なんでも相談

Q&A

 

副住職が奉職する女子高校での一問一答です。ご覧下さい。

仏教についてわからないこと、ごそうだん、わかる限りでお答えいたします。

新しい一問一答を載せました。ご覧下さい。

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Q:おぼうさんは、なぜ数珠(じゅず)を持っているの?

A:数珠は計算機です。念仏などの数を数えたりする修行の道具です。また珠が見えない糸で結ばれてバラバラにならないところから、「すべてがかかわりあって存在している。」仏教の縁起の法をあらわしているとも言えます。

 

Q:首にかけてるモノは何ですか?

A:袈裟(けさ)といいます。もとは小さな布きれを集めて縫いあわせた布で修行僧が身にまとっていたものです。インドから中国や日本に伝わる間にしだいに装飾的な意味合いが増していきましたが、仏教徒の証として現在でも世界各国で様々なものが掛けられています。

 

Q:仏教は「欲望をすてる」みたいなことを聞いたことがありますが本当ですか?

A:仏教は「欲望をコントロールする」ことを説きます。食欲や性欲が無くなったら人間は存在することができなくなるでしょう。馬車を制御する例え話があります。暴れ馬の勝手にさせたらば馬車は谷底に落ちてしまいます。しかし馬を殺してしまったら馬車は動かず野たれ死にするでしょう。強すぎる欲望(=ぼんのう)に引き摺り回されるのではなく、自らが主人となってコントロールすることで人間の正しい進みが得られるのです。

 

Q:なぜお坊さんになったんですか?

A:生まれたのがお寺だったのが大きな理由ですが、もう小学校の時には将来のことを決めていました。修養会などに集る方々が、とても親切でやさしくユッタリしていらっしゃいました。子供ながらにその暖かい雰囲気が好きでした。その方々の中心でお話をしている祖父や父を見て私もあの様になりたいと思ったのです。実際にお坊さんになる時は、思っていたことと違ったこともあり戸惑いもしましたが、「正しいと思えることの追及」が人生の目的に合致していることはとても幸せなことだと思っています。

 

Q:「仏様(仏壇)にあげた御飯は犬、猫にあげてはいけない。」って言いますよね。仏様と犬や猫を同レベルで考えてはいけないということなのでしょうか?仏様は犬が嫌いなのでしょうか?

A:「仏様を大切にする」という考えから言われることだと思います。でも本来、仏様とは「宇宙の法則に目覚めた人」のことです。仏教では「わけない考え方」を大切にしますから人間はよくて、犬はダメとは考えませんし、犬も猫も御飯もみんな支えあって存在していると説きます。御飯は天地から頂いたものですから、食べる時には「頂きます。」と頭上に頂戴して感謝を表すのですね。仏壇に捧げる御飯も感謝の印です。お下がりは大切に頂ければ良いのですが、捨ててしまうぐらいなら犬にあげた方が御飯も喜びますし、仏様の教えにかなうことの様に思います。

 

Q:どうしたら身長をあと5cm伸ばせるでしょうか?

A:残念ながら、カルシウムを取るために牛乳をたくさん飲むこととか、姿勢よく生活することぐらいしか知りません。神仏に頼みこんでも宇宙の法則にはずれた願いならばかなうはずはありません。それより今の自分をいかに輝かすように努力できるかが大切です。小さくても素敵な女性はたくさんいます。

 

Q:友人にくらべて劣等感が強く自信がもてません。どうしたらよいでしょうか。?

A:私も高校時代までそうでした。ところがある本の中に「自分を卑下することも慢心の一つだ。」と書いてありました。自分も知らないすばらしい面があることを頭から否定するのは、おごり高ぶりだというのです。普段は意識していない貴女自身の身心に注意を向ける練習をしましょう。“わけない考え方”を身につけて謙虚でありながら自信に満ちた女性を目指しましょう。

 

Q:般若心経の意味を教えて下さい。

A:般若はパンニャとかプラジニヤというインドの言葉を中国人が漢字に当て字(音写)したもので、智慧(ちえ=仏の知恵)という意味です。波羅蜜多はパーラミターの音写で、向う岸(悟りの彼岸)に渡るという意味です。心は中心、経は縦糸のことで伝承された釈尊の教の意味です。内容は「空」という言葉で「この世はすべてが関係しあって存在している。」という縁起の法=わけない考え方を説明しています。

 

Q:要領が悪く勉強と週4日の運動部の練習が両立できるか心配です。どう思いますか?

A:人それぞれなので何とも答えようがありません。私の場合時間がある時いい仕事ができて、忙しいと駄目かというとそうでもありません。かえって逆の場合があります。きっと時間の長さではなく、集中力の問題なのだと思います。仏教の修行もほとんどが意識的な集中力アップの方法を取っているように思います。

 

Q:おしゃか様とあみだ様はどう違うんですか?

A:おしゃか様は2,500年前にインド北部(ネパール)で生まれた歴史上の人物です。彼は宇宙の法則に目覚めた人=ブッダとなり人々に「永遠の生命と無限の向上」を説きました。「あみだ」はア・ミター、数えること量ることができない (無量)宇宙の法則そのものを表わします。おしゃか様はこの「あみだ」を極楽世界の仏として人格的に説いています。「なむあみだぶつ」という念仏をすれば極楽に迎えて下さるという、あみだ様として信仰の対象になっていったのです。

 

Q:結婚しない(つもりの)人には、誰かを好きになる権利ってないんですか?

A:結婚は神仏との誓であり、社会の制度なので権利や条件などが問題となることもあるでしょう。しかし誰かを好きになるのには、権利や条件など何もありません。

 

Q:中学の先生もお寺出身で代々名前に“道”がつくといっていましたが、キマリがあるのですか?

A:ありません。ただし仏教の教えから“道”とつけられた名前も多いようです。ちなみに私の祖父は観道、父は光道といいます。息子は法道と付けました。

 

Q:お化けが出た時「南無阿弥陀仏」といえば、どっか行くんですか?

A:似たような経験をした知人はおりますが、私は体験していないのでよくわかりません。釈尊は死後の世界とか、霊魂については「ある」とも「ない」とも何も語っていません。ただし、人間が何かにすがりつく心は昔も今も変らないものでしょう。信頼するものに頼る時、心が変化して状況が変ることは考えられます。

 

Q:教師の免状をお持ちだそうですが何の教科ですか?

A:大学で歴史を勉強しまして社会科の免状を頂きました。以前は他の学校で社会を担当していたこともありました。博物館学芸員の資格も取りましたが、絵が好きなので美術館に実習に行きました。

 

Q:なんで昔のお坊さんは結婚したり、肉、魚を食べたり、酒を飲んじゃいけなかったのですか?

A:家族や世間の人間関係を絶つことを出家といい、自由にとらわれの無い活動のために結婚しませんでした。しかし仏教はすべての人のためにとかれたもので  す。日本では鎌倉時代に仏教の革新運動がおこり宗派によって結婚するお坊さんが生まれました。異性との接触や飲食物を規制したのは欲望のコントロールをするためと、集団を統制するための手段とされたことが理由として上げられるでしょう。現在でも一生独身で菜食主義のお坊さんはいらっしゃいますが、そうでなければいけないわけではありません。一般の方でも独身のベジタリアンはたくさんいます。

 

Q:教師と生徒の恋愛がもし身近に存在したら、どう思いますか?

A:恋愛に年の差も、立場の違いも関係ないと思っていますので、勧めませんが苦労覚悟ならば止めはしません。

 

 

 

 いろは歌 は諸行無常を悟って精進努力を勧める応援歌です。ひらがな

          のすべてが1回づつ使われ素晴らしい歌になっています。

 

 いろはにほへと ちりぬるを   色は匂へど 散りぬるを

 

              ◇ どんな(栄華=美しい花)も 散り果てる。

 

 わかよたれそ  つねならむ   我が世 誰ぞ 常ならむ

 

              ◇ この世で(誰一人) 常なるものは無い。

 

 うゐのおくやま けふこえて   有為の奥山 今日越えて

 

              ◇ (限りある)世界を 直ちに超越して、

 

 あさきゆめみし ゑひもせす   浅き夢みじ 酔ひもせず

 

                • はかない夢を見ず (快楽)に溺れず 精進しよう。

 

  

 

Q:お坊さんの修行で滝にうたれたり、火の上をはだしで歩いたり、ろうそく一本で暮したりしましたか?

A:私の宗派は「ただ『なむあみだぶつ』と称えなさい。」という教えです。苦行をしたことはありません。ただ念仏の称え方に五体投地といって立ったり座ったり、身体を投出して礼拝する方法があります。3千礼拝など3日ぐらいかけていったことはあります。毎年2月のはじめに私の寺で「1千礼拝の会」をしていますので興味があればおいでください。数年前の暮に東京から京都まで念仏しながら歩いて行きました。今は何回かに分けて、歩いて四国88箇所巡りをしています。でも苦行ではありません。「念仏を称えやすいようにしなさい。」という教えによりその人に合ったやり方でいいのです。だから私みたいな者でも「なんとかしてもらえる。」と信じています。

 

Q:お坊さんは人が亡くならなくても、もうかるんですか?

A:葬式のときになると現れて「戒名料を高く出すといい戒名がつく。」などといってお金を巻上げるヘンな坊さんがいるので誤解されるのも無理はありませんが、お坊さんは商売人ではありません。もうかる、もうからないといった世間の金勘定から離れることを出家=しゅっけ(=出世間)といったのです。ですから仏事は本来ギブ&テイク、つまりお金をはらって、そのみかえりとしてサービスを受ける関係ではありません。仏教を守り広める場所として信者が寄付、寄進をして守ってきたのがお寺です。ですからお寺はお坊さんのモノではありません。住職が真面目な求道者で人々に慕われていれば、お葬式が少なくても自然とお寺は栄えて行くはずです。

 

Q:精進料理は好きですか?

A:ふだんは普通の方と変らない食事をしていますが、たまーに肉や魚を使わない料理を食べることがあります。いつもではあきるでしょうが精進料理はとても凝っていて美味しいものが多いようです。精進とは「努力すること」です。修行をしやすいように、栄養のバランスを考え、傷みやすいもの興奮しやすいものをさけて長い年月を費やして研究調理されてきたものです。美味しいのもあたりまえかもしれません。当然ダイエットにも効果があり、酸性食品が少ないから欧米からも注目されていますよね。

 

Q:どうしても机に向って集中して勉強ができません。どうしたらいいでしょうか?

A:私も全く同じです!すぐ眠くなっちゃうんです。私は目覚まし時計を机の上において、30分とか1時間とか小刻みにセットして勉強するようにしています。集中できないとなかなか時計はすすみませんが、眠っちゃったり、集中できた時は時計がアッという間に鳴り出します。自分の集中度をチェックすることも集中力アップにつながると信じています。その割にはあきっぽい性格で、熱しにくく冷めにくい性格のまま40を過ぎてしまいました。

 

Q:毎日同じことの繰り返しで、学校生活は楽しいけれど、つまらない。毎日の普通の生活をすることはいいことだと思うけれど、この生活をして何になるんだろうと思うことがしばしばです。朝家を出たと思うと、もう家に帰ってきている。短い一日の中でどうやったら何かを見つけ出すことができるでしょうか。

A:道端に咲く同じ花を見ても「なんだみすぼらしい花だ。」と感じる人と「まぁ、小さいけれどなんと可憐なんでしょう!」と感じ、わざわざ採って花瓶に活ける人もいます。朝起きても「なんだ夢か!チェ、昨日と何にも変ってないや。」と文句をいう人とと、「寝たまま死んでしまっても不思議ではないのに、ありがたいことに今日も目覚めることができた。」と感謝する人もいます。社会や周り  の環境があなたに何をしてくれるか待つ生き方を取るか、あなたが積極的に働  きかけ生活を価値あるものに変えていく生き方を取るか、が別れ道の様な感じがします。あなたの考え方の基本“信”を探してみましょう。あなたと同じ漠  然とした退屈、不安を感じている方は多いと思います。しかしそんなこと考えたことも無い人はもっと多いのではないでしょうか?世界中の有名な宗教者、哲学者はあなたと同じ疑問を持った方であったろうと思います。その意味であなたは“真実に生きる”チャンスが到来したとも言えるでしょう。

 

Q:我の強い人を、それとなくおとなしくさせるにはどうしたらよいでしょうか。

A:あなたがその方のために何ができるか考えて実行すること。あなたが変ればその方も変るかも知れません。

 

Q:気を大きくもつには、コツがあるのでしょうか。

A:身体的には、呼吸を深くして脳に酸素を充分送ってやること。それには姿勢をよくして規則正しい生活をしましょう。できればスポーツ等気分転換をはかれるものをするのもいいかもしれない。気持ちの方は、「私だけ…」とか「私なんて…」とマイナス思考に陥らないように、違う見方ができるようにしましょう。「天地が総掛かりで活かして下さる。」「私の命ではなく、宇宙大生命の現れだ。」という“わけない考え方”は気が大きいとは思いませんか?

 

Q:先生は今まで生きてきて、何人の人を本気で愛しましたか?

A:ギク!……「私は本気で人を愛したことがあるんだろうか?」と考えてしまいました。率直な質問はしばしば人をうろたえさせます。私も何度か真剣に愛したつもりになっていたことはあります。しかし後から考えると自分の欲望を「愛」と勘違いしていたこともあります。イエス=キリストが「神の愛」といい、釈尊が「仏の慈悲」という“本物の愛”についても是非勉強してみて下さい。

 

Q:雑誌に暴走族っぽい人が「天上天下唯我独尊」と書いた服を着て写真にうつっていました。仏教徒なのでしょうか?

A:「天上天下唯我独尊」をまちがって「俺様がこの世で一番偉いんだ!」と解釈する人がいます。本当は「私は宇宙でたった一つの命をさずかった尊い存在なのだ」という意味です。本当に命の大切さに気づいたら暴走行為はできなくなるでしょう。他人もまた自分と同じ尊い命を授かっていることに気づくでしょうから。 

                                         

 

Q:“たくはつ”は修行の一つと聞いたのですが、何をしているのですか?お経をとなえているみたいだけれど…

A:念仏や経文を唱えながら、鉢を持って家々を歩き、米やお金の施しを受けることをいいます。“広くほどこす”ことを「布施」といいますが、布施をしたり布施を受けたりすることを通じて“とらわれる心”から解放され安心することを目指しています。私たちは知識とか財産とか「自分の物」を増やすことばかりに夢中になります。そして競争の中で心休まることがありません。「布施」することは「自分の物」を減らすようで損するようですが、実はすべてが“与えられたもの”であったことを気づくチャンスとなります。施すことにより、安心を得る。そのお手伝いをするのが托鉢の僧侶です。神社や寺の“おさいせん”も願い事をかなえてもらうための“料金”ではありません。私も何度か街角に立ったことがあります。街頭募金と違い、ずっと念仏を唱えているだけですのでナカナカ入れてくれません。しかし財布に手がのびる方はけっこういらっしゃいますし、実際に財布を出す方もいらっしゃいます。皆さんの心の中に“ほどこそう”という心も与えられているのです。

 

Q:オバケとかこわい話が大嫌い(こわい)でこまっています。

A:私も大変な怖がりで、いまでもホラー映画とかは見ませんし、遊園地のオバケ屋敷にも入りません。小さい時に妹に怖いマンガを捨ててくるように頼んだことがあり、いまでも笑われています。夏になるとテレビで幽霊の話とか、霊がたたるなどの怖い話をよくやっていますね。おシャカさまは“霊魂”とか“死後の世界”には一切言及されない方でした。私も仏教徒になり“わけない考え方”をするようになるとダンダン怖くなくなってきました。暗闇を一人で歩けばやっぱり怖いですし、霊や幽霊がいるかいないか分りません。でも私は大宇宙の法則、永遠の生命から離れて存在することはできないと思うと妙に落着くことができます。それでも駄目な時は念仏を称えます。「こんな弱虫の私も救って下さる。」と感じられると、恐怖を超えて感謝の心が生まれるから不思議です。

 

Q:先生は何歳まで生きたいですか?

A:昔は50歳ぐらいでいいかな。なんて思ってましたけれど今はできるだけ長生きしたい、と思うようになりました。せっかく人間に生まれてきたのだから精一杯責任を果たしたいと思うようになったからでしょうか。でも「死にたくない」思ってもダメな時は駄目です。病気や事故で早く死ぬ人もいれば、悪人が長生きすることもあります。しかし“永遠の生命”を信じれば「人間」の間の長短はわずかの違いです。無量の命+1歳か、無量の命+90歳か大した違いはありません。いつでも「これからだ。」と思っている人は高齢でも明るいし、たとえ病気や老衰で余命幾許もない方でも夢があります。

 

Q:仏教とキリスト教となんであんなに似ている部分があるのでしょうか?

A:聖者たちは、時代、地域、人種を超える、宇宙の真理を説かれたからでしょう。            

 

Q:「欲」は捨てなければいけないのでしょうか?

A:食欲、性欲、呼吸欲のように生存にかかせないものがあります。仏教では欲望を捨てるのではなく、欲望をコントロールする」ことを説いています。

 

Q:「欲」と「希望」の境界線はあるのでしょうか?

A:仏教では必ずしも欲望を否定していません。しかし自分と他者を分けて、自分の利益になること得になることばかりを追い求めますと、欲望が際限もなく広がり欲望を満足できない苦しみが生まれます。「この世は、すべてのものが関係しあって存在ている。=縁起の法」を信じて、全体の利益を考えるなら小さな欲を抑えて大きな「願い」を起こしていけるでしょう。「私の名前を呼ぶものは、どんなものも必ず救う」という阿弥陀仏の「願い」は何とスケールが大きいんでしょうか!

 

Q:クリスマスパーティーはしないんですか?

A:個人的にはよくやっていました。小さい頃はサンタクロースのプレゼントも届きましたし、父母もクリスマスの飾り付けをしてくれたり、ケーキを買ってくれました。子供ができたらサンタクロースがこれるような家庭にしたいと思います。クリスマスはキリスト(救世主)+ミサ(聖餐式)で聖者降誕のお祝ですから、釈尊やマホメットなど人類の偉大なリ−ダーの出発の日でもありましょう。お寺がクリスマスを祝って、真の意味を伝えるべきかも知れません。

 

Q:なぜ御香を焚くのですか?

A:仏(宇宙の法則に目覚めた人)の完全な徳をたたえ、聖なる地として礼拝の場所を、礼拝する自分の身を清める意味で御香を焚いています。煙が立ち上って行くことから、自分の願いを仏の世界(彼岸)に届けるとも考えられてきたようです。

    香偈(こうげ)

  どうか私の心が香炉のように清らかでありますように

  どうか私の心が智慧の火のように浄らかでありますように

  念々(瞬間の思いの中)に戒と定(身を正し、心を落着ける)との香を焚いて

  十方(全宇宙)、三世(過去、現在、未来)の仏に供養(身も心も捧げます)します。

 

Q:年回法要以外にお寺に来ないようにいわれたのですが?

A:お坊さんが忙しいのでいったのでしょうか?ご供養は毎日できればそれにこしたことはありません。供養したい旨をいってお寺の都合を伺ってから参るようになされば大丈夫でしょう。それでも断られたら、いつでも観智院へおいで下さい。

 

Q:宗派が違っても、お寺のお参りしてもいいのですか?

A:もちろんかまいません。どうぞいらして下さい。

 

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