天恢の霊感遍路日記 (阿波編)

 

1回・移動日                   2007528(月)

20:50

品川バスセンター

徳島行き夜行バス エディ 発車

徳島行き高速バスは、横浜だと渋谷が一番近くの乗り場となるが、はやる気持ちと品川は昔の職場に近いので、初めての遍路の出発地を品川バスセンターに決めた。定刻に発車し、浜松町、渋谷と経由して乗客を乗せながら深夜の東名を夜行バスひた走りに走った。意外だが乗客は女性も半数近く、高齢者は少なく、ほぼ満席に近い盛況である。

 

1回・初日  1番:霊山寺〜7番:十楽寺 2007529(火)

タイム

ポイント

備考 (見処&移動機関)

6:30

徳島駅

徳島行き夜行バス エディ 到着

 

 

JR 徳島 6:43⇒坂東 7:06 

7:308:05

1番:霊山寺

本堂内陣 十三仏像 泉水池 縁結び観音

8:309:15

2番:極楽寺

仏足石 長命杉 安産大師 抱き地蔵(おもかる地蔵) 

9:5010:20

3番:金泉寺

仁王門 黄金井の泉 力石

11:3011:50

4番:大日寺

鐘楼門 三十三観音像

12:10

五百羅漢

地蔵寺奥の院 等身大木像五百羅漢像

12:2012:45

5番:地蔵寺

水琴窟 大銀杏 廻し錫杖

 

 

バス 羅漢13:17⇒東原13:28

13:4014:20

6番:安楽寺

山門 さか松 茅葺き屋根のトイレ

14:4015:05

7番:十楽寺

治眼疾目救歳地蔵尊 水子地蔵 

16:00

 

寿食堂

 

興奮と不慣れで、バスの中ではほとんど眠ることはできなかった。これも最初から織り込み済みで静かに目を閉じて、身体だけを休めることに専念した。車中はカーテンで締め切られていたが、カーテンの隙間から、夜明けとなって、バスは明石海峡大橋から淡路島、そして大鳴門橋を通過し、徳島市内に近づく様子が少しずつわかった。

 

旅の始まりはJR高徳線坂東駅

きっと昔の映画館KIRAKUZA

午前6時半に徳島駅へ、特に感激もない中の到着であったが、これから旅が始まると思うと身が引き締まる。ラッシュの当たり前の首都圏の各駅に比べれば、地方は至ってのんびりした雰囲気がある。

板東駅に到着。先ず駅舎を撮影した。第一番に向う途中にKIRAKUZAというかつての映画館跡、歴史が感じられる。古い街道を指示板に従って右折すると一番札所霊山寺の山門が見えてきた。山門に若い女性の遍路さん=マネキンが立っているが・・・、どうも不釣合いのように感じるのは私だけか・・・。

 

ここが第一番札所の仁王門・・・

 

先ず、霊山寺隣の門前一番街で金剛杖(1,500)と菅傘(2,500)を勧められるがままに購入。これ以外の遍路用品は通販で「門前一番街」から事前に購入していたが、遍路用品は霊山寺の中でも販売している。シーズンオフともなれば、早い時間帯は食堂など閉鎖されている。香ばしい焼き餅で知られる「あわくった」など味わうなど無理だった。

 

 

 

1番 霊山寺 

 

早朝のためか? 参拝者も少なく、発願の寺であるが、これから四国巡礼の旅の第一歩という感慨は特に無かった。四国遍路の旅路の第一歩、発願の寺である。先ずは発心の札所で無事を祈願することになるが、心なしか、般若心経を唱える時、声が震え、か細い声で頼りないものとなった。

 

灯りが煌めく本堂内陣・・・

そもそも霊山寺は、聖武天皇の祈願所で、行基の開基である。その後、弘法大師が人々の幸せを願い、八十八の煩悩消滅のために四国霊場開設を思い立ったという。唐から帰国して8年後のことである。本尊は釈迦如来。大師がこの寺で21日間の修法を行った時、釈迦如来がインド(天竺)の鷲峯山で説法している姿を感得し、釈迦如来を刻んだと伝わる。天竺の霊山を和国(日本)に移す意味で、山号を竺和山、寺号を霊山寺とし、四国霊場の第1番札所と定めたといわれる。

納経所で靴を脱がされての、初めてご朱印には面食らったが、その後はご朱印をもらうのに靴を脱ぐようなことはほとんど無かった。

 

さてさて、ここのご利益は? 

仁王門を入ってすぐに縁結び観音がある。これは仕事や健康、恋愛、幸せなどにご利益があるといわれている。手を合わせるだけではなく、水でお清めし、心からお祈りすればさらに功徳があるという。

遍路始まりの第一番での記念撮影を撮ってもらおうとしたが、早朝のためか、誰もシャッターを押してくれる人がいなかった。やっとの思いで探し当て、お願いして撮っていただいた。

 

第一番の縁結び観音さま

一番さんでの記念撮影ですが・・・

この次は訪ねたい賀川豊彦祈念館

 

2番札所には、山すそに沿って、遍路道を歩くことになった。途中賀川豊彦記念館の看板があった。日本の社会事業の父である賀川豊彦はこの地の出身だったのである。時間が許されるなら行ってみたいところである。この阿波の地はドイツとの縁も深い。

 

 

2番 極楽寺 

どっしりとした入母屋造の仁王門

長命杉に健康、長寿を祈るそうだ・・

 

そもそも極楽寺は、お大師さまお手植えの老杉「長命杉」で知られる霊場である。寺の開基は行基。弘法大師はここで21日間、「阿弥陀経」を読誦し、修法した。結願の日に阿弥陀如来が現れたため、その像を刻み本尊にしたと伝わる。

 

 

さてさて、ここのご利益は? 

先ずは、「長命杉」として知られる樹齢1200年余の巨木で、長寿を授かるという言い伝えがある。この杉に紅白の綱が巻かれていて、霊木の綱を引くことで霊気を授かるそうである。次に、本堂にある石段前の「仏足石」。写真で見るほど大きいものではなかったが、足腰の健康にご利益があるというので、さっそく触れてみた。

 

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写真で見るほど大きくはないけど・・

重いので自信がない人は止めたら・・

そして、端正な表情の修業大師が、腕に稚児を抱えて立っている「子授け・招福大師」像、「願掛け地蔵尊」、「釈迦如来」、「水子供養地蔵」、「平和観音」、二童子を従えた「一願水掛不動尊」などの像がある。極め付きは、大師堂に置かれているミニ石像の「抱き地蔵」もある。通称「重かるさん、軽かるさん」と呼ばれるこの地蔵を手にして、軽く感じたら願いが叶い、重いと思ったら悩みが長引くそうである。

 

納経の際に、お弁当を勧められて購入、お接待で100円引きのこと。朝食が済んでなく、お茶も用意されているので、あり難かった。各札所にはご朱印を書く人が必ずいらっしゃるが、手慣れたものというより、名人芸である。

 

 

3番 金泉寺 

朱塗の仁王門をくぐれば赤い欄干の橋

見えなかったら3年以内に死ぬ・・・

 

そもそも金泉寺は、行基の開基で、もとは金光明寺と呼ばれた。弘法大師が境内の一隅から湧く泉の中から黄金を見つけたことから寺名が改められたと伝わる。

 

さてさて、ここの見所は? 

 

寺名の由来となった泉は、「黄金井の泉」は、現在も閻魔堂のそばにあり、泉に自分の顔を映して自分の顔が見えたら92歳まで長生きでき、映らないと3年以内に死んでしまうといわれている。怖いもの見たさもあるが、遍路の初日であるため遠慮することにした。もう一つ、寺の裏にある「弁慶の力石」。源義経一行が屋島の合戦へ向かう途中で戦勝祈願のためこの寺に立ち寄った。その時、弁慶が持ち上げたのがこの石である。大事な一戦を控えた義経が、弁慶の人並み外れた力を自軍の兵に示し、士気を鼓舞したという。

 

もっとゆっくり歩けばと思いつつ。旅の初めは、心がはやるもので、はやる気持は阿波一国最後の23番札所まで続くこととなった。この金泉寺に到着して、初めて輪袈裟をしていないことに気が付いた。輪袈裟をして、改めて遍路旅立ちの写真を撮っていただく。

札所での参拝の作法は、ガイドブックによると、山門での一礼から始まり、手水場で手と口を浄め、鐘楼があれば鐘をつきます。(鐘は迷惑になるようで、私はほとんど撞かなかった。) 次に、本堂と大師堂のそれぞれで、ろうそくを上げ、線香を上げ、納め札を納め、お賽銭を上げ、お経を読むが、慣れない最初は簡略化しても最低20分以上はかかる。

 

何やら山寺が見えてきた・・・

寺を出る時に山門でもう一度礼をするが、お遍路初心者にとって、最初は作法や順序を間違えることばかりで、ここに来て、数珠も使用していなかったことに気がついた。

 4番への遍路道もなかなか味わい深いものがある。 吹く風に霊気を感じる。高速道路の裏道や野中の田んぼ道もある。また、遍路道はお墓の中を歩かせられることが多い。ふと、高浜虚子の「道のべに 阿波の遍路の 墓あわれ」の句が頭をよぎる。人気の無いところを歩いて行くと「那東のお不動さん」で親しまれる番外・愛染院がある。さらに山の方へ歩いていくと・・・。何やら山寺が見えてきた。

 

 

 

4番 大日寺 

鐘楼を兼ねた朱塗の山門をくぐると・・・

三方を山に囲まれた大日寺の堂宇

 

楼門を兼ねた朱塗りの山門をくぐると、三方を山の緑に囲まれ、静寂で落ち着いた山寺の気配がする。参拝者が数少ないのも寂しさをより感じさせるものがあるが、遍路にやって来たという実感が湧いてくる。この時期、やはり遍路はオフシーズンだが、それでも週末は様相が一変して賑やかになる。・・・

 

そもそも大日寺は、弘法大師が当地に長く留まって修法して、一刀三礼して大日如来像を刻んで本尊とした。そして、寺号を大日寺とし、第4番目の霊場に定めたと伝えられる。その後、盛衰を繰り返したのち、江戸時代になってからは藩主・蜂須賀氏の篤い信仰を得て再興された。

 

観音さまのオンパレード・・・

さてさて、ここのご利益は? 

本堂から右手側の大師堂へ続く回廊には、西国巡礼の観音像を模した33体が安置されている。江戸時代に大阪の信者が奉納したものと伝えられる。三十三身に姿を変えて衆生を護る『観音経』に説かれる。どれも妖艶な表情で見応えが充分で、有難さが伝わってくる。

 

5番へ向うため、こんどは山道をひたすら下りて行く。昔の遍路道は大きな道路に変わっていた。地蔵寺の手前で、地蔵寺の奥の院である五百羅漢をお参りした。入館料200円を払うが、羅漢堂に並ぶ五百羅漢像は実に人間味あふれる個性的な表情をしている。伝えられているように、誰かに似ている顔、探せば自分に似ている顔も見つかるかも知れない。羅漢堂はコの字形で、正面に釈迦如来、左右に弥勒菩薩と弘法大師を安置する御堂が配されている。時間があればもっと留まり体ところであるが、先を急がねばならない。地蔵寺には、五百羅漢からすぐに左手に地蔵寺の甍を望み、ゆるやかな階段を下りて行く。

 

誰かに似た等身大の羅漢さんが・・・

時間があればゆっくり見たい・・・

羅漢堂を下りれば地蔵寺の堂宇が・・・

 

5番 地蔵寺 

参拝者が手をつないで測ったが、さてさて大イチョウの幹の周囲は?・・・

 

仁王門をくぐると、境内の中央に根を張る樹齢800年の大イチョウが遍路を迎えてくれた。弘法大師のお手植えとも伝わる大イチョウを中心に諸堂が配されている。この大イチョウは団体の参拝者が手をつないで測っていたが、5人はどうやら必要のようである。 

そもそも地蔵寺は、嵯峨天皇の勅願で弘法大師の創建と伝わる真言宗御室派の古刹である。本尊は勝軍地蔵菩薩で、この寺の住職が熊野権現の神託によって刻んだ延命地蔵菩薩の胎内納められている。甲冑姿で軍馬に跨った珍しい18分の仏様で、戦国時代には武人の信仰を集めたという。

 

さてさて、ここの見所は? 

 

ピーンと神秘的な音色が・・・

奥の院にある「五百羅漢」が余りに有名であるが、境内にという、日本庭園の技法の一つで、洞窟内に水滴を落としたとき発生する反響音を楽しむ「水琴窟」がある。本堂横の地蔵尊の下で、願いを書いた経木に水をかけると、ピーンと神秘的な澄んだ音が、その音に心が清められる。

 

楼上には梵鐘が吊ってある山門・・・

羅漢のバス停で次まで30分余りあるので、交差点にある食堂で、昼食をとる事にして、焼きうどんを注文。食後、コーヒーを勧められたが、バスの時間も無いのであり難く断った。

 私の場合は、最初から「歩き遍路」で徹するつもりはなかった。必要に応じて公共の交通機関は使うつもりだったので、初日から乗車できるところから利用した。降りる際に、バスの運転手さんが親切に安楽寺を教えてくれた。札所はバス停からわかり易い場所にある。楼上には梵鐘が吊ってある朱塗りの中国風の鐘楼門で趣がある。

 

6番 安楽寺 

 

門をくぐり境内に入ると正面奥が本堂であるが、それより目につくのが宿坊・本坊である。本坊は茅葺き屋根で、宿泊客の食堂もある。安楽寺には400年以上の歴史を持つ宿坊がある。

 

「駅路寺」の役を担った安楽寺の本堂

宿泊客の食堂を兼ねる茅葺きの本坊

宿泊に困ったお遍路に宿と食事を提供するよう藩主から指定された「駅路寺」の役を担っていた。今も良質の温泉が湧き出て、温泉付きの宿坊があるお寺としても有名である。

  そもそも安楽寺は、山号を温泉山というように、この地には昔から温泉が湧き出ていた。この地を訪れた弘法大師が温泉湯治の功徳を説き、傍らに堂宇を築き、大師自らが、現世の病気や災厄を救ってくれるという薬師如を来彫り本尊とした。現世の安楽と往生を約束する札所である。

 

日本トイレ協会推薦となっている最新式水洗トイレも茅葺き・・・

 

さてさて、ここの見所は? 

多宝塔前の「弘法大師の身代わりの逆松」は、弘法大師が修行中、猟師が誤って放った矢の的になり、弘法大師の身代わりとなった。大師は厄除の法のご利益だと、猟師に松を逆に植えさせ、「松が栄えるなら災厄を逃れるだろう」と告げた。その松が芽を出し繁茂し、「六番のさか松」と言い伝えられている。 もう一つ、日本トイレ協会推薦となっている山門近くのトイレも茅葺きで、センサー内蔵の最新式トイレである。手入れがよく、清潔感が漂う。中は広くスロープがついており、車椅子も入ることができる。

 

昔なら庄屋さんの風情ある民家が・・・

真念しるべ石は? どこに?・・・

安楽寺を出て、遍路道を歩いて行くと、昔ながらの風情が残る住居があって、この近くに「真念しるべ石」があるはずだが、この道は本日の往復と明朝の3回通ることになったが、とうとう最後まで見つけことは出来なかった。のどかな昼下がりにゆっくり歩いても次の札所はすぐである。

 

 

 

7番 十楽寺 

ここも中国風の鐘楼門と堂宇が・・・

 

ここの山門も安楽寺と同じ中国風であざやかな紅白の山門で、くぐると目の前に100体ほどの水子地蔵の石仏群に迎えられた。遍路の初日で、調子も良くて、第7番まで来てしまったという感じがした。静かな境内のベンチに座って遍路初日の一日をしばし振り返る。

 

そもそも十楽寺は、四国霊場を開創するため行脚中の弘法大師が、楠に阿弥陀如来を刻んで本尊とした。人々が八つの苦難から離れ、光明に輝く十の楽しみが得られるようにと、山号を光明山、寺号を十楽寺とした。ちなみに八苦とは生と老、病と死、愛別離、怨憎会、求不徳、五陰盛。十楽とは極楽浄土に往生すると味わえる十の喜びだという。

 

目にご利益あるお地蔵さま

さてさて、ここのご利益は? 

本堂左手にある「治眼疾目救済地蔵尊」は、古くから眼病や失明の治療に霊験があると伝えられている。苦しみから離れ、すばらしい喜びが得られるという寺の由来どおり、実際に巡礼中に眼が見えるようになったという言い伝えも多く残る。

八十八ヵ所には極楽、安楽、十楽、常楽、善楽など楽が付くお寺がいくつもある。

遍路の心得を教える宿坊・・・

確かに苦や厳が付くよりはマシである。立派な宿坊があって、ここに泊まった方の話では、お説教で遍路の心得など教示してくれるそうである。宿坊に泊まることは、高野山でも経験があったが、今回の宿として宿坊は入れなかった。どうも宿坊だと一日の疲れを気楽に一杯いただく心境に程遠い感がするのである。

 

お天気に恵まれ、思ったより快調に歩けて、予定を過ぎて第7番までお参りできた。ここから第五番と第六番との間にある寿食堂まで戻ることになったが、途中ちょっと道に迷いそうになった。そこに自転車を抱えた親切なお婆さんが道案内をしてくれた。通常の遍路道を外れた遍路さんは、何かの事情で困っているとの先入観が働くそうで、この辺でいつも救済ネットを張っているそうである。わざわざ本道まで連れて行って下さり、後は真直ぐに戻るだけである。お婆さんは第七番のお近くに住まわれているとのこと。感謝・感謝。

 

寿食堂に無事到着。宿で43日目に結願され、第一番にお礼参りするため泊まられた新潟の胎内さんと同宿した。足がパンパンに腫れて道中の苦労が偲ばれる。完全歩き遍路でない私にはあり得ないことであるが・・・。胎内さんは退職自衛官で、私よりずっと若い方である。洗濯や夕食の際に、遍路の心得を拝聴することができた。讃岐辺りでは掛け軸など専門に盗む泥棒の話も聞いた。食堂での夕食となって、同宿者には若い娘さんとそのご両親の3人で計35名であった。結願した胎内さんに夕食時、宿の女将さんが、結願祝だといってノシ付きのタオルを渡していた。私もいつの日かこのタオルをいただくことができるのか?・・・。景気よくビールだけは大瓶2本いただいた。                                 

 

参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社)