HOME -> 城跡データ -> 岩手県の城跡一覧 -> 滴石城
築城に関しては諸説あるが、戸沢氏代々の居城と伝わる。後に斯波詮貞が移り住んで御所と呼ばれた。今は神社と住宅地、畑。
年代 | 出来事 |
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鎌倉時代頃? | 滴石庄の戸沢村に居館を構えていた平衡盛、又は子の戸沢兼盛によって築かれ、以後は戸沢氏代々の居城となったとされるが定かではない。 |
1340年 | 南北朝の騒乱が始まると滴石戸沢氏は南朝に属し、戦いに備えて滴石城を築いたと伝わる。 |
1346年 | 奥羽を転戦していた北畠顕信が滴石城に辿り着き、この地で1351年まで南朝勢の指揮をとったという。 |
1349年 | 吉良貞家が北朝勢を率いて滴石城に攻め寄せ、激しい戦いが繰り広げられたという。 |
1540年 | 滴石戸沢氏一門の手塚左衛門尉が城主を勤めていたが、南部氏の服属要求を拒んだため、石川高信を総大将とする南部軍に攻められた。戸沢軍は徹底抗戦する構えだったが、内部に離反者が出たため、城は放火されて焼け落ちたという。敗れた滴石戸沢氏一門は出羽国の戸沢氏を頼って落ち延びたという。 |
1545年 | 斯波詮高は岩手郡を巡って南部氏と衝突し、滴石郷を制圧して次男の詮貞を滴石城に入れた。この時、斯波氏の客将であった綾織広信によって滴石城は改修され、斯波氏一門の城ということで「御所」と呼ばれたという。 |
1588年 | 南部信直によって斯波氏の本拠地の高水寺城が陥落すると、滴石御所も南部氏に制圧され、城主の滴石久詮は花巻へと落ち延びて隠遁したという。その後、滴石は南部信直の直轄支配地となり八日町太郎兵衛が城代として置かれた。 |
1592年 | 城はこの時に目録上では破却されたことになっている。 『南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事』 |
城は東西に伸びた丘陵の上に築かれており、それぞれの郭が空堀で分けられて連郭式に近い縄張りとなっている。当時は丘陵の南側に沿って雫石川が流れて外掘の機能を果たしていたが、現在は流路が大きく南に変わっている。