奥羽古城散策
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高水寺斯波氏

「奥州合戦」「大河兼任の乱」での戦功により足利義兼は斯波郡など奥州各地に所領を得た。そして義兼の子孫の足利家氏が斯波郡を受け継いで斯波氏を称したのが始まりという。ただし、斯波氏が斯波郡に下向したのはさらに4代後の奥州管領・家長の頃で、その後は斯波郡から岩手郡一帯を支配する一大勢力を築き上げた。南部氏とは南北朝時代より幾度も争いを繰り広げたが、戦国時代末期には衰えて家臣の離反が相次ぎ、最終的に南部氏に敗れて斯波氏は滅亡した。

歴代当主

【斯波家氏】 しば いえうじ
 斯波氏初代。足利泰氏の嫡男。父より陸奥国の斯波郡を受け継いで斯波氏を称したが、家氏自身は鎌倉に出仕しており、斯波郡には下向していない可能性が高いという。
【斯波家長】 しば いえなが (1321~1338年)
 高水寺斯波氏初代。斯波高経の嫡男。足利尊氏より奥州管領に任ぜられ、1335年に斯波郡へと下向した。その後、奥州の北朝勢の中心として活躍し、国府を押さえる等の成果を上げるが、鎌倉で北畠顕家の軍勢と戦って敗れ、杉本城にて自刃して果てた。
【斯波詮経】 しば あきつね
 高水寺斯波氏2代目。斯波家長の嫡男か?同族の大崎氏出身説もあり。詳しい動向は定かではないが、北上川を挟んで隣接する河村氏の勢力を降して配下としたという。
【斯波詮高】 しば あきたか
 高水寺斯波氏7代目。大崎教兼の庶子。斯波郡を相続して高水寺に移り、斯波氏を称したというが不明な点も多い。岩手郡に進出して戸沢氏や南部氏を排除し、滴石と猪去に息子たちを置いて三御所と称される勢力を築き上げた。
【斯波詮元】 しば あきもと
 高水寺斯波氏10代目。斯波詮房の嫡男。南部氏との争乱を繰り広げたが、家臣の離反が相次いで弱体化し、居城の高水寺城を南部氏に攻め落とされて滅亡した。詮元は城を脱出して山王海へと落ち延びたという。その後、南部信直に仕えて詮直を称したが、最終的に下野したという。

居城

城名 概略
高水寺城 斯波家長が築いた山城で陸奥斯波氏代々の居城。元は同名の寺院の一画を拝借して居所としたのが始まり。
吉兵衛館 高水寺城の出丸。斯波詮元の養子となった高田吉兵衛が一時住んだ場所。

一門衆・家臣団

居城 概略
滴石氏
(滴石斯波氏)
雫石御所 一門衆。斯波詮高の次男の詮貞が滴石に所領を与えられて移り住んだのが始まりという。本家と共に『三御所』と称された一門。
猪去氏
(猪去斯波氏)
猪去御所 一門衆。斯波詮高の三男の詮義が猪去に所領を与えられて移り住んだのが始まりという。本家と共に『三御所』と称された一門
見舞氏 見舞館 一門衆。見舞若狭の名が伝わる。
煙山氏 煙山館
飯岡館
斯波氏家臣。煙山の領主。厨川工藤氏の一門だが、後に斯波氏と縁戚関係となった。1588年に煙山主殿は斯波氏から離反したため、居城を斯波氏の軍勢に攻め落とされた。その後、奪還している。
岩清水氏 岩清水館 斯波氏家臣。岩清水の領主。1588年に岩清水右京は斯波氏から離反したため、居城を斯波氏の軍勢に攻め落とされた。その後、奪還している。
中島氏 中島館 斯波氏家臣。中島の領主。中島安将の名が伝わる。
松本氏 松本館 斯波氏家臣。松本の領主。松本清兵衛の名が伝わる。
稲藤氏 稲藤館 斯波氏家臣。稲藤の領主。稲藤大炊左衛門は、多くの斯波氏家臣が南部氏に鞍替えする中でも斯波詮元に最後まで付き従った忠臣の一人。
綾織氏 新城館 斯波氏家臣。新城?の領主。阿曽沼氏の一門。綾織広信は斯波詮貞が雫石の領主となった際に、雫石御所の造営を担当したという。
彦部氏 彦部館 斯波氏家臣。彦部の領主。1588年に斯波氏が滅亡すると南部氏に仕えた。
長岡氏 長岡館 斯波氏家臣。長岡の領主。斯波氏の重臣として長岡八右衛門の名が伝わる。
山王海氏 太郎館 斯波氏家臣。山王海の領主。山王海左衛門太郎は、1588年に南部氏によって高水寺城が攻め落とされると、城より落ち延びてきた斯波詮直(詮元)を山王海にて匿ったという。その後、南部氏の家臣となるが、1601年に一揆に加担して討死した。
大萱生氏 大萱生館 斯波氏家臣。大萱生の領主。河村氏一門で南北朝時代には斯波氏とは対立していたが、後に屈して斯波氏の家臣となった。1583年には大萱生玄蕃が斯波氏を離反し、南部氏の家臣となっている。
栃内氏 栃内館 斯波氏家臣。栃内の領主。河村氏一門で南北朝時代には斯波氏とは対立していたが、後に屈して斯波氏の家臣となった。後に斯波氏を離反し、南部氏の家臣となって斯波側の長岡館攻めに参加している。
赤沢氏 赤沢館 斯波氏家臣。赤沢の領主。斯波氏滅亡後は南部氏の家臣となった。