奥羽古城散策
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洲島城 すのしまじょう

別名
栖島城
時代
室町時代~安土桃山時代
分類
中世平城
規模
-
現状
田畑・住宅地
場所
山形県東置賜郡川西町洲島
最終訪城日
2012年5月27日

伊達氏家臣の富塚仲綱、「天文の乱」以後は湯目雅楽允の居館と伝わる。現在は田畑と住宅地。

城史

年代 出来事
16世紀 伊達氏家臣の富塚仲綱の居館と伝わる。
1542年 伊達家を二分した「天文の乱」では富塚氏は稙宗派に属したため、終結後は湯目雅楽允が富塚氏の所領を受けついた。
1591年 奥州仕置きにより伊達政宗は岩出山へと転封となり、大橋郷の湯目氏がこれに従っているため、洲島郷の湯目氏も同様にこの地を離れたと思われる。

縄張り

城は最上川左岸の平地に築かれており、輪郭式の縄張りとなっていて方形の本丸の周辺に二の丸が展開していた。二の丸の西と南にはさらに家臣の屋敷があった小さな郭が連結しており、各郭は当時は水堀で区画されていた。

【本丸櫓台】
本丸跡の土塁は耕地化でほとんど消滅しているが、南東隅に張り出していた櫓台だけはしっかり残っていた。現在はちょっとした雑木林になっており、上には祠が祀られているため登る階段も付いていた。

【本丸内堀跡】
本丸跡の堀も耕地化で主に北側が消滅していたが、南西側と櫓台の東側には多少埋まっているものの掘の痕跡がよく残っていた。

【外堀跡】
二の丸跡は当時は蛇行していた最上川に接していた東側以外を水堀で囲んでいたが、水堀の名残を残しているのは今では西側のみとなっていた。それでも北側の最上川と繋がっていた部分の堀は窪地としてよく残っており、かつての最上川跡も明らかに低くなっているため判り易かった。

【中堀跡】
外掘の一部と同様に二の丸跡の家臣の屋敷を区画していた中堀も水路としてよく残っていた。八幡神社隣の民家の脇にも屋敷間の堀跡が多少埋まっているもののしっかり残っていた。西町通り沿いにあった堀は埋められていたものの、道路脇にあからさまに不自然な痕跡が確認できた。

【屋敷跡(八幡神社)】
八幡神社と長福寺がある場所はかつての城主家臣の郭の一つで、これらの寺社は元は別の場所にあった。他にも仏性寺や、小沼家のサイカチの木がある場所にも同様の小さな郭がかつては存在していた。なお、八幡神社前にある説明板には当時の城の縄張り図と、移転前の寺社の位置が記載されており、先にここを確認しておくと散策の参考になるかもしれない。

アクセス

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