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戦争・平和
| ぞうの世界には白いぞうとと黒いぞうがいました。白いぞうと黒いぞうとはけんかをしていました。けんかが嫌いなぞうたちは隠れてしまいます。けんかが終わり、隠れていたぞうたちが出てきます。白いぞうと黒いぞうではなく、白黒混ざったぞうがぞろぞろと...。これで世界は幸せになると思ったのに、今度は大きな耳と小さな耳のぞうがけんかをし始めます。
違うって素晴らしい!はずなのに、どうしてけんかになってしまうのかな。簡単には答えのでないことがこの世にあるということを、子ども達が初めて知る本かもしれません。(1997.1) |
| 1925年に生まれた主人公の少年は、幼なじみのフリードリヒやその家族とともに成長していく。...していた。...していくはずだった。当時のドイツで何が起き、そこに生きる少年は何を考えていたのか。望もうが望むまいが、人々は、明確に迫害する側とされる側とに分けられていく。白黒つけるということ、善悪を単純に考えること、答えがひとつしかないということ、そういう世界で人間として生きるには、どうしたらよいのだろうか。 『あのころはフリードリヒがいた』を読み終え、付された年表の文言を追いながら、この本の迫力はこの年表にあると思った。この年表の中に、無数のフリードリヒとその家族、無数のぼくとその家族、無数のレッシュ氏、無数のノイドルフ先生が見える。私がフリードリヒであったかもしれないし、ぼくだったかもしれない。レッシュ氏だったかもしれないし、ノイドルフ先生だったかもしれない。 私たちは、時代に生きる時代の子だ。私達は、過去の人々の営みを土台として、この時代に生まれ、この時代の子として人生を歩んでいる。年表の中に無数のフリードリヒが見えるように、今も無数の「私」がこの時代に生きているだろうことに気がつき愕然とした。 今という時代が歴史となっていく過程で、年表の中に見える「私」の考えること、「私」の行動はどういう意味をもつようになるのだろうか。私たちは、その大きな流れをもつ時代という大河の中で、大河の小さな一滴として、大きく目を見開いていよう。そして、私という小さな一滴が、私たちの時代を土台として立つ未来の人々へ、どのような大きな流れと共に手渡されるのかを見届けたい。(2004.5) 子どもの言葉より (これを読んだからには、)『ぼくたちもそこにいた |
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| あのころはフリードリヒがいた 子どもの行動より | |
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きつねとたぬきの家は代々続く犬猿の仲。こどもたちの世界は、過去に捕らわれず、未来への希望が溢れています。今の世の中でも、こどもたちの世界を通して、大人が固い心を少しずつ開いていかれるといいのですが…。(2002.1)
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現実とはなにか。ごく普通と思われる祖母との暮らし、突拍子もない母との暮らし、まったく異なる価値観で暮らす人々に翻弄され、ごく普通の少女は混乱し、それでも自分自身を見つけていく。プラスチック爆弾、テロ、スクォッター、慣れない言葉が並ぶ中、それを現実として生きる少女がいることは、同年代の娘にとって衝撃だっただろう。オオカミという動物が物語にうまく絡んでいる。(2002.11 娘小5)
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戦争にまつわるひとりごと