが。ハジメの未知数な部分が、いつも何かを変えてくれるような気がして楽しいのだ。それは、トトマルにとって、単調な日常の起爆剤のようなものだった。
「これから作業場の掃除なんだけど・・・」
トトマルの夢は大工になることだ。りっぱな大工になるために、家業の工務店の手伝いに余念がない。だから、放課後は、一日の作業でたまった鉋クズを掃き集める日課が待っているのだった。
「掃除か、」
ハジメは含んだような言い方でトトマルをじっと見つめた。
トトマルの執着心は時として必要以上であるのに、 それがどこかズレていて、間抜けなところがある。今、彼はこの作業に夢中であるが、今週から教室の清掃当番になっていることをすっかり忘れているのだった。
「それは、構わないんだけど・・・」
「何?」
大きな丸い瞳がクルクルと動いている。純粋で真直ぐな視線に見入られて、ハジメはその後に続けるべき言葉を失ってしまった。「掃除当番は?」などど聞くことは、ハジメにとっても野暮なことで、自分もさぼりと言うことに関しては、種類を異にしているとはいえ、ほぼ同類に近い。
「いや、別に」
ハジメはそう言って、頭を掻いた。トトマルは無論何も気がついてはいない。このお目出度さには誰かの助言が必要なのだが、それは今、ハジメの役割ではなかった。
「6時くらいになっちゃうかも、」
トトマルは哀願の意を含んでハジメの顔を覗き込んだ。甘えた子猫のような顔をしたトトマルに、もちろん構わないと言って頷いたハジメは、
いつものように片目を閉じて、お約束の言葉を添えた。
「あいつらも一緒に、」 暗号のように囁いた。
そしてもう一人。
トトマルから遅れること15分。教室の清掃当番を済ませた山南蛍汰(ヤマナミ・ケイタ)か校門を出た。
本来、彼は掃除当番ではなかったのだが、終業の鐘とともに無垢な笑顔で去っていったトトマルの穴を埋めて、何故だか教室の清掃をしていたのだった。
当番を交替してあげたのだと級友に言ったその実、当番の事など忘却の彼方にあったトトマルを勝手に擁護して、もの好きにも代わりに掃除をして来たわけだ。ケイタには、そう云う妙な癖がある。そう云うことを楽しんでいる風があった。
「あ〜、モトハシさん。今日はズルですか?」
門扉を背にしたハジメを見つけて、邪気のない明るい声が響く。云われた本人はけろりとしたもので、当然とばかりの表情で腕組みの姿勢を崩すと、急に腰を屈めて咳き込む真似ごとをした。
ハジメは今日、病気欠席ということになっている。よくある事だ。
「やっぱりズル休みなんだ〜」
ケイタが羨ましいような、呆れたような声で近づいて来る。
「ふふふ。」
ハジメは楽しそうに笑いながら手を振った。
「また、何かの悪巧みですか?」
ケイタも楽しそうに笑って言った。
「そう云うお前のそれも、悪巧みの類じゃないのか?」
ハジメが箒で掃くような仕草を繰り返すと、心外だと云う面でケイタは首を横に振った。
「嫌だな〜。違いますよ。ボランティアですって、」
「・・・趣味だろ、それ。」
ハジメはケイタの頭をポンポンと軽く叩きながら、くっくっと笑った。
「6時、いつもの所で、」
「モトハシさんには参るなぁ。了解しました。で、」
二人の目が重なりあった。意味ありげな表情をする。
「あいつらも一緒に!」
同時に言って、二人で笑った。ハジメは良く笑う。温厚な人柄で、優しく包み込むような空気を纏っているハジメにかかると、ケイタは一緒に笑んでいることが多かった。
ハジメの笑顔には、厭なことすら消化してしまえるような不思議な力があって、その瞳に宿る強い光りに、心が共鳴して心地良いのだった。
この、ケイタ。『池田屋』と云う和菓子屋の伜。『池田屋』はこの街では有名な老舗であるが、その跡取り息子であるケイタに気負った所は微塵もない。トトマルのように立派な職人になるために何かをする訳でもなく、飄々として掴み所がない。それでいて、手先の器用さとモノ作りのセンスは皆の御墨付きだった。
そして、ハジメは『彰漣院』と云う寺院の一人息子である。放蕩息子だとか、糸の切れた凧とは、おそらく彼のことを云うのであろう。
ちなみに、彼等は中学2年生。ハジメはその年齢にしては背が高い。175センチの長身の躯に細くしなやかな手脚がついている。トトマルが160センチ、ケイタは169センチある。三人並ぶと、目を惹いた。悪いことはしていなかったが、「バラガキサン」などと呼ぶ人ひとがいることを本人達は知らない。
クラスメートである三人は、それぞれにそれぞれの繋がりを持っていて、最近、なかなか仲がいい。そして三人共通
の繋がりである「あいつら」は、最近、すこぶる仲がいいらしいのだった。
いつもの所とは、街外れにある小さな森の入口のことで、その前庭に申し訳程度の広場がある。昔は大きな森が広がっていたこの辺りも区画整理の対象となって整備された。ただの森でしかなかった鬱蒼とした木々の茂みが「森林公園」とか「散策路」などと名前を変えたのは七年程前のことだ。
人間の手が入ってしまえばもうそれは自然ではなかったけれど、整備された分、安全な遊び場が増えたことが少し皮肉めいていた。
三人は良くこの広場で出会う。出会うと云う言い方は妙な感じがするが、示し合わせずに、それぞれが広場に出向き、そこでばったり出くわすことが良くあるのだ。
高台に位置するこの広場からは、街を眼下に見下ろしながら、その移ろいを簡単に目にすることが出来た。変わってゆく日常と、変わらない日常の微妙なバランスを感じるのには絶好の場所であり、三人にとってはある意味で、それぞれに想いが詰まる特別
な場所だった。
だから、いつもの所と云っても、今日のように、この場所に召集をかけられたことは、考えてみれば珍しいことだった。
広場の時計が6時5分前をさした頃、トトマルが姿を現した。広場の中に人の姿は見られなかった。閑散としていて、動きのない空気の澱みが蓄積されている。
陽は傾き始めていた。西側を背に広場に立つと、日暮れ間近の柑色の陽にトトマルの影が長く一筋直線を描く。その影の伸びた先には、「散策路」の入口がポカリと口を開けていた。その内側では既に陽が翳り、暗い闇が落ちている。吸い込まれてしまいそうな深い闇は、そこだけが額縁で切り取られた空間のようで異質な感じがした。
トトマルは軽く息を吐いた後で、大きく深呼吸をしてみた。夏の夕暮れの萎えた下草の臭いが鼻孔を刺激する。視線を宙へ戻す。閑散とした広場の中で、トトマルの影だけが、また少し長さを増したようだった。
音が聞こえる。
広場の反対側にある市街地の方から、微かに祭りの音が聞こえていた。今日は、夏祭りの宵で、花火が上がる。この街ではそれを合図にするように盛夏が始まるのだ。夏休みまであと一週間。
燃え立つような柑色の空に、同色に染まる雲が浮かび、溶けてしまいそうな程の暮色に、トトマルは吐き気がした。トトマルは夏の夕暮れが好きではない。払拭したい過去の記憶の中で、この色だけが今でも鮮明に眼底に焼き付いていて、心の静寂をかき乱すのだ。
朱に染まる部屋の中で、大きな背中が小刻みに震えていた。泣いているのだ。手を伸ばし、その背に触れる。
振り向いては貰えない。
幼い僕には何もできない。
小さな手が、夕陽をはじいてキラキラしていた。
(僕がいるよ・・・)
押し殺された自分の声に、押し潰されてしまう。
だから、
ぎゅっと目を閉じ、耳を塞ぎながら、頭を擡げた過去の記憶に鍵をかける。
(かちっ)
その刹那、自分が腐食してゆく音を聴いたような気がした。
トトマルは背中に背負ったリュックの具合を確かめながら、その中でモゾリと動いた酸漿色の物体に向かって言葉をかけた。
「夕暮れは人拐いが出るんだって・・・」
言葉に反応したのか、それはリュックの口に首を覗かせる。貫禄のある、と云うか目つきの悪い強面
てがキョロキョロと周囲の様子を確かめている。
「にゃにゃっ」(猫拐いってのも出るかにゃ)
「にゃー」(おいら、怖いにゃー)
夕陽に融けてしまいそうな色の大きな猫だった。
「拐らって欲しいって思うのは、いけないこと?」
トトマルは呟くように言って空を仰いだ。憎らしい程の色彩に溶けてしまいたい。そんな風に考えながら。
「うにゃにゃ〜」(ケイタが来たにゃ)
背後からもう一つの影がすぅっと伸びて、ゆっくりと形を重ねた。 影の頭のあたりで二つの耳のようなものが天に向かってピンと屹立している。
振り返ると逆光で影になったケイタの姿が見えた。
「相変わらず早いな。トト」
ケイタは頭の上に乗せた灰色の猫の右手をつかんで、ふるふると上下に振りながら言った。いつもの挨拶だった。
「ケイタくんも相変わらず時間に正確だね」
そこで、6時の鐘が鳴る。ケイタはふふっと笑って歩調を早めた。
「にゃご」(おっす、なのにゃテトラ)灰色猫がケイタの頭の上で鳴いた。
「にゃご」(こんばんはなのにゃ、モナカ)酸漿猫がトトマルのリュックの中から返事を返す。
テトラと呼ばれた酸漿猫は、トトマルの肩の上に頭を擡げてにゃーと鳴いた。
モナカと呼ばれた頭上の猫は、凛として芯の強そうな顔つきでこちらを窺っている。溌剌として、満ちる好奇心を輝かせてた濃い郡青の瞳に宿るのは、ケイタに良く似た眼差しだった。
「モトハシさんは?」
ケイタが聞く。
「まだ、来てないみたいだけど、」
トトマルは広場の中に視線を巡らせた。
「ふ〜ん。案外、もう来てるんじゃないか?あの人のことだから」
ケイタは散策路の入口の辺りに目を懲らして、凝視するようにその奥に注意を払う。そこは、先程よりも濃さを増した宵闇が、夕陽の朱と対称をなしていた。
トトマルも同じように目を凝らす。ハジメならありがちのことだと思った。
「モトハシさ〜ん。」
ケイタが闇を裂くような陽気な声でハジメを呼ぶ。
「モト〜。」
今度はトトマルがハジメを呼んだ。その声はケイタが確信を持って発した声音とは違って、まだ半信半擬のような声だった。ありがちだと思いながらも、あの森に一人で入って行くことがあるのだろうか、と云う疑問が頭の片隅で渦を巻いていた。そんなことはあり得ない。
何故なら、
この森が僕らにとっての禁忌だから。
今になって、先刻、脳裏を翳めた記憶の意味を探して、トトマルはぞわぞわとした胸騒ぎを胸に覚えた。と、凝らしていた目が何かを捉える。
闇の中にゆるりとした動作で白い影が浮かびあがった。二人は一瞬ぎょっとして、顔を見合わせる。二人の位
置からは、白くてむくむくとした塊が、宙空で静止したように見えたのだ。それからゆっくりと、人の姿が文字通
り闇を裂いて、二人の前に現れた。
(ヒトサライ?)
その手の中で抱えられた、雪白の長毛猫が、笑っているような顔でこちらをじっと眺めていた。
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