なむあみだぶつ=真心より阿弥陀仏に身も心も捧げます。

 私達の運動を真生といいます。真に生きるとは、仏子の自覚にたって真実の道に生きるの謂いであります。浄土に往生するというのも畢竟この真生のことであります。何故に私達は往生といわず真生というのかと申しますと、それは今日では往生とは普通には「くたばる」事と思っているからです。(中略)かく往生といえば余りにも誤解がおおいので、私達は阿弥陀仏の本願によって解脱し、生き甲斐のある人生を送ることを真生と名付けたのです。法然上人の信仰はあくまでこの真生の道を説かれたので、いわば私達の真生運動は法然上人の宗教を現代に徹底させんがための運動であります。                                                                                                   土屋観道上人

 生みの親、育ての親、教えの親である、あなたの尊きお名前に身も心もささげます。(南無阿弥陀仏)最も尊く唯一(三身即一)の大ミオヤ(如来さま)よ。あなたのいらっしゃらないところはありませんから、今現にここにいらっしゃることを信じて、一心に恭しく礼拝いたします。あなたのみ威力とみ恵みをこうむり活き働ける私は、我が身と心との総てを捧げてお仕えいたします。どうか(霊性を開発され)あなたのみ栄えを現す人となれますように。大ミオヤよ、どうか勤めを果たす聖なる恩寵をお授けください。 (真生礼拝儀 帰命章 山崎弁栄上人 より意訳)

 仏教は、2500年前にヒマラヤの麓で生まれたシャカ族の王子、ゴータマ・シッダールタが開いた教えです。「すべてのものは関わりあって存在している。」(=縁起の法則)、そして「すべてのものにはかけがえのない価値がある。」(=天上天下唯我独尊)、そのことに目覚めた人をブッダ(仏)といい、ブッダと成ること(成仏)をめざして修養を怠らないことを求めました。禁欲主義、快楽主義に偏ることを避け(中道)、苦しみ、苦の原因(集)、苦が取り除かれた状態(滅)、苦を除く方法(道)を明らかに見て実践することを説きました。

 ブッダと成る目的のために、いろいろな実践方法取られましたが、厳しい修養を積んだ極わずかのもののみが成仏するという思想(聖道門)。修養のかなわない人々が、ブッダに成った人の大いなる願い(本願)に乗じて修養のしやすい仏の国に生まれ変わって成仏を目指す思想(浄土門)が生まれました。日本において後者の教え、誰でもが救われ仏となる道を示されたのが、法然、親鸞、一遍という鎌倉新仏教の祖師方でした。乱世において浄土往生を願う浄土門の教えは庶民の信仰を集め、現在も日本の仏教の主流をなしております。しかし現世を厭い死後の往生のみを願う未来教との謗りを受けたり、阿弥陀仏が諸仏の中の一仏と狭義に解釈され、現実の生活には関与していないかのような誤解を生じることもありました。

 山崎弁栄上人は自らの信仰を光明主義、円具教と呼びました。法然上人の阿弥陀仏観にもとづき、阿弥陀仏を唯一の大御親(オオミオヤ)とし、諸仏のなかの一仏としての阿弥陀仏ではなく、諸仏の根本仏であり、いわば宇宙の大生命である、ととらえることに独自の視点があります。そして、この大御親(オオミオヤ)の知恵と慈悲の光明のなかに生きていくことが光明生活で、そのために念仏三味がすすめられ、三味発得がもとめられました。

 土屋観道上人は山崎弁栄上人の晩年数年にわたり起居をともにし、光明主義を受け継ぎさらに、現実の生活即宗教という信仰運動を展開しました。これを真生運動といい、全国に布教伝道、修養会講演会の隆盛により信者が支部を結成し大正15年、真生同盟の組織化がはかられました。土屋上人を助け機関誌「真生」の創刊編集に尽力されたのが中野善英上人です。昭和14年土屋上人が請われて観智院第21世住職となり真生同盟本部として現在に至っています。

 観道上人の法嗣土屋光道上人、善英上人の法弟関谷喜與嗣上人のご指導のもと、宗派を超えた念仏のネットワークとして、新世紀の宗教を目指して念仏修養会を続けています。