クリスマスにまつわるおはなし
クリスマスって何の日?

「クリスマスって、誰の生まれた日だっけ? その人ってまだ生きてんのー?」 ツリーを部屋に飾った日、6歳の息子が陽気に私にきいた。私は知っていることだけを端的に話した。「キリストっていう人の誕生日でね、でももう死んじゃったんだよ」「どうして死んじゃったの?」「十字架に手と足を釘で打ち付けられて丘の上に放っておかれて死んだんだって。」話しながら、小さな子供にむかって白昼堂々ひどく残酷な話をしている自分にドギマギした。以前息子の通っていた保育園には日本人の保母さん保父さんに加え、アメリカ、ルーマニア、フィリピン、オーストラリア、中国などから来た様々な肌の色、目の色、様々な文化をもつ保母さん保父さんがいた。その中に、コニシキほど大きくはないけれど、子どもたちからみたら本当に大きくて力持ちのアメリカから来たクリスチャンの保父さんがいた。息子はその先生がお給食のときに両手を組んで目をつぶることを何度か私に話してくれた。「C先生ね、クリスちゃんなんだって。それでね、バッテンに誰かくっついてるペンダントしてるんだよ。」そうだ、C先生のバッテンのペンダントに人がくっついてたでしょう? あれがキリストだよ。」息子はびっくりしてしばらく言葉がなく、そのあと憤慨して言った。「どうしてそんなひどいことしたの? その人悪いことしたの? なんにもしてないのにそんなことするなんてひどいよ。誰がそんなことしたの?」「ほんとだね、どうしてだろう」もしも私がキリスト教徒だったならなんと答えたのだろう。すべての人々の罪を一身に背負って十字架にかかったのです、と答えるのだろうか。なぜキリストが十字架にかけられたのかを、私は答えられなかった。ただ、そういう残酷な歴史、残酷な人間の一面だけを子供に伝えた。あとは彼が自分で感じ、考えていってくれると思う。その後も息子はふと思い出したようにジェスチャー付きでおどけて言う。「死ぬ、ハッ! 生きる、ハッ! って思った通りになったらいいのに。苦しくないのがいいな。ハッ! って死んじゃうのがいいな。」息子にとってのクリスマスは死を考える日にもなってしまった。私にとってもね。ただ死んでしまった人のお誕生日を祝うのはとてもステキな事だと思う。どんな人であっても、生まれてきたことはステキなことだと思いたい。その人が死んでしまっているかどうかは関係なく、生まれてきたことを祝って、いいよね。

私は、暖かな人々の繋がりが街にあふれるクリスマスが大好き。ささやかな暖かさを祝う日、すべての命あるもののもとに、てんしさまがおりてくる…。どんな風に? それは大好きな五味太郎さんの絵本に書いてあるよ!

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