公喬(こうきょう)宝暦8年(1758年)〜文化9年(1812年) 尚長の弟。幼名は寅三郎、後に公喬、字は玄遷と改めた。幼い頃から学問を好 み、三浦梅園に従って條理学に通じ、書と詩文を学んだ。玄遷25歳の時、梅園が 訪ねてきて「達亭記」を書いている。端正な人となりで皆から敬われたという。京都 で医学を学び、天明8年(1788年)姫島の疫病大流行の際に松平親良公の命で島 に渡って治療を行った。
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