Q:先生は幼い頃からお坊さんになりたいと思っていたのですか?
A:はいそうです。修養会で話をする祖父や父の姿を見て、また参加されている熱心な信者の方の姿を見て自分もなりたいと思いました。
Q:仏教の本当の基礎の基礎の考え方とは?
A:「分けない考え方」です。「すべてのものは関わり合って存在している。」=縁起
Q:世界には、どのぐらいの数の仏教の学校があるのでしょうか?
A:わかりません。
Q:本当におしゃかさまはワキの下からうまれたのですか?
A:そのように伝えられています。聖者の誕生には、イエスの処女懐胎のように一般の人とは違う伝説が良くあります。「神話だ」と否定するのは簡単ですが、言い伝えには何かしら意味があるものです。当時のカースト制(身分制)は、神に仕える司祭階級のバラモン、武士階級のクシャトリヤ、庶民階級のヴァイシャ、奴隷階級のシュードラに大別されていて、それぞれ身体の、頭、上半身、下半身、足を代表していると信じられていたようです。右手を清浄なることを扱う手とする伝統と、武士階級の中でも王族出身を表すために「上半身の右側=右ワキ」から生まれたと伝えられたのではないかともいわれています。
Q:お釈迦さまがワキから生まれたら、そのお母さんは死んでしまったのですか?
A:7日めに亡くなったといわれますが、原因は分かりません。
Q:木魚はなぜたたかなくちゃいけないのですか?
A:木魚は楽器です。声をそろえたり調子を整えるためにたたきます。たたかなくてもかまいません。魚はまぶたがないので眠るときも目を閉じません。そこから「目覚め」を目的とする仏教では魚の形をした木切れをたたいて、修行の助けにしたともいわれています。
Q:宗教ってはいる、はいらないは自由なのですか?
A:自由です。
Q:木魚の下に敷く布団は何のためですか?こわれないようにするためですか?もっと薄くていいのではないですか?
A:音を少しでも良くするために使っています。使っていると薄くなじんできます。
Q:この世に存在しないものを見たことはありますか?
A:ありません。
Q:木魚の中はどうやってくりぬくのですか?
A:先の曲がったノミを使います。
Q:先生はどうしていつもおだやかな表情でいられるのですか?
あまりイライラしたり、ムカついたりしないのですか?
A:そんなことはありませんが、そうなりたいと念じています。念仏を申すと自然と「体も心も柔軟になり、歓喜の心がわきおこり踊りだしたくなり、善い心が生じる」といわれます。まだまだ修行が足りませんね。
Q:私は心配性で、あがり性です。やはり、先生はそんなとき念仏を称えて落ち着かせているのですか?
A:そう、そのとおりです。
Q:お坊さんの修行で一番つらかったのは何ですか?
A:ごはんを急いで食べることかな。みんな少しでの休みたいのでわずかな時間で食べてました。
Q:お坊さんは離婚してもいいのですか?
A:仏様への誓約をしたのですからいけないのでしょう。何らかの事情で別れねばならないときも、謝って許しを請うべきでしょうね。
Q:めがねはどこで買ったのですか?
A:三越です。
Q:仏教とか、キリスト教だとかではなくて、自分のみが信じる神(自分を見守ってくれている、何か超越した存在のような…)がいてもいいですよね?
A:「なにものか おわしますかは わからねど かたじけなさに なみだこぼるる」という歌があります。素朴な宗教感情をそれぞれが持つことは当然のことだと思います。ただし、気をつけなくてはいけないのは、他者との共通認識がないと危険です。
Q:仏教の教えを聞いている私たちですが、クリスマスをお祝いしてもいいのですか?
A:もちろんです。クリスマスは「キリスト(救世主)+ミサ」ですから、はなまつりと同様、大いにお祝いして感謝しましょう。
Q:受験やテストでの気持ちの切り替えをどうしたらうまくできますか?
A:清沢満之という人は次のようなことをいっています。
「過去のことはあきらめ主義、現在のことは安住主義、未来のことは努力精進主義」
終わったことをくよくよしてもしょうがありません。現在は今の実力で勝負するしかないと腹をくくるしかありません。未来のことは大いなる願いを起こして、希望を持って努力する姿勢が大切です。貴女が全力を尽くしたら、入るもは入らぬもむこうの責任です。次をめざしてGO!
Q:人が死んだときにつける戒名はどうしてあんなにお金がかかるのでしょうか?キリスト教との比較で葬式にかかる費用が違うのをテレビで見て、私だったら残る人の負担を考えると安い方がいいと思うのですが。
A:戒名は仏教に帰依したときに授かる名前(ブディストネーム)ですから、死ぬときにつけるものではありません。ですから仏教徒の私はもう戒名があります。純粋に費用としてだけ考えるなら、貴女のおっしゃるとおり安いにこしたことはありません。純粋な費用と布施をきちんと説明していく努力が必要ですね。戒名料という料金はありません。仏教徒が施こしをする行を布施といいますが、これが料金だと思われるようになってしまいました。布施に対価はありません。「たくさんお金を出した人がりっぱな(と思われる)戒名をもらい、わずかなお金しか出さないと貧弱な(と思われる)戒名しかもらえない。」という誤解がまかり通るようになってしまいました。一つには遺族の見栄や故人を立派に送りたいと言う願望が原因でしょう。もう一つは、江戸時代に檀家制度が確立し、寺を護持するメンバーとして各家が相応の金額を出すようになっていったのだと思われます。
Q:動物はなにが好きですか?
A:静かなライオン
Q:先生は今までに、仏教というものが嫌になって、逃げ出したいと思ったことはありますか?
A:ありません。ただし一瞬ですがカケオチを考えたとき、すべてから逃げる自分を想像しました。
Q:おしゃかさまは本当にいたのですか?そんなにすばらしい人だったのでしょうか?
A:インド各地で遺跡や碑文から、実在したであろうと考えられています。すばらしいかどうかは、その教えをすばらしいと受け入れるかどうかによるのではないでしょうか。
Q:挫折からどう立ち直ったのですか?
A:念仏の中にいやされていったのだと思います。苦しい心の痛み、礼拝や東海道行脚の足の痛みが、ふと自分の痛みでなく「仏様が私を痛ましく思い、哀れんでくださっている痛み」であると思えた一瞬がありました。それから友人が一緒に悲しみ、励ましてくれたことが大きかったと思います。
Q:家族の仲がうまくいきません。いつも誰かしら喧嘩していて、毎日のように胃薬を飲んでいます。私も受験が近いので、一つ一つ落ち込まない強い精神力がほしいのですが、どう自分に言い聞かせればよいか教えて下さい。
A:日常五心の言葉は、なかなかでないものですが、心がけて口に出しましょう。そして貴女だけでも毎日念仏を称えてみて下さい。必ず変化があります。「こんな私なんて…」と落ち込むときもありますが、「そんな私をこそ救って下さる…」と仏の願いを信じ、上昇思考になれればしめたものです。私は夜寝るとき、この上昇思考になったら考えをストップして休みました。「でもやっぱりダメだ。」とは考えないことです。もし考えてしまったら、「そんなダメな自分を救って下さる…」と必ず考えましょう。いや念仏も申すうちにそういう自分にならせていただけます。
ジャン、ケン、ポン! 石、紙、はさみ
石は、紙には負けるが、はさみには勝つ。 紙は、はさみには負けるが、石には勝つ。
はさみも、石には負けるが、紙には勝つ。
それぞれ、一つには負けるが、他の一つには勝つ。弱いばかりでない。必ず一つの勝ち目、強味があるじゃないか。いつも負けづめとは限ったものではない。必ず一つは勝味がある。だから嘆くことはいらぬ。悲観するものでない。人間には誰でもそういう大特徴がある。他の誰にも負けぬ大長所、幸福が封じ込められている。だからこの幸福、この威力を発揮したら、誰にも負けぬ幸せになれる働きができる。
それを、いつも、「負ける」方ばかり見ている。石は紙に負ける、紙ははさみに負ける、はさみは石に負ける―と負ける負ける負ける―方ばかり見ているから、それで自分を棄てて、自分が縮み、気が腐って行くのです。負けることを考えるのもいい、しかし「勝っている」方をも考えよ。
「私はこういう点も恵まれている。こういう点も与えられている、こういう点も有難い」と自覚するがいい。
人間は過去に与えられたもの、現在に与えられているものだけで悲しんだり、喜んだりしてはいかん。そんなものは、コレカラ進んでゆく上の土台だ。コレカラ発揮して行く「幸福」の十分の一か、百分の一にしか過ぎぬ。