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飯田信夫の略歴 大中寅二略歴 島崎藤村略歴 八十島稔の略歴 |
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【島崎藤村と柳田國男の関係】 島崎藤村の親友の柳田國男(やなぎたくにお・のち民俗学者)は、東京帝国大学(現・東京大学)の学生の時、知り合いの画家から風光明媚な地と聞いた愛知県渥美半島の伊良湖で一ヶ月余りを過ごした。ある日の早朝、伊良湖岬の恋路ヶ浜で、南の島から黒潮に乗って何年もかかって浜辺に打ち上げられている椰子の実に遭遇しました。 帰京して、その感動を島崎藤村に話した所、心を動かされた藤村は、椰子の実の漂流の旅に故郷を離れて居を転々としてさまよう“漂泊の詩人”である自らの憂いを重ね、この詩を書きました。詩の五~七連には、特に藤村の思いが込められています。 明治三十三年(1900年)、雑誌『新小説』六月号に「海草」という総題の五篇の詩の一篇「其二」として発表しました。翌年、詩集『落梅集』(明治三十四年八月二十五日、春陽堂刊)では独立した作品「椰子の実」として収録。 柳田國男は民俗学者になる以前は、松岡國男という詩人で、島崎藤村とは新体詩の仲間でした。官界に進んだ後も、島崎藤村、山田花袋、国木田独歩、蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ってから当時の文学、特に自然主義や私小説のありようを次第に嫌悪するようになっていった。 東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れる内に次第に民俗的なものへの関心を深めていった。 柳田國男著『海上の道』(筑摩書房)昭和三十六年(1961年)七月発行に、「椰子の実」や「島崎藤村」の事などの経緯が詳しく書かれています。 【柳田國男著『海上の道』】岩波文庫24 ・25ページより抜粋。 “途方もなく古い話だが、私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、三河(みかわ)の伊良湖崎(いらござき)の突端に一月余り遊んでいて、このいわゆるあゆの風の経験をしたことがある。(中略) 今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾(すそ)を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露(あら)われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。 この話を東京に還(かえ)ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦(あいしょう)せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。 そを取りて胸に当つれば 新たなり流離の愁ひ という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々(ささ)たる私の見聞もまた不朽のものになった。” <「あゆの風」について> 「あゆの風」は「東から吹く風」「あゆ=東風」のこと。文中には「東へまわって」「東おもての」「東やや南に面して」と、東から浜に吹く風を思わせる描写がある。 例・「英遠(あお)の浦に寄する白波いや増しに立ち重(し)き寄せ来(く)あゆをいたみかも」 (万葉・一八・四〇九三) 訳・英遠の浦(=富山県氷見(ひみ)市北部ノ海岸)に寄せる白波は、ますます立ち重なって打ち寄せる。東風が激しいからだろうか。 百田宗治作詞、草川信作曲の『どこかで春が』の歌詞には、「山の三月、東風(こち)吹いて」がある。この場合の「こち=東風」は、春風のことです。俳句では春の季語です。「東風(こち)」は、現代の子どもには理解できない言葉になっているので、小学校の教科書では「そよかぜ」と改作した歌詞を掲載しています。「東風(こち)」と「そよ風」では詩から受けるイメージが違います。「東風(こち)」の説明文を添えて、原作のまま歌わせてほしいものです。 例・「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」 (菅原道真が左遷された時の歌)。 【「明治三十一年」説について】 まず、柳田國男著『海上の道』に「明治三十年の夏」「大学二年生」と書かれている事実は動かしがたい。それでは、なぜ「明治三十一年」説があるのだろうか。日本民俗学の父といわれる柳田國男の記憶違いなのか。 これは、柳田國男の年譜を見ると理解できます。大学への入学年が「明治三十年」になっている。「明治三十年」は「大学一年生」です。では書き直してみよう。 “柳田國男が「伊良湖岬」の漁村に滞在したのは、明治三十一年(1898年)七月、夏の一ヶ月余り(約五十日間)で、東京帝国大学で一年を終えた夏季休暇の時であった。 柳田に「伊良湖岬」を紹介したのは、当地出身の画家の宮川春汀で、彼の語る故郷の素朴な民情に心を引かれた柳田は、伊良湖村の小久保惣三郎の離れ座敷に仮寓し、夏期休暇を送った。 滞在中、一夏にわたって近在の村々や神島へと足を伸ばし、風景明媚な自然や、素朴な村人たちとも親好を深め見聞を広めた。「恋路ヶ浜」に流れ着いた「椰子の実」を見つけたのはこの時の事だった。” 上記を裏付けるように、「日本民俗学の父 柳田國男逗留の地碑」が伊良湖シーパーク&スパの入口の所にある。 それには下図のように書かれている。 日本民俗学の父 柳田國男逗留の地碑
【柳田國男の略歴】 柳田國男の略歴が必要になったので調査した。 柳田國男著『柳田國男集』現代日本文学全集12(筑摩書房)昭和三十年一月十五日発行を参考にしています。 ・明治八年(1875年)一歳、七月三十一日、兵庫県神東郡田原村辻川(現・神崎郡福崎町辻川)に儒者・松岡操、たけの六男(男ばかりの八人兄弟)として生まれる。本名は松岡國男。松岡家は代々の医家。 ・明治十七年(1884年)十歳、一家で兵庫県加西郡北条町に転居。 ・明治十八年(1885年)十一歳、高等小学校卒業。幼少期より非凡な記憶力を持ち、一年間、辻川の旧家三木家に預けられ、和漢の書籍を乱読する。 ・明治二十年(1887年)十三歳、九月、次兄の井上通泰(みちやす)に伴われて上京、在京約十日、更に長男の鼎(かなえ)が、医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村(現・利根町)に送られ、ここに三年住む。病身のため学校に行かず、種々の書物を乱読して暮す。やがて両親と弟たちが国から出て来て、暫らくの間一緒に居る。 ・明治二十三年(1890年)十六歳、冬に上京。一年半ほど下谷御徒町(おかちまち)の次兄の井上通泰と同居。依然、図書館などに行って雑読を続ける。兄の友の森鷗外を識(し)り、その感化を受ける。『しがらみ草紙』に二三の歌文を寄せたのが雑誌生活の始め。松浦萩坪(しゅうへい)翁の門に入って歌を学び、田山花袋と交わる。 ・明治二十六年(1893年)十九歳、第一高等中学校に入学。 ・明治二十九年(1896年)二十二歳、七月に母を、九月に父を喪う。その間に肺尖(はいせん)カタルを患い、銚子で一ヶ月ほど静養する。 ・明治三十年(1897年)二十三歳、七月に第一高等学校(第一高等中学校改称)卒業。九月に、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。 ・明治三十一年(1898年)二十四歳、伊勢の海に遊び、姫路、生野を旅す。秋、腸チフスのため入院、翌年にかけて数カ月休校。この頃、『帝國文學』に寄稿。 ・明治三十三年(1900年)二十六歳、七月に東京帝国大学を卒業。農商務省農務局農政課に勤務。駒込及び青山に住む。以後、全国の農山村を歩く。翌年から東京専門学校(早稲田大学)などで「農政学」を講義する。 ・明治三十四年(1901年)二十七歳、五月に柳田家の養嗣子として入籍する。 ・明治三十五年(1902年)二十八歳、二月に法制局参事官に任官。 ・明治三十七年(1904年)三十歳、四月、柳田直平の四女孝(十七歳)と結婚。 ・明治四十年(1907年)三十三歳、二月一日に島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始める。 ・明治四十一年(1908年)三十四歳、一月に任宮内書記官。 ・大正二年(1913年)三十九歳、三月、雑誌『郷土研究』を刊行。 以下省略 明治四十年以降、文壇とは次第に離れ、専攻の農業政策から民俗学の研究へと入る。大正十三年、朝日新聞論説委員となり、昭和七年に辞してからは、専ら民俗学の研究に従事。慶應義塾大、國學院大をはじめ各大学で教壇に立った。『石神問答』、『遠野物語』の他、著作多数。 ・昭和三十六年(1961年)、八十六歳、『海上の道』を刊行(年齢的に学生時代の事は記憶違いであろうと納得できます)。 ・昭和三十七年(1962年)八月八日、心臓衰弱のため自宅で死去、享年八十七歳。 (註)柳田國男が椰子の実を海辺で拾い島崎藤村に浜の体験を語ったことは、六十余年後の民俗学の集大成『海上の道』を書いた時に明らかにした。すでに「椰子の実」の詩は有名になっていた。柳田は藤村の詩を引用して、日本人はどのようにして、この列島に住み着いたのか。椰子の実が流れ着くなら日本人の祖先は中国から稲を携えて沖縄に渡り、椰子の実のように黒潮に乗って本土に達したと推理、これが晩年の著作『海上の道』へ発展した。
【大中寅二が作曲】 昭和十一年(一九三六年)七月九日、この詩に大中寅二(おおなかとらじ)が作曲しました。詩はJOBK(大阪中央放送局)から渡された四つの詩※の内の一つで、今歌われているものとは別にもう一つ、八分の六拍子の歌も作りました。最終的に、一つは大中寅二によって廃棄され、今歌われているものが残されました。「椰子の實」に二つ曲を付けていたという話は、大中寅二夫人の大中香代さんが鮎川哲也のインタビューに答えているもので、鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)により知る事ができます。この事は、あらゆる出版物の解説で紹介されていますが、出典が書いてあるものはありません。出典を明らかにしてほしいものです。それはルールです。 ※大中寅二作曲の四曲は「椰子の實」島崎藤村作詞。「牡蠣(かき)の殻」蒲原有明作詞。「旅愁」岩田九郎作詞。「白百合」西條八十作詞。 ●長田暁二編著『日本のうたベスト400』(自由現代社)1992年4月発行の解説には“大中寅二が作曲したのは昭和10年7月9日”と書いてあるが、長田暁二著『日本の歌101選』(YAMAHA)2007年4月発行では“昭和11年、山田耕筰門下の逸材大中寅二がこの詩に作曲し”と訂正してある。昭和十一年七月九日作曲が正しい。 大中寅二夫人の香代さんも鮎川哲也のインタビューに答えて“≪椰子の実≫は昭和十一年に作りましたしね”と言っている。鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)で確認できます。 【國民歌謡で放送】 (【國民歌謠】参照) 「椰子の實」(島崎藤村作詞、大中寅二作曲)は、東京(JOAK)から、東海林太郎(しょうじたろう)の歌で放送されると、たちまち人気の曲となりました。昭和十一年七月十三日(月曜日・第一日)から七月十七日(金曜日・第五日)までは東海林太郎が歌い、十八日(土曜日・第六日)は山田道夫が歌った。 そのあと、「椰子の實」は、八月三日(月)から二葉あき子※、十一月九日(月)から多田不二子が一週間ずつ歌い、十一月二十三日に関種子、十二月二十九日に柴田秀子が歌った。 【ラヂオ・テキスト】 「朝」「椰子の實」は、『國民歌謠』第三集 日本放送協会ラヂオ・テキストとして出版された。昭和十一年十一月五日発行。
【レコード発売】 昭和十一年十二月には、東海林太郎の歌唱でポリドールからレコード(2363)が発売されました(発売年月は、森本敏克著『れこおどはやりうた音盤歌謠史 歌と映画とレコードと』(白川書院)で知る事ができます)。 コロムビアからは東京音楽学校生による範唱が録音された(33497a/1937年7月16日録音/1937年12月20日発売)。ビクターからは斎田愛子の歌で発売。 <北島治夫レコード情報> 北海道のレコードコレクター北島治夫氏所有のレコード。 ・ポリドール 2363 東海林太郎の歌唱、國民歌謠 東京中央放送局推奨と書かれている。裏面は、「乙女の歌」(今中楓溪作詞 水谷ひろし作曲 細田定雄編曲) 結城道子の歌唱、國民歌謠 大阪中央放送局推奨。 ・コロムビア A3 東京音楽学校 【歌詞について】 歌詞を詳しく見ましょう。 「汝(なれ)」 おまえ。 「そも」 いったい。 「生ひや茂れる」 生い茂っているだろうか。 「影をやなせる」 影を作っているだろうか。 「渚を枕」 海辺に旅の宿をとること。 旅は、人生を象徴した言葉です。旅にかかる言葉は「草枕(心の休まらない旅先の眠り)」ですが、ここでは海の旅なので「渚を枕」といった。藤村は、遠い南の島から漂流して来た椰子の実に故郷を離れて世の荒波をただよう人生の孤独を見た。 「浮寝の旅」 さすらい歩く旅。 「あつれば」 あてれば。 「流離(りゅうり)の憂(うれい)」 さすらい歩く寂しさや悲しさ。 「激(たぎ)り落つ」 涙が沢山出ること。 「異郷(いきょう)の涙」 生まれた国をはなれてよその地で寂しく泣くこと。 「八重の汐々(しほじほ)」 海をへだてて遠く。または「八重の潮路(しほぢ)を」と書く説がある。 この場合は椰子の実がたどって来た、はるかな海の旅路に思いを馳せるという意味が明確になる。 「いづれの日にか」 いつか。 この椰子の実は、もはや二度と故郷に帰る日を迎えはしない。 自分もまた、いったい、いつ故郷に帰れることか・・・いや、おそらく、その日は来ないだろう。 【詩の構成】 ・明治の新体詩と同様に、藤村の詩も七音・五音の音数律で構成されている。「椰子の実」は五・七調、二行七連。 ・中間の第四連「われもまた渚を枕 孤身の浮寝の旅ぞ」を境にして前半と後半が対をなしている。 前半は、椰子の実を中心に、はるかな旅路に同情し、その故郷をしのんでいる。 後半は、その椰子の実に自分の人生を重ねて、流離の憂いを深め、望郷の念に、とめどない涙を流す。 【曲について】 曲を詳しく見ましょう。 ・イ長調、四分の四拍子。 ・ABの二部形式ですが、三番だけ、それに締めくくりの五小節の節が加えられて終わるようになっています。 ・歌い出しが八分休符から出るリズムや、ゆるやかな波のような旋律の動き方に特長があります。 <コーダについて> コーダ=曲の終結部。終結を完全にするための部分で、結尾ともいいます。 この曲では、最後にコーダが付けられています。 具体的には、「たぎりおついきょうのなみだ」でいったん終っていますが、完全に終結させるために「おもいやる~かえらん」があります。つまり、もう一度これで終わりですよと念をおしています。「おもいやる」からは、気分を変えて弱く歌い出し、「いずれのひにか」が曲の山場になるように歌います。 コーダを付けることにより重みのある大きな曲になりました。コーダの威力は絶大です。 【教科書での扱い】 ・昭和三十三年(1958年)に文部省制定の中学校三年生必修教材になった。「花」「こもり歌」「椰子の実」の三曲。以下は手持ちの教科書による。 <教育芸術社>『中学音楽3』昭和36年4月20日文部省検定済、昭和39年12月10日発行。「花」「やしの実」「子もり歌」(ブラームス作曲)が掲載されている。 <音楽之友社>『中学生の音楽3』昭和40年4月10日文部省検定済、昭和40年12月25日発行。「花」「やしの実」「子もり歌」(ブラームス作曲)が掲載されている。 <音楽之友社>『中学生の音楽3』昭和49年4月10日改訂検定済、昭和50年1月20日発行。「花」「やしの実」「子もり歌」(ブラームス作曲)が掲載されている。 <学習指導要領の変更> ・平成元年告示の学習指導要領においては、小・中学校ともに歌唱共通教材及び鑑賞共通教材を示していた。 ・平成十年の学習指導要領の改訂において、各学校が創意工夫ある指導を進め、地域や学校の実態等を生かした多様な音楽活動が展開できるようにする観点から、小学校の鑑賞共通教材、中学校の歌唱共通教材及び鑑賞共通教材については示さないこととした。 ・平成二十年七月の中学校学習指導要領解説 音楽篇 文部科学省によると次のようです。 各学年の歌唱教材については,以下の共通教材の中から各学年ごとに1曲以上を含めること。 「赤とんぼ」三木露風作詞 山田耕筰作曲 「荒城の月」土井晩翠作詞 滝廉太郎作曲 「早春賦」吉丸一昌作詞 中田章作曲 「夏の思い出」江間章子作詞 中田喜直作曲 「花」武島羽衣作詞 滝廉太郎作曲 「花の街」江間章子作詞 團伊玖磨作曲 「浜辺の歌」林古溪作詞 成田為三作曲 (註)「椰子の実」は含まれていない。 ト長調の「椰子の実」が掲載されている手持ちの教科書。平成21年発行。 <教育出版>中学音楽『音楽のおくりもの』2・3下。平成17年検定済。 (平成23年検定済 平成25年度使用にも掲載されている)。 <教育芸術社>高校生の音楽1。平成18年検定済。 (平成18年検定済 平成25年度使用にも掲載されている)。 <教育芸術社>MOUSA 2。平成15年検定済、平成19年検定済。 (平成19年検定済 平成25年度使用にも掲載されている)。 (註) 27教芸 音Ⅱ 003 Mousa2 平成15年検定済は、現在使用されていない。 29ページ右下の解説に、“後の1922年に大中寅二が作曲”と間違っているためです。 1922年は、大正11年。大中寅二が作曲したのは1936年(昭和11年)が正しい。 大正と昭和を間違えた単純ミス。 以上は、電話で教育芸術社編集部に確認(2013年2月28日) <音楽之友社>高校生の音楽1。平成18年検定済。 (平成24年検定済 平成25年度使用にも掲載されている)。 <音楽之友社>高校生の音楽2。平成19年検定済。 (平成19年検定済 平成25年度使用にも掲載されている)。 <教育出版>高校音楽1。 (平成24年検定済 平成25年度使用にも掲載されている)。 以上、平成二十五年度に使用される音楽教科書に「椰子の実」が掲載されているかどうかの調査は、教科書研究センター附属教科書図書館のレファレンス係にお願いしました。 「<椰子の実>は、現在(平成二十五年)の教科書の掲載曲からは消えていない」事がわかりました(2013年2月25日)。 ≪伊良湖岬≫ 愛知県の最南端に位置し、南は太平洋、西は伊勢湾、北は三河湾に囲まれている。黒潮の影響で一年を通して比較的暖かい。
≪伊良湖岬灯台≫ 昭和4年(1929年)11月20日に初点灯。海の難所として知られる伊良湖水道の安全を守っている。1998年「日本の灯台50選」に選定されている。
≪恋路ヶ浜≫ 伊良湖岬灯台から日出(ひい)の石門(せきもん)までの約1キロメートルの白い美しい砂浜が恋路ヶ浜。遊泳は禁止になっている。島崎藤村の詩にある椰子の実が流れ着いた場所として有名。その昔、高貴な男女の恋物語があって、それがこの浜の名称の由来(現・愛知県田原市伊良湖町恋路浦)。
【海辺の漂着物】 椰子の実が熱帯から流れ着くということは珍しいことなのだろうか。浜口哲一『海辺の漂着物ハンドブック』(文一総合出版,2009)35-36ページには「海流に運ばれる実」として第一に椰子の実が挙げられている。「熱帯の島々の樹木には、海流によって実が運ばれる種類が少なくない。そうして木の実は、コルク質の皮に包まれるなど、海水に浮く仕組みをもっている。その代表はココヤシで、島崎藤村の「椰子の実」の歌はあまりにも有名である。ココヤシは国内には自生しないが、その実は黒潮によって運ばれ、南西諸島では普通に見られるほか、時には本州や北海道でも記録される。南西諸島の海岸では、ほかにもモモタマナやゴバンノアシなどいろいろな種類の実が見つかるが、まれに本土まで運ばれてくることがある」。
【歌碑】 恋路ヶ浜の東の端、国道42号線から日出の石門に降りる遊歩道の途中、現・愛知県田原市日出町日出園地に「椰子の実」の碑が二基向かい合って建っている。
【さあ歌おう】 ゆるやかな波に、ゆられるような気持ちで、ふるさとをなつかしむ感じを込めて歌いましょう。 「思いやる八重の」からは、気分を変えて弱く歌い出し、「いずれの日にか」に曲の山を持って行くつもりで歌いましょう。 【島崎藤村の略歴】 ・明治五年(1872年)三月二十五日(旧暦二月十七日)、筑摩(ちくま)県第八大区五小区馬籠(まごめ)村に生まれる。後の長野県西筑摩郡神坂(みさか)村。昭和四十四年(1969年)は長野県西筑摩郡山口村。平成十五年(2003三年)は長野県木曽郡山口村大字神坂4256‐1。平成二十三年(2011年)現在は岐阜県中津川市馬籠4256‐1。 本名は島崎春樹。父正樹、母縫(ぬい)の間の四男三女の末子(四男)として出生。長姉園、長兄秀雄、次兄広助、三兄友弥。次姉、三姉ともに早逝。 島崎家は、もと相州(そうしゅう・神奈川県)三浦氏の出身。永正十年(一五一三年)木曽に来て木曽氏に仕えた後、郷士(ごうし)となり第九代勝房から木曽街道の本陣、問屋、庄屋を勤めた家柄であった。 ・明治十一年(1878年)、六歳。神坂学校へ通いはじめた。 ・明治十四年(1881年)、九歳。父兄にすすめられ三兄友弥とともに、長兄秀雄に連れられて東京に遊学。姉園は夫の高瀬薫とともに京橋区鎗屋町に家を持っていたので、そこから泰明小学校に通いはじめた。 ・明治十六年(1883年)、十一歳。高瀬家が一家をあげて郷里の木曽福島町へ帰ったので、高瀬家と同郷の木曽福島代官山村氏の家士吉村忠道(京橋区銀座四丁目四番地)方にあずけられた。吉村家に寄宿しながら日本橋の泰明小学校に通う。東京府から泰明小学校第四級生として襃賞を受けた。 ・明治十七年(1884年)、十二歳。海軍省の官吏石井其吉について英語を学び始めた。 ・明治十九年(1886年)、十四歳。三田英学校(のちの錦城中学)に入学。吉村家、日本橋区浜町三丁目一(大川端)に転居。九月、神田区淡路町の共立学校(のちの開成中学)に転じた。十一月二十九日、父正樹、郷里にて死去。 ・明治二十年(1887年)、十五歳。九月、明治学院普通学部本科一年に入学。 ・明治二十一年(1888年)、十六歳。六月十七日、芝区高輪の台町教会(高輪教会の前身)で牧師木村熊二より基督教の洗礼を受けた。木村は共立学校時代に英語の教師であった人。 ・明治二十三年(1890年)、十八歳。七月五日から十五日まで、明治学院で第二回キリスト教夏期学校開催。藤村も出席した。 ・明治二十四年(1891年)、十九歳。六月二十七日、明治学院普通学部本科卒業。 ・明治二十五年(1892年)、二十歳。牧師木村熊二の紹介で巌本善治を知り、巌本の主宰する「女学雑誌」のために翻訳の仕事を助け、英詩の紹介などを寄せた。四、五月ごろ、植村正久の牧する麴町一番町教会(富士見教会の前身)に移籍。九月二十四日、長兄秀雄、馬籠の不動産を隣家大脇兵右衛門に売却。十月、明治女学校高等科英文科の教師となる。牛込区赤城元町三十四小島方に下宿。月給十円。北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動。 ・明治二十六年(1893年)、二十一歳。一月下旬、明治女学校の教え子佐藤輔子を愛したことから、学校退職、教会退会。一月三十一日、北村透谷らと雑誌「文学界」を創刊。以後「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍。十二月初句、郷里から長兄秀雄の一家上京、下谷区三輪町八十九に住まい、藤村もこの家に起居した。 ・明治二十七年(1894年)、二十二歳。二月から十一月まで、下谷区三輪町八十九の秀雄方に「文学界」雑誌社の事務所を置いた。家賃は十二円。四月、再び明治女学校教師となる。五月十六日夜、北村透谷、芝公園の自宅で自殺。五月末、長兄秀雄、未決監に収容される。 ・明治二十八年(1895年)、二十三歳。七月末ごろ、秀雄一家の留守宅とともに本郷区湯島新花町二十四に移る。八月十三日、鹿討豊太郎に嫁した明治女学校の教え子佐藤輔子、札幌にて病死。八月、明治女学校の教職を辞す。九月二十五日、郷里馬籠の旧宅大火のために大半焼失。 ・明治二十九年(1896年)、二十四歳。二月五日、明治女学校炎上。八月末、秀雄一家の留守宅を本郷区森川町一に移す。九月、東北学院の作文教師として単身仙台に赴任。月給二十五円。十月二十五日、母縫(ぬい)、コレラのため死去。急ぎ上京、母の遺骨を携えて帰郷し、永昌寺の墓地に葬って仙台に帰る。田山花袋、柳田国男らを知った。 ・明治三十年(1897年)、二十五歳。八月二十九日、第一詩集『若菜集』を春陽堂より刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。七月、一年で東北学院を辞職して帰京。九月、東京音楽学校選科開設とともに、そのピアノ科に入る。助教授橘糸重を知ったことによる。秋ごろ、本郷区湯島新花町九十三に秀雄の一家とともに転居。兄秀雄はこの年出獄。 ・明治三十一年(1898年)、二十六歳。六月、第二詩文集『一葉舟』を春陽堂より刊行。十二月、第三詩集『夏草』を春陽堂より刊行。浪漫的な詩集を続刊。 ・明治三十二年(1899年)、二十七歳。四月、木村熊二の小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任。(木村は共立学校時代に英語の教師であった人。藤村は牧師木村熊二より基督教の洗礼を受けた)。函館出身の秦冬 (冬子)と結婚。小諸町馬場裏に新居を構えた。翌年五月、長女みどり誕生。 ・明治三十四年(1901年)、二十九歳。第四詩文集『落梅集』を春陽堂より刊行。「千曲川旅情の歌」(弘田龍太郎作曲)、「椰子の實」(大中寅二作曲)などは一世紀を越えた今も歌いつがれている。詩界の第一人者として土井晩翠とともに天下の人気を二分した。詩人として出発した藤村は、徐々に散文に移行していく。年末、柳田国男、小諸に来訪。明治三十五年三月、次女孝子出生。明治三十七年四月、三女縫子出生。 ・明治三十八年(1905年)、三十三歳。四月二十九日、小諸義塾を辞して上京、東京府下西大久保四百五番地に一家を構えた。五月、柳田国男の牛込区市谷加賀町の土曜会に出席。三女縫子死去。十月、長男楠雄出生。 ・明治三十九年(1906年)、三十四歳。三月、『破戒』を自費出版。筆一本の小説家に転身した。四月七日、次女孝子死去。六月十二日、長女みどり死去。六月二十五日、妻の祖母ミツ子、函館において死去。十月二日、浅草区新片町一番地に移転。明治四十年(1907年)九月、次男鶏二出生。 ・明治四十一年(1908年)、三十六歳。十月、透谷らとの交遊を題材にした『春』を自費出版。十二月、三男蓊助出生。 ・明治四十三年(1910年)、三十八歳。一月一日から五月四日にかけて、二大旧家の没落を描いた『家』(読売新聞)連載。日本の自然主義文学を代表する作家となる。八月、四女柳子出生。四人(男三人、女一人)の幼い子供を残し妻冬(冬子)死去。享年三十三歳。 ・大正二年(1913年)に渡仏、四十一歳。大正五年までパリを中心に外遊。第一次世界大戦に遭遇し帰国。九月、早稲田大学講師となり、「フロオベル以後」を講じた。 ・大正六年(1917年)、四十五歳。一月、早稲田大学で近代フランス文学、慶應義塾大学講師としてフランス文学を講じた。四月、童話集『幼きものに』を実業之日本社より刊行。これは、子らにあてた旅の土産話。 続いて小説『桜の実の熟する時』、『新生』、『海へ』などを発表。帰国後は、東京市芝区西大久保桜川町や、麻布区飯倉片町などに転居を繰り返した。 ・大正十年(1921年)、四十九歳。四月より翌年四月まで、『仏蘭西紀行』(新小説)連載。七月、「ある女の生涯」(新潮)発表。文部省国語調査会委員を委嘱された。 ・大正十三年(1924年)、五十二歳。病気のため文部省国語調査会委員の職を辞し、熱海、国府津、千葉館山で保養をする。
・昭和四年より十年九月まで「中央公論」に、父をモデルとして明治維新前後を描いた長編小説『夜明け前』を連載、歴史小説として高い評価を受ける。 ・昭和十年(1935年)、六十三歳。初代日本ペンクラブ会長に就任、翌年日本代表として南米アルゼンチンで開催された国際ペンクラブ大会に出席。アメリカ、欧州をめぐり帰国。 ・昭和十一年夏から十二年はじめに渡る海外旅行の後、一月、麴町区下六番町十七に新居をかまえる。十月十六日、萎縮腎に倒れ、虎ノ門の馬島医師の治療を受けた。帝国芸術院会員に推されたが辞退。 ・昭和十三年(1938年)、六十六歳。春頃、病は快方に向かい暫く静養の後に再起した。 ・昭和十五年(1940年)、六十八歳。帝国芸術院会員。 ・昭和十六年(1941年)、六十九歳。時局の切迫に伴い、六十五歳以上十三歳以下のものは帝都を離れるよう告げられたのと、 思い立つ事もあって、二月二十五日、神奈川県大磯町東小磯八十八の町屋園を借りた。 空襲を知らず、食糧事情が多少悪いくらいで表面的には平穏な日常だったので、夏冬の期間だけ海辺の大磯で暮らすことにした。 東京の書斎はそのまま。東京と湘南を往復する。
(註)三間の平屋建ての民家、藤村の旧宅は(町屋園)と呼ばれた。庭の眺めは藤村の心の慰めで、 この家を「静の草屋」と呼んでいた。 ・昭和十八年(1943年)、七十一歳。『中央公論』一月号誌上に、著作「東方の門」の序の章を発表。八月二十一日朝、大磯の自宅で「東方の門」第三章執筆中に「ひどい頭痛だ」と言い、脳溢血の発作で倒れた。「涼しい風だね」の言葉を最後にそのまま昏睡(こんすい)し、翌八月二十二日早朝七十一歳で逝去。十月、未完の「東方の門」第三章(中央公論)が掲載された。 (註)藤村の旧宅(町屋園)は、藤村亡き後、静子夫人が住んでいたが、終戦間近に箱根に疎開。昭和二十四年から作家の高田保が住み、ここで『ブラリひょうたん』の大部分を書いた。高田は昭和二十七年、藤村邸で亡くなった。その後、静子夫人が昭和四十八年に亡くなるまで住んだ。 <藤村忌> ・大磯町地福寺に埋葬される。毎年藤村の命日である八月二十二日に地福寺住職による回向後、参列者による墓参・献花・献香が行われる(JR大磯駅より徒歩五分)。 藤村の読経・埋葬式は昭和十八年八月二十六日に催された。 ・馬籠の菩提寺・永昌寺には分骨として、遺髪・遺爪が埋葬された。毎年命日の八月二十二日に永昌寺にて、関係者らにより藤村忌が執り行われている。 (註)下欄の地福寺及び藤村の墓等の撮影は2014年4月26日・池田小百合による。 ちょうどこの日は、大磯めぐりの観光グループが来ていました。紺の旗を持ったボランティアガイドが、「これが島崎藤村の墓です。ここが気に入っていて埋葬を希望していた」と説明していました。
・島崎静子墓(左) 明治二十九年十一月八日生レ昭和四十八年四月二十九日没 【藤村記念館】 岐阜県中津川市馬籠(まごめ)4256-1。 「藤村記念館」は、明治・ 大正・昭和の三代にわたって活躍した文学者島崎藤村の出身地、信州木曽谷の南端にある文学館です。 生家は明治二十八年の大火で焼失しましたが、昭和二十二年、地元住民の勤労奉仕により、建築家谷口吉郎博士設計による藤村記念堂が建てられました。 二十五年博物館運営のための財団法人藤村記念郷設立。長野県内の児童、生徒、教員の寄付金を受け展示施設藤村記念文庫が完成。藤村の長男楠雄氏より五千点を超える資料の寄贈を受け、昭和二十七年より文学館として活動を開始し、三十年には「島崎藤村宅跡」として県の史跡指定を受けました。 現在は、藤村記念堂、藤村の祖父母の隠居所、ふるさとの部屋(ビデオコーナー)記念文庫(研究室)、第二文庫(企画展示室)、 第三文庫(常設展示室)の建物からなり、『嵐』『夜明け前』などの作品原稿、遺愛品、周辺資料、 明治大正詩書稀覯本コレクションなど約六千点を所蔵しています。
大中寅二夫人の大中香代さんによると、「藤村記念館ができた昭和二十二、二十三年ですか。≪初恋の歌≫を朝日新聞社から頼まれて作曲した。記念館の開館の時に村の青年団が歌った。<東京からはスモールオーケストラを引き連れて行った。歌手は内田るり子さん> そのころの青年団の方からあの時の≪初恋の歌≫の譜がないかと時々問い合わせがある」。この楽譜は現在不明。(鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)による)。 (註)大中香代さんの証言にある内田るり子は、声楽家(アルト)。大正九年(1920年)八月八日生まれ、平成四年(1992年)五月一日逝去。享年71歳。昭和十七年、東京音楽学校本科(現・東京芸術大学)声楽科卒。木下保の教え子。民俗音楽学者、文学博士、国立音楽大学名誉教授。 【島崎藤村・作品】
▲「初恋」は藤村の代表作品で、詩集『若菜集』(明治三十年八月二十九日、春陽堂刊)に所載されています。 『藤村詩抄』(岩波文庫)より。
▲「千曲川旅情の歌」も藤村の代表作品で、詩集『落梅集』(明治三十四年八月二十五日、春陽堂刊)に所載されています。 『藤村詩抄』(岩波文庫)より。 【大中寅二の略歴】 ・明治二十九年六月二十九日、東京生まれ。 ・大正九年、同志社大学法学部経済科卒業。山田耕筰に作曲を師事。日本語のアクセントに忠実に作曲することを心がけていました。 ・昭和十四年、教会音楽家を目指してドイツに約二年間留学。 ・クリスチャンで、霊南坂教会のオルガニストを終生務めました。教会に近い東洋英和女学院短大で教授として教鞭を執り、金曜日には聖歌隊を指導し、日曜日には本番という多忙な日々でした。教会でオルガンを弾いている時に発作を起こして倒れ、以後、亡くなるまでの数年間を病床で過ごしました。 ・昭和五十七年(1982年)四月十九日、東京都港区虎ノ門の自宅で亡くなりました。八十六歳でした。この時、NHKは「椰子の実」を流しました。 作品には二十数曲のカンタータ、千曲以上のオルガン曲、合唱曲があります。その他、キリスト教系の幼稚園で歌う子供の歌を多数作曲しました。
【長男は大中恩】 長男(一人息子)は童謡『さっちゃん』や『いぬのおまわりさん』で有名な作曲家の大中恩(めぐみ)です。大中恩によると、「わたしが音楽の道に進もうと決意しましたら、音楽の勉強はおれがみてやる、だが音大に入るまでだぞといって特訓を受けました」が、「こんなことが解らんのか、といった叱られ方は一度も経験していません。音大に入学したとたん、何も教えてくれなくなったんですね」(鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)による)。 【島崎藤村と大中寅二の出会いは無い】 寅二は、藤村に会っていません。大中寅二夫人の大中香代さんによると、「自分から言えば、雲の上の人だったって言ってました」、「会おうと思えば会える年代だったらしいんですけど、全然会った事はないと言ってました」(鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)による)。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪池田小百合≫ ![]() |
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さわやかで明るく弾んだこの歌は、童謡や唱歌ではありませんが、春のテーマソングとして愛唱され続けています。 【國民歌謠】 「春の唄」(喜志邦三作詞、内田元作曲)は、昭和十二年(1937年)三月一日から、大阪(JOBK)で放送された『國民歌謠』です。歌手は月村光子。 タイトルは「春の唄」として広まりましたが、鮎川哲也・著『唱歌のふるさと 花』(音楽之友社)には「正しくは<春の歌>である、と作曲者の遺族の方から指摘された」とあります。 (『國民歌謠』参照) 「牡蠣の殻」「春の唄」は、『國民歌謠』第十三輯(日本放送出版協會)ラヂオ・テキストに収録されています。楽譜と歌詞の他に数字譜が掲載されています。『國民歌謠』の楽譜には必ず数字譜が付されていました。 【レコード】 レコードは、月村光子の歌「春の歌」でポリドール2471B、昭和十二年七月発売、千葉静子(川崎静子)の歌「春の唄」でテイチクX5029、昭和十三年発売。
【喜志邦三の略歴】 作詞をした喜志邦三は、明治三十一年(1898年)三月一日生まれ。大阪府堺市出身。大正八年、早稲田大学大学部英文学科を卒業、大阪時事新報の記者を経て、神戸女学院大学教授。「赤とんぼ」の作詞者・三木露風に師事する象徴派の詩人で、大学では「詩学」「文学概論」「ヨーロッパ文学」等を講義、詩集も出版しています。『伊豆の踊子』をモチーフにした三浦洸一の昭和三十二年(1957年)のヒット曲「踊子」も作詞。 「嫁ぐ日近く」(宮原康郎作曲)、「村の少女」(富永三郎作曲)ほか。1961年からは日本ビクター専属で多くの作詞を行いました。 「春の唄」を作った頃、阪急神戸線の西宮北口駅近くに住んでいました。西宮北口駅の北側には、「北口市場」と呼ばれる市場がありました。「春の唄」の二番は結婚してまもない邦三の妻・愛子が市場に買い物に行く姿を歌ったものだそうです。詞の完成は昭和十一年十二月五日。 昭和五十八年に八十五歳で永眠しました。 ●鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』(音楽之友社)の「東京の築地で生まれ。」は間違い。大阪府堺市出身が正しい。 【邦三について家族は】 喜志邦三の次男・房雄氏は、次のように語っています。 「“詩を書いている時は、頭が混乱する”と父はよく言っていました。家の中では、メモ用紙と鉛筆を肌身離さず、寝床にまで持ち込んでいました。作詞の場合は、思いついた詞を声に出し、音譜を付けて歌っていました。私たち兄弟姉妹にも、それぞれの部屋に大きな国語辞典と漢和辞典をそろえてくれました。食卓の脇にも辞書がならんでおり、夕食の折にも辞書を引きながら、家族で団欒(だんらん)したものです」。 【内田元の略歴】 作曲者の内田元は明治三十六年(1903年)、東京の築地で生まれました。東京音楽学校を卒業。クローン・ケニヒに師事。東京シンフォニーを主宰し、大阪中央放送管絃楽団の指揮者を務めた。喜志とは家が近く、昭和十年頃から一緒に曲を作っています。 「春の唄」の詞の完成は、喜志の記録では昭和十一年十二月五日。冒頭の「ラララ」は内田が「明るい曲にしたいから」と付け加えたものです。 歌いだしの部分は、軽快なシンコペーションの前奏に続いて、「ラララ」を急に弱く歌い始めて、「rall.=ラレンタンド だんだんゆっくりに」しながら上行音で強め、下行音で弱める。「あかい」で「a tempo=ア テンポもとの速さにする」という指示があります。内田の工夫がうかがえる部分です。 『新歌謠曲』の「夜明けの唄」(大木惇夫作詞。霧は晴れるよ夜があける)の作曲も内田です。(『新歌謠曲』参照) 「夜明けの唄」は、昭和十一年四月二十九日の『新歌謠曲』で奥田良三が歌った。記念すべき第一回、第一部の一曲目。好評だったようです。 その後、『國民歌謠』「日の出島」「春の唄」「奥の細道」「護れわが空」「航空決死兵」「日章旗を仰いで」などを作曲しています。 昭和二十二年に四十四歳で急逝しました。 ●鮎川哲也著『唱歌のふるさと 花』(音楽之友社)の「千葉県に誕生」は間違いで、「東京の築地生まれ」が正しい。 ●金田一春彦 安西愛子編『日本の唱歌〔中〕大正・昭和篇』(講談社文庫)の「夜明けの唄」の解説には“昭和十一年八月八日からJOBKで四家文子により放送されたのが最初”と書いてある。調査の途中で変だとは思ったが、これを信用したので翻弄された。 新聞調査の結果「昭和十一年四月二十九日の『新歌謠曲』で奥田良三が歌ったのが最初」、「昭和十一年八月八日(土曜日)にJOBKで四家文子の歌により放送された」これが正しい。
【歌碑について】 阪神・淡路大震災で、西宮北口駅周辺は大きな被害を受け、北口市場も壊滅してしまいました。 震災から二年後の平成九年、西宮北口駅近くに『春の唄』の歌碑が設置されました。犠牲者への祈り、春への希望、復興の碑として、地元の有志の人々が建てました。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪池田小百合≫ ![]() |
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【『新歌謠曲』『國民歌謠』『われらのうた』『國民合唱』の歴史】 『新歌謠曲』 昭和十一年(1936年)四月二十九日(水曜日)から日本放送協会大阪中央放送局(JOBK)で『新歌謠曲』の放送が始まった。退廃的な歌の全盛に眉をひそめ、明るく健康的でホーム・ソング的なものを望む声が起こり、大阪(JOBK)の奥屋熊郎(おくやくまお・1894-1964)文藝課長の発案で『新歌謠曲』が誕生した。健康で明朗で誰にも歌いやすい歌謠曲を広く家庭に送ることを念願とするBK文藝課選奨曲を毎月発表する事にした。四月と五月の二回に亙って十三曲を發表した。 〔第一回発表〕昭和十一年四月二十九日(水)午後二時十五分から二時五十分、BK文藝課選奨新歌謠曲(大阪桃谷中継)、新作八曲を奥田良三と關種子が獨唱。新聞には歌詞が掲載された。大阪ラヂオ・オーケストラ ピアノ伴奏 武澤武 <第一部 奥田良三> イ「夜明けの唄」(大木惇夫作詞、内田元作曲) ロ「防人のうた」(富田碎花作詞、弘田龍太郎作曲) <第二部 關種子> イ「早春の物語」(深尾須磨子作詞、宮原禎次作曲) ロ「乙女の唄」(今中楓溪作詞、水谷ひろし作曲) ハ「心のふるさと」(大木惇夫作詞、江口夜詩作曲) ニ「野薔薇の歌」(佐藤惣之助作詞、弘田龍太郎作曲) <第三部 奥田良三> イ「希望の船」(佐藤惣之助作詞、服部良一作曲) ロ「旅へ旅へ」(深尾須磨子作詞、宮原禎次作曲) ハ「日本よい國」(今中楓溪作詞、服部良一作曲) 時間の都合で割愛。 ※放送予定(新聞発表は九曲、放送されたのは八曲) 〔第二回発表〕昭和十一年五月十七日(日曜日)午後八時十五分から八時三十五分、BK文芸課選奨新歌謠曲(大阪から中継)、新作五曲を内本實(コロムビア)と四家文子(ビクター)の独唱で発表。(伴奏)大阪ラヂオオーケストラ。新聞には歌詞が掲載された。 <第一部 内本實> イ「祖國の愛」(長田幹彦作詞、江口夜詩作曲) ロ「ヨットの歌」(川路柳虹作詞、竹内平吉作曲) ハ「日本よい國」(今中楓溪作詞、服部良一作曲)「♪日本よい國み神の國よ、」 割愛された <第二部 四家文子> イ「若き妻」(長田幹彦作詞、松本四良作曲) ロ「娘田草船」(福田正夫作詞、大村能章作曲) <第三部 内本實 四家文子> 「若葉のハイキング」(川路柳虹作詞、松本四良作曲)。 ※放送予定(新聞発表は六曲、放送されたのは五曲) 昭和十一年五月十七日の読売新聞の解説には次のように書いてある。 “この新歌謠曲運動の實効をあげるためBKでは代表的作品は一定期間中晝間演藝時間の一部を割いて毎日放送して大衆化を圖る計畫を持つてゐる”。これが次の『國民歌謠』につながって行く。 『國民歌謠』 昭和十一年六月一日(月曜日)から日本放送協会大阪中央放送局(JOBK)の『新歌謠曲』を引き継ぎ、定時番組として始まった。同一の歌を、月曜日から土曜日までの六日間、午後〇時三十五分から五分間放送した(二曲の場合は〇時三十分から十分間)。 第一週の第一回『國民歌謠』(第一日)は大阪(JOBK)桃谷演奏所より中継。「日本よい國」(今中楓溪作詞、服部良一作曲)を奥田良三の歌で放送した。(伴奏)大阪ラヂオ・オーケストラ。新聞には歌詞が掲載された。(六月一日から六日)。翌週は別番組「詩吟」(八日から十三日)。 「日本よい國」は、『新歌謡曲』では四月も五月も時間切れで放送できなかった。昭和十一年六月一日、読売新聞の第一回「国民歌謡」の曲の説明に「最初に推奨する歌曲は前二回とも時間の都合上放送出来なかった「日本よい國」である。」とある。 第二回は日本放送協会東京中央放送局(JOAK)から、「朝」(島崎藤村作詞、小田進吾作曲)がキングの永田絃次郎の歌で放送された(六月十五日から二十日)。 六月二十二日からは(大阪より)関種子の歌で「心のふるさと」が放送された。 このように大阪と東京で、ほぼ一週間交替で放送した(昭和十一年七月十三日から東京(JOAK)、次週も東京(JOAK)という場合もあった)。 以後、「朝」は、六月二十九日(月)から東京(JOAK)で男声合唱オリオン・コールが歌い、八月三日(月)から靑山薫が歌い、十一月九日(月)から日置静が歌い、十一月二十三日(月)に奥田良三、十二月二十九日(火)に外山國彦が歌った。 「朝」は『國民歌謠』の最初のヒット曲になった。作曲者の小田進吾が島崎藤村の詩集『落梅集』から詩を選び作曲したもの。レコード(キング10043)は、永田絃次郎の歌で、昭和十二年二月に発売された。 「椰子の實」(島崎藤村作詞、大中寅二作曲)は、東京(JOAK)から、東海林太郎(しょうじたろう)の歌で放送されると、たちまち人気の曲となりました。昭和十一年七月十三日(月曜日・第一日)から七月十七日(金曜日・第五日)までは東海林太郎が歌い、十八日(土曜日・第六日)は山田道夫が歌った。 そのあと、「椰子の實」は、八月三日(月)から二葉あき子※、十一月九日(月)から多田不二子が一週間ずつ歌い、十一月二十三日に関種子、十二月二十九日に柴田秀子が歌った。 レコード(ポリドール2363)は、東海林太郎の歌で昭和十一年十一月に吹き込み、十二月発売された。 「朝」「椰子の實」は、『國民歌謠』第三集(日本放送協会)昭和十一年十一月五日、ラヂオ・テキストとして出版された。 <歌手・二葉あき子※逝く>本名・加藤芳江(かとうよしえ) ・平成二十三年(2011年)八月十六日、心不全のため広島市内で死去。九十六歳。 ・東京音楽学校(現・東京芸術大学)卒業後、1936年に歌手デビュー。戦後、「フランチェスカの鐘」「水色のワルツ」「夜のプラットホーム」などがヒット。淡谷のり子や笠置シヅ子らと人気を競った。生涯の吹き込み曲は約七百曲に上った。 ・広島市出身。1945年、広島に原爆が投下された時、乗っていた列車がトンネルに入り直撃を免れた体験から「フランチェスカの鐘」などの曲を戦没者への鎮魂歌として歌っていた。九十歳近くまで現役歌手としてリサイタル活動を続けていた(2011年8月17日・読売新聞による)。 〔新聞調査〕 2014年2月13日、厚木市中央図書館に「椰子の實」の放送の調査に行った。厚木市中央図書館には、昭和十一年版は「東京朝日新聞縮刷版1936年7月」だけでした。他社の新聞もありません。これでは勉強になりません。 CD『ラジオの時代1』の解説に“「野薔薇の歌」は『新歌謠曲』の第一回作品の一つで”と書いてあるので、他の曲も調べてみる事にしました。2014年2月25日、28日、神奈川県立図書館に調査に行きました。県立図書館には大阪朝日新聞はありませんでした。東京朝日新聞は、昭和十一年版は一年間そろっていました。読売新聞はデジタル化されヨミダス歴史館としてパソコンで見る事ができました。真鶴町立図書館、小田原市立図書館、厚木市立中央図書館では見る事ができません。 〔調査結果〕 ・昭和十一年(1936年)七月十三日(月曜日)東京朝日新聞朝刊。ラヂオけふの番組、東京(JOAK)午後〇・三五 國民歌謠(第一日)「椰子の實」東海林太郎。放送時間は五分間。〇・四〇からはニュースが放送されている。 ・ラヂオけふの番組 東京(JOAK)の下には解説が掲載されている。解説は次のようです。 「“椰子の實”(後0・35)異郷の哀愁を唱ふ東海林さんの國民歌謠 けふの國民歌謠は東海林太郎さんがAKラヂオ・アンサムブルの伴奏につれて歌ふ「椰子の實」である。なほ作詞者は島崎藤村氏、大中寅二氏作曲によるものである」。 続いて歌詞が紹介されている。この歌詞を見ながら東海林太郎の歌を聴き、一緒に歌ったのでしょう。六日間毎日放送されたので、大人も子どもも家族みんなで歌ったということになります。 (註)読売新聞 昭和十一年七月十三日には楽譜が掲載されている。この時代は、楽譜を読める人は少なかったが掲載した。放送局の『國民歌謠』にかける意気込みが伝わってきます。 ・「椰子の實」の放送は七月十三日の月曜日(第一日)から七月十八日の土曜日(第六日)までで、歌手は東海林太郎。しかし最後の十八日の土曜日は山田道夫と書いてある。当時は生放送だったので土曜日は東海林太郎が歌えず、急きょ山田道夫が歌ったのでしょう。山田は、昭和八年春に封切られた映画『巴里祭』より「巴里祭の歌」のレコードを吹き込んでいる。 ・七月二十日(月)から二十二日(土)までは、東京(JOAK)午後〇・三五 國民歌謠(第一日)昭和日本國民歌「光は東方より」(土井晩翠作詞、陸軍戸山學校軍樂隊作曲)が斉唱・東京リーダーターフエルフエラインの歌で放送された。この曲についても解説と六番までの歌詞が掲載されている。國民の注目を引くために國民歌謠(第一日)の放送日には、曲の解説と歌詞が掲載された。 〔七月「國民歌謠」放送まとめ〕 ・七月六日(月)から(大阪桃谷より)「娘田草船」を阿部秀子が歌った。 ・七月十三日(月)から東京(JOAK)「椰子の實」。 ・七月二十日(月)から東京(JOAK)二十二日(水)「光は東方より」。七月二十三日(木)から二十五日(土)は國民歌謠 軍歌「愛國機」東京リーダーターフエルフエラインの歌で放送された。 ・七月二十七日(月)と三十日(木)國民歌謠(大阪桃谷より)朝日新聞社懸賞當選國際オリムピック派遣選手應援歌「走れ大地を」(齋藤龍作詞、山田耕筰作曲)、(獨唱)川崎豐、(斉唱)大阪音樂學校生徒。二十八日(火)と三十一日(金)國民歌謠(大阪桃谷より)「あげよ日の丸」(山本槐二作詞、山田耕筰作曲)、(獨唱)川崎豐、 (斉唱)大阪音樂學校生徒、(伴奏)大阪ラヂオオーケストラ。二十九日(水)と八月一日(土)國民歌謠(大阪桃谷より) オリムピック應援歌「起てよ若人」(末弘嚴太郎作詞、中山晋平作曲)、(獨唱)川崎豐、(斉唱)大阪音樂學校生徒。 (註) 昭和十一年はベルリン・オリンピックの年で、七月二十七日から八月一日はオリンピック応援歌が放送された。「走れ大地を」は朝日新聞社懸賞当選(昭和七年ロスアンジェルス大会のために、東京・大阪の朝日新聞社が詩を公募して作られたもの。当選者の齋藤龍は当時十七歳)、「あげよ日の丸」は大毎・東日懸賞募集入選(昭和十一年)、 「起てよ若人」は読売新聞社編(昭和十一年)。いずれも「国民歌謡」として作られたものではない。 三曲を順に二回放送した。 〔八月以降〕 ・八月三日(月)から七日(金)は(一)「朝」靑山薫、(二)「椰子の實」二葉あき子の二曲なので、午後〇・三〇から〇・四〇まで十分間放送された。(伴奏)AKラヂオアンサンブル。 ・八月八日(土)は日本放送協會満十周年記念番組(午後の部)二元放送 ▼〇・〇五 國民歌謠(東京より)伴奏AKラヂオアンサンブル (一)朝 (獨唱)靑山薫、(合唱)オリオンコール (二)椰子の實 (獨唱)二葉あき子 (三)昭和日本國民歌「光は東方より」(斉唱)東京リーダーターフエルフエライン ▼〇・二〇 國民歌謠(大阪桃谷演奏所より)〇・四〇まで (獨唱)四家文子、(斉唱)大阪放送合唱團、(伴奏)大阪ラヂオオーケストラ (一)日本よい國(今中楓溪作詞、服部良一作曲) (二)夜明けの唄(大木惇夫作詞、内田元作曲) (三)朝顔の歌(佐藤惣之助作詞、古関裕而作曲) (四)心のふるさと (五)娘田草船 ・十一月九日(月)は(一)「朝」獨唱 日置靜、(二)「椰子の實」獨唱多田不二子の二曲なので、午後〇・三〇から十分間放送された。(伴奏)AKラヂオアンサンブル。 ・十一月二十三日(月曜日 午後七時三十分から七時五十五分)の特別番組『國民歌謠おさらひ』で關種子が「椰子の實」を歌った(大阪より)。 一、奥田良三 (イ)「日本よい國」、(ロ)「朝」、(ハ)「夜明けの唄」。 二、關種子 (イ)「椰子の實」、(ロ)「嫁ぐ日ちかく」(喜志邦三作詞、宮原康郎作曲)、(ハ)「希望の乙女」(大木惇夫作詞、須藤五郎作曲)、(ニ)「心の子守唄」(稻野靜哉作詞、宮原禎次郎作曲)。 ・十二月七日(月曜日・午後〇・三〇~〇・四〇)からは「落葉松」「我家の唄」阿部英雄 外。十四日(月)からは(大阪より)「乙女の唄」永井八重子、「日本よい國」大阪放送合唱團。二十一日(月)「願ひ」外。 ・十二月二十九日(火曜日 午後二時)の『國民歌謠』年末特別番組で柴田秀子が「椰子の實」を歌った(伴奏)AKアンサンブル。 一、「光は東方より」(外山國彦)。二、「我が家の唄」(西條八十作詞、山田耕筰作曲)(柴田秀子)。三、「朝」(外山國彦)。四、「椰子の實」(柴田秀子)。五、「落葉松」(北原白秋作詞、長村金二作曲)(柴田秀子)。六、「野行き山行き」(九條武子作詞、瀬戸口藤吉作曲)(外山國彦)。七、「願ひ」(山澤睦子作詞、大和田愛羅作曲) (柴田秀子)。八、「日本よい國」(中央教化團體聯合會・作詞作曲)「♪日本よい國東の空に、」(外山國彦)。 ●阪田寛夫著『どれみそら』(河出書房新社)の43ページに“『國民歌謠』で「椰子の實」が、発表された。最初は大阪中央放送局で昭和十一年七月十三日から一週間、東海林太郎の歌で放送された。そのあと、八月三日から二葉あき子が、十一月九日から多田不二子が、十二月九日から柴田秀子がというふうに放送された”と書いてある。 “最初は大阪中央放送局で”は間違い。→「最初は日本放送協會東京中央放送局(JOAK)で」が正しい。 “昭和十一年七月十三日から一週間”は間違い。→「昭和十一年七月十三日から五日間」が正しい。 “十二月九日から柴田秀子が”は間違い。この書き方だと柴田秀子も、『國民歌謠』で六日間歌った事になってしまう(昭和十一年十二月九日は水曜日)。→「昭和十一年十二月二十九日(火曜日 午後二時)の『國民歌謠』年末特別番組で柴田秀子が「椰子の實」を歌った」が正しい。 ●金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌[中]大正・昭和篇』(講談社文庫、昭和54年7月発行)にも“十二月九日から柴田秀子により放送された”と書いてある。阪田寛夫は、これを写したようです。間違いが増えてしまいました。 「春の唄」(喜志邦三作詞、内田元作曲)は、昭和十二年三月一日から大阪(JOBK)で放送された。歌手は月村光子。 「牡蠣の殻」「春の唄」は、『國民歌謠』第十三輯(日本放送出版協會)昭和十二年三月のラヂオ・テキストとして出版された。『國民歌謠』の楽譜には必ず数字譜が付されていた。 レコードは、月村光子の歌「春の歌」でポリドール2471B、昭和十二年七月発売。千葉静子(川崎静子)の歌「春の唄}でテイチクX5029、昭和十三年発売。 昭和十二年、日中戦争に突入。昭和十二年九月に内閣情報部が発足すると、時局に迎合する歌が増加、「海行かば」「愛国行進曲」など『國民歌謠』も、しだいに戦時色を増した。東京(JOAK)、大阪(JOBK)制作以外に国策的に内閣情報部選定の曲も多く放送されるようになった。 ・「愛馬進軍歌」、放送は昭和十四年一月二十三日から帝都男聲合唱團。 昭和十四年一月二十三日(月)夜七時三十分から七時四十分放送。 『國民歌謠』「愛馬進軍歌」(陸軍省撰定) (指揮)内田榮一(合唱)帝都男聲合唱團(伴奏)東京放送管弦樂團。 二十四日(火)、二十五日(水)同じ放送。 ・「ヒユツテの夜」は、昭和十四年一月三十日(月)夜七時三十分から七時四十分放送。(深田久彌作詞 高木東六作曲編曲) (指導)木下保 (合唱)靑山學院グリー・クラブ(伴奏)東京放送管弦樂團 (指揮)久岡幸一郎。 「愛馬進軍歌」「ヒユツテの夜」は、『國民歌謠』第四十輯(日本放送出版協会)ラヂオ・テキストとして出版された。 ・「隣組」は、昭和十五年六月十九日(水)夜七時三十分から七時四十分、全国放送JOAK。(岡本一平作詞、飯田信夫作曲)、(獨唱)徳山璉、(合唱)日本放送合唱團、(伴奏)東京放送室内樂團。 二十日(木)七時二十分から七時四十分、都市放送。 二十一日(金)と二十二日(土)は、夜七時三十分から七時四十分、全国放送JOAK。 (註)國民歌謠は、全国放送JOAKからと、都市放送から放送される時があった。 ・「歩くうた」は、昭和十六年一月二十日(月)夜七時二十分から七時四十分、都市放送で放送。(高村光太郎作詞、飯田信夫作曲)、(獨唱)徳山璉、(合唱)日本放送合唱團、(伴奏)東京放送管絃樂團。 二十一日(火)からは夜七時三十分から七時四十分、全国放送JOAKで放送、二十二日(水)、二十三日(木)、二十四日(金)、二十五日(土)同じ放送。 ・「めんこい小馬」は、昭和十六年一月二十七日(月)夜七時三十分から七時四十分放送。(陸軍情報部撰定、サトウ・ハチロー作詞、仁木多喜雄作曲、片山頴太郎編曲) (獨唱)松原操 (合唱)日本放送合唱團 (伴奏)東京放送管絃樂團。 二十八日(火)、二十九日(水)、三十日(木)、三十一日(金)同じ放送。 昭和十六年二月一日(土)は、都市放送、夜七時二十分から七時四十分、國民歌謠「めんこい小馬」が放送された。 「青年歌」「めんこい小馬」は、『國民歌謠』第七十七輯(日本放送出版協会)ラヂオ・テキストとして出版された。昭和十六年一月二十五日発行。 「めんこい小馬」のタイトルで『國民歌謠選集NO13』昭和16年発行に収録。 ・「歩くうた」は、昭和十六年二月三日(月)夜七時三十分から七時四十分放送。 (高村光太郎作詞、飯田信夫作曲)、(獨唱)柳兼子、(合唱)日本放送合唱團、(伴奏)東京放送管絃樂團。 四日(火) 五日(水) 六日(木) 七日(金)同じ放送。 ・昭和十六年二月八日(土)夜七時三十分から七時四十分、式日唱歌「紀元節」。 十日(月)同じ放送。 ・二月十一日(火)夜七時二十分から夜七時三十分、音楽(一)新体制家庭音頭「大和一家の歌」(二)大和一家数へ歌。十一日のラヂオ番組表には、「放送番組改正」が出ている。 「明日の豫告(十二日)」【全國】△七・五〇 われらのうた△八・〇〇 歌謠曲 霧島昇 外。 『國民歌謠』は、昭和十六年二月十二日(水)から『われらのうた』になり、不定期に放送されるようになった。 ・昭和十六年二月十二日(水)夜七時五十分から八時『われらのうた』 一、朝 二、椰子の實 三、春の唄(獨唱)奥田良三(伴奏)東京放送管絃樂團 ・十三日(木)軍事番組 ・十四日(金)夜七時三十分から七時四十分『われらのうた』 一、すめら御國 二、埴生の宿 三、故郷の廢家(獨唱)小森智慧子(伴奏)東京放送管絃樂團。 ・十五日(土)『われらのうた』 一、利鎌の光 二、娘田草船 三、愛馬進軍歌 (獨唱)日置靜、(伴奏)東京放送管絃樂團。 【「朝だ元氣で」は『われらのうた』で放送されていた】 「朝だ元氣で」は、『われらのうた』で昭和十六年(1941年)十月二十五日に放送された。 <ラジオ番組表の調査> 朝日新聞縮刷版(東京)のラヂオ番組表、昭和十六年(1941年)十月二十五日を調査しました。この日は土曜日で、“夜七・三〇~七・四〇『われらのうた』「朝だ元氣で」外 日本放送合唱團”と書いてあります。『國民合唱』より先に『われらのうた』で放送されていた。二十三日、二十四日も調査しました。 ・昭和十六年十月二十三日(木)『われらのうた』(大阪)夜七・三〇から七・四〇「靖國神社の歌」水野康孝 ・昭和十六年十月二十四日(金)『われらのうた』夜七・三〇から七・四〇 一、「めんこい小馬」 二、「愛馬進軍歌」(合唱)日本放送合唱團 昭和十七年(1942年)二月八日から『われらのうた』が、戦争に勝ち抜く、士気高揚を目的とした『國民合唱』となりました。放送された歌は時代を反映してほとんど軍歌調の歌ばかりでした。 〔ラジオ番組表〕 昭和十七年二月八日(日曜日)、夜八・〇〇 「起てり東亞」△國民合唱。 九・〇〇 ニュース。 <國民合唱「此の一戰」を調査する> ・昭和十七年二月十日(火)夜七・三〇から △國民合唱「此の一戰」(指導)内田榮一(合唱)日本放送合唱團(ピアノ伴奏)萬澤恆。夜八・〇〇軍事発表。 ・2月12日(木)・2月14日(土)・2月17日(火)・2月21日(土)・2月23日(月) 『國民合唱』「此の一戰」は、昭和一七年二月十日(火)から二月二十三日(日)までに六回放送された。 昭和十七年二月二十三日(月)は、夜九時から△國民合唱「此の一戰」外 東京交響樂團。夜一〇・〇〇今日の戦況ニュース。時間が変更されている。 <國民合唱「朝だ元氣で」を調査する> ・昭和十七年二月二十四日(火)夜七・三〇から △國民合唱「朝だ元氣で」(指導)内田榮一(合唱)日本放送合唱團(ピアノ伴奏)萬澤恆。夜八・〇〇軍事発表。 ・2月26日(木)・2月28日(土)・3月3日(火)・3月5日(木)・3月7日(土) 『國民合唱』「朝だ元氣で」は、二月二十四日(火)から三月七日(土)までに六回放送された。 「朝だ元氣で」は、『國民合唱/一』昭和十七年発行に収録してあります。 【その後】 『國民歌謠』は延べ205曲、『われらのうた』は37曲、『國民合唱』は91曲、計333曲電波に乗っています。 (延べというのは同じ曲で再度登場したものがあるため) 『國民合唱』は、玉音放送のあった昭和二十年八月十五日の前日まで放送され、終戦と共に番組がなくなりました。 【後記】 朝日新聞縮刷版(東京)のラヂオ番組表の調査は厚木市立中央図書館で、2010年8月12日、8月21日、2014年2月13日、3月2日、3月7日ほか。 ≪著者・池田小百合≫
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【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪池田小百合≫ ![]() |
【疑問】 「ひとりのこらず おきよ 朝だ」の「おきよ」の部分だけが歌いにくい。なぜでしょうか? 【『われらのうた』や『國民合唱』で放送】 放送については(『われらのうた』 『國民合唱』を参照) 【初出の歌詞】 「一 朝だ朝だよ 朝陽がのぼる/燃ゆる大空 陽がのぼる・・・あなたもわたしも 君等も僕も/ひとり残らず そら起て朝だ」三番まである。
「ソラタテアサ」のリズムは「タッカタタタンタン」で歌いやすい。 【歌詞の改訂】 歌詞に繰り返し出て来る「起(た)て」は、「決起せよ」という意味です。「朝陽」「陽がのぼる」は、「日の丸の旗」。軍部は国民に「日の丸の旗のもと、みんな起て!」と命令していました。「朝だ元氣で」は、戦意高揚の歌でした。ラジオから流れるこの歌を聴いて、みんなが励まされました。 戦後、歌詞が改訂されます。軍国調の歌詞を一変し、子供から大人まで歌える健康的な歌に作り直しました。 日本放送協会・編『NHKみんなのうた』第6集(日本放送出版協会)昭和四十一年発行で見る事ができます。 「一 朝だ 朝だよ 朝日がのぼる/空にまっかな 日がのぼる・・・あなたもわたしも 君らも僕も/ひとりのこらず おきよ 朝だ」三番まである。 昭和四十一年(1966年)八月、子ども向け音楽番組NHK『歌のメリーゴーラウンド』で放送されました。
「おきよあさ」のリズムは、「ソラタテアサ」のリズムと同じ「タッカタタタンタン」のままになっている。音符の下には「おおきよあさ」と歌うように書いてある。これは不自然。 【リズムの改訂】 初出の歌詞「ひとり残らず そら起て朝だ」は、「ひとり残らず おきよ朝だ」に変わりました。これにともない「そらたて」(四文字)のリズムは(タッカタタ)から、 「おきよ」(三文字)の(タタンタ)のシンコペーションのリズムになりました。「おきーよ」と歌います。
「あなた も」「わたし も」が(タタンタ ターアー)のリズムなので、 「おきよ」を(タタンタ)と歌うのは自然で、難しくありません。 しかし、初出の楽譜に改訂された歌詞をあてはめた楽譜が出版され続けているので、歌いにくいのです。この歴史を認識していない指導者が多い。 【教科書での扱い】 『中学生の音楽1』(教育芸術社)には「朝だ元気で」が二番まで掲載されている。 「ここは、どのように生徒に歌わせたのですか」と元音楽専科の先生に訊ねると、「さあ、わかりません」との事でした。このリズムを正確に歌うのは難しい。
著作者・市川都志春、畑中良輔ほか。 【八十島稔(やそしまみのる)の略歴】 ・明治三十九年(1906年)九月二十三日、福岡県嘉穂(かほ)郡千手村(現・嘉麻市)生まれ。本名は加藤英弥(ひでみ)。詩人、俳人。村長も務めた父一弥は梅里の俳号を持ち、祖父も俳人だった。 ・昭和二年(1927年)二月、第一詩集『紅い羅針盤』(ミスマル社)を刊行。以後、詩誌『愛誦』『文芸汎論』などに寄稿した。 ・昭和十年(1935年)には北園克衛を中心とする前衛詩誌『VOU(バウ)』に参加。翌年から詩人による俳句雑誌『風流陣』を編集した。(終刊の1944年まで)。 ・この間、『海の花嫁』(1930年五月、誠志堂書店)、『鴬』(1942年十月、青園荘)の詩集を上梓。 1969年から1982年、詩句随筆集『花の曼陀羅』(青芝俳句会、全九巻)を発行。「青芝」八十島稔追悼号(1983年四月)がある。 ・昭和五十八年(1983年)一月二十日に亡くなりました。(『現代詩大辞典』による)。 【飯田信夫の略歴】 ・明治三十六年(1903年)五月二十五日、大阪府大阪市生まれ。 ・大正十三年(1924年)松本高等学校理科卒業、東京帝国大学入学。 ・昭和五年(1930年)東京帝国大学工学部鉱山学科卒業。山田耕筰に師事して作曲と指揮を学んだ。別名・加藤しのぶ、千家徹、相馬三郎、高木静夫。 ・昭和八年(1933年)頃には、ビクター専属時代の藤山一郎のバンドでベースを演奏。 ・昭和十一年(1936年)、「祝祭典序曲」がNHK管弦楽鑑賞募集に入選、師である山田耕筰の指揮により放送初演される。 ・一方、ラジオ、レコード、映画音楽の作曲家として活躍。映画では、富岡敦雄監督「百万人の合唱」、亀井文夫監督「上海」、 成瀬巳喜男監督「鶴八鶴次郎」、伏水修監督「船出は楽し」、マキノ雅弘監督「阿波の踊子」などに携わり、主に東宝で活躍。 ・漫画家・岡本一平が書いた“とんとんとんからりっと隣組”の歌詞で知られる国民歌謡「隣組」(歌・徳山璉・たまき)を作曲。 (註)歌唱指導をした徳山璉は昭和十七年、三十八歳で急死した。 岡本一平は北海道出身。明治四十二年、東京美術学校を卒業、東京朝日新聞に入社。漫画・漫文を書き、大正の漫画界では中心的人物だった。 青山高樹町に町内会ができた時、副会長になり、隣組育成に腕を振るった。「隣組」は、その時の作品。岡本かの子の夫であり、画家の岡本太郎の父親。 ・高村光太郎の詞で国民歌謡「歩くうた」を作曲。八十島稔詞の国民合唱「朝だ元気で」を書き、同曲は戦後になってNHKにより歌詞を変えて放送され、教科書にも掲載された。 (註)「朝だ元気で」は、『われらのうた』で昭和十六年(1941年)十月二十五日に放送された。昭和十七年二月二十四日から三月七日までに『國民合唱』で六回放送された。 『國民合唱/一』昭和十七年発行に収録。そのため国民合唱「朝だ元気で」とされる。 ・防衛総司令部が東京日日新聞、大阪毎日新聞の協力で選定した国土防衛歌「空襲なんぞ恐るべき」(作詞は参謀の難波三十四)なども作曲している。 ・太平洋戦争中はインドネシアで陸軍宣伝班の一員として放送など音楽工作に携わり、ジャカルタ放送管弦楽団の指揮者を務め、 ニュース映画や詩の朗読の伴奏音楽のために作曲した。また、同地に抑留されていたピアニストのリリー・クラウスと親しく交際した。 ・戦後は亀井文夫と山本薩夫監督が共作した反戦映画「戦争と平和」の音楽を担当した他、渡辺邦男監督「異国の丘」、市川崑監督「ブンガワンソロ」、 千葉泰樹監督「東京の恋人」などの映画音楽を書いた。 ・唱歌「玩具の舟」「お月見」や、神奈川県民歌(「光あらたに」村瀬輝光作詞、勝承夫補作、飯田信夫作曲)、三重県、宮崎県の県民歌、日本電電公社社歌などがある。 ・昭和五十九年(1984年)日本レコード大賞(功労賞)。 ・平成三年(1991年)八月十九日に亡くなりました。妻は夏川静江(女優)、長女は夏川かほる。 (『日本の作曲家』(日外アソシエーツ)による) 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ ![]() |
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