真生同盟の歴史について、『浄土宗布教伝道史』より紹介します。

(1)光明会

(2)真生同盟

(3)一味会

 光明会と山崎弁栄

(1)、光明会
 山崎弁栄(1859〜1920)、安政六年二月に千葉県東葛飾郡沼南町字鷲谷(鷲野谷)に誕生した。幼名は啓之助。父嘉平は熱心な念仏者で毎朝日課念仏3000遍をならいとし、母なおも、夫嘉平、祖母てふの影響で、よく念仏を申した。こうした幼少児期の体験が、山崎の宗教体験の基礎になったことは容易に推測される。晩年の思いでに、12歳の秋彼岸に、空中に三尊の尊容を拝み見たことを述べている。このことからしても、早くから仏教への関心が強く、そうした意識が神秘的な体験を生んだものであろう。また、手習い、勉学に熱心で、父親の農業を手伝いながら寸暇を惜しんで学問にはげんだ。それは漢籍にとどまらず、近所の浄土宗医王寺、真言宗善竜寺へ行き仏書に親しんだ。こうした少年期を過して出家への思いがつのり、明治12年11月(21歳)小金東漸寺静誉大康(大谷)によって、医王寺(住職山崎徳恵)で得度し、弁栄を名乗ることになった。
 明治14年、東京に遊学し、増上寺学頭寮(福田行誡)、浅草日輪寺、田端東覚寺などで勉学に勤めた。このあいだも念仏精進は怠らず、翌15年8月には医王寺の薬師堂で参籠修行(三七日といわれる)し、8月未には筑波山で2カ月の念仏三味修行を行っている。こうしたのち同年11月に小金東漸寺で宗戒両脈を相承した。
 同16年には宗円寺で、一切経7334巻を読誦し、同18年6月に小金東漸寺に戻った。この間に師の大康が逝去したために、百日の別時念仏を行った。このとき26歳であり、山崎の基本的な思想が形成された時期でもあった。
 明治18年初冬には、五香の説教所を復興し、新寺(後の善光寺)建立を発願し資金勧募を始めた。その活動は主として説教所のあばら屋で念仏に励むことと、勧募であった。勧進一厘講、真実講などを設けて、米粒やごま粒に名号、『般若心経』、歌などを書き(米粒細字)、また守り本尊などを書いて勧募の資とした。さらに、この時期に、浄土宗本校(現・大王大学)が芝増上寺山内天光院の堂宇から、小石川伝通院山内に移転(明治20年)するのにあたり米粒細字、書画等をもって資金勧募をして協力した。
 こうした師の勧募の旅が伝道の始まりであった。この時期以後は伝道生活に入り、明治27年12月にインド仏跡参拝に出発し、翌28年3月に帰国するまでの間を除いて、大正9年の逝去までたえない伝道の日々が続いた。なかでも青少年の教化伝道には特に熱心で手風琴で仏教唱歌をうたわせたり、「青少年のために仏種を下さんとの志し」で、明治30年に『訓読阿弥陀経図絵』を印刷(発行印刷は竹川弁中)して、施本伝道を行った。この本は明治45年までに25万部を印刷し施本したが、大正4年に『如来光明礼拝儀』が作られて以後はこれに変わった。


光明会としての組織化

 明治24年に念願の善光寺が建築され、住職に任命されるため、山崎は教師補に叙任された。これによって、山崎は浄土宗教師になったのである。しかし、その住職としての業務は、五十嵐雲海、伊藤桂一郎(心如)等の院代に任せて、自らは各地の伝道に専念した。大正7年7月に時宗当麻無量光寺住職に就任するが、将来の伝道使養成のために、光明学園の開設(大正8年4月)を計画し、資金は画会を開き仏画の頒布によった。この伝道の過程で、山崎に傾倒する信者の集団がうまれ、早いものでは、明治31年頃に大垣心光団がつくられ、明治41年には千葉県松戸の各宗合同の青年会として心光教会が組織された(山崎は、この後如来心光教会主唱者の肩書きを使用している)。しかし、光明会としての組織化は、山崎が光明主義の信仰を広めるため大正3年に「如来光明会趣意書」を発表し、光明主義の運動を開始して以後のことで、具体的な組織化は同10年に九州光明会が設立されて以後といえる。昭和7年「全国光明主義青年団」「財団法人光明修養会」が組織されたが、全国的な統一機関ではなかった。戦後になって、光明会の再建が計画されて、ようやく昭和27年に全国組織として「光明会総連合会」が結成されたのである。昭和31年に「財団法人光明修養会」と「全国光明会総連合会」(小林義道理事長)が合併して、財団法人光明会が形成され、現在に到っている。山崎滅後の指導者には、初代総監・上首に笹本戒浄が就任した。
 山崎は自らの信仰を光明主義、円具教と呼んで、すべての宗教にまさるものとした。法然上人の阿弥陀仏観にもとづいた十二光仏体系を中心にすえ、阿弥陀仏を唯一の大御親(オオミオヤ)とし、諸仏のなかの一仏としての阿弥陀仏ではなく、諸仏の根本仏であり、いわば宇宙の大生命である、ととらえることに独自の視点がある。そして、この大御親(オオミオヤ)の知恵と慈悲の光明のなかに生きていくことが光明生活で、そのために念仏三味がすすめられ、三味発得がもとめられる。


山崎の宗教思想

 山崎の宗教思想は、大正3年『如来光明会趣意書』を著わし、「この教団は如来という唯一の大御親を信じ、その慈悲と知恵との心的光明を獲得し、精神的に現世を通じて、永遠の光明に入るの教団なり、その大御親とは字宙唯一の霊体にて、心霊界の大日輪なり」と述ベ、また光明会の勤行式である『如来光明礼拝儀』に端的に表されている。この勤行式は、大正4年に「光明会礼拝式」として美濃で出版され、翌年に改訂を加えてほぼ現今の形にまとめられた。この教えの中心をなすのは、「如来光明歎徳章」で、そこに説かれる無量光仏以下の十二光仏にもとずいた「如来十二光の讃頌」が、山崎の宗教思想の中核をなしている。
 なお、山崎の米粒名号は安産のお守りとして受けとめられたり、壬辰(みずのえたつ)の日、辰の刻にかかれた一字竜は火伏せの竜で火難よけとされた。また、病人への加持祈祷をおこなうこともあったが、呪術的な思考法によるものではなかった。晩年のことであるが、「宗教家は奇跡を現わさなくてはつまりません」と述べ、現世利益を認めるような発言をされているが、「予言ができるとか、病気がなおるとか、そんな奇跡がなんの価値がありましょう。凡夫が仏になる。これほど大きい奇跡がまたとありましょうか」と、阿弥陀仏信仰の絶対性を説いている。

 


真生同盟

(2)、真生同盟
 真生主義の運動は、大正10年に、増上寺山内の学寮である多聞室(院)住職であった土屋観道が日魯漁業社長堤清六の寄贈によって、神田駿河台に、如来中心主義の看板を掲げた説教所「光明会館」(光明教壇)を開設したことに始まる。
 土屋は明治45年に椎尾弁匡の導きによって宗教大学(現・大正大学)に編入し、中島観しゅう(王秀)の弟子となって得度を受け、翌年より中島の仮偶する鑑蓮社に移って修行に入った。鑑運社は常念仏の寺として知られ、住職であった大谷文祐と中島は、毎日朝8時から午後4時まで、在家を中心として常念仏を行い、毎月18日と25日には念仏のほかに説教を行っていた。
 こうした宗教的環境に恵まれて、土屋の念仏体験は深まっていくが、土屋の信仰確立に影響を与えたもう1人の人物に、光明主義を説いた山崎弁栄がいた。山崎弁栄との出会いは、大正4年の正月であり、土屋が29歳のときであった。その年の6月に山崎弁栄がおもむいた越後寺院の仏教講習会に随行し、翌5年には困窮していた山崎を中島のゆるしを受けて、増上寺山内の多聞室に迎えて起居をともにした。山崎はその年から大正9年12月の遷化まで多聞室に籍を置いていた。同7年には中島も多聞室に入って、「聖者の家」の表札を掲げて念仏会を開き、また同年より知恩院で別時念仏会を開催している。こうして土屋はタイプの異なる二人の念仏者に師事した。中島からは伝統的な信仰と念仏を、そして山崎からは浄土教信仰の現実的意義にささえられた念仏である光明主義を学んだ。


真生主義の提唱

 土屋が「光明会館」を開設して伝道を開始したのは、山崎が柏崎極楽寺で入寂した翌年の大正10年である。当初は山崎の運動を継承するものであったが、間もなく真生主義を提唱して独自の活動を始めた。光明会館を開設した当初は、「若き集まり」と題して自由倶楽部を設け、一般の人々の自由聴講を行った。同時に、土屋は自らの宗教思想の体系をはかり、それを図式化した大宝曼陀羅を完成して、真生主義の運動理念とした。翌11年1月に機関誌『真生』を発刊して真生主義運動の拡大につとめると共に、全国に伝道行脚を始め、専修念仏会、修養会、講演会を行った。同14年10月に真生主義の組織化をはかり、真生同盟の結成を計画して各地に伝道を続けた。翌15年に真生同盟大阪支部が結成され、その綱領規約がつくられ、支部機関誌として『光明』が発刊された。同年11月には『信条の綱領』が発表されて、真生同盟の基本的な運動方針が定められた。昭和8年には、国内では東京を始めに、23力所の同盟支部が、海外では朝鮮の仁川に支部が設けられた。同16年に真生同盟本部道場が増上寺山内観智院に設けられた。昭和44年2月に土屋は82歳で正念往生した。


土屋観道の如来中心主義

 土屋の如来中心主義の理念は、念仏の実践にあらわされている。日課念仏と共に、別時念仏がすすめられた。信州唐沢山阿彌陀寺で初めて一週間の別時念仏会を行ったのは、大正5年、土屋の29歳の時であった。真生主義運動を開始してよりのちは、同盟の人びとも集まって正味1週間、前後をあわせて9日間(戦後は5日間)の別時念仏会が続けられた。機関紙『真生』は大正11年に創刊され、現在まで264号(毎月1回)を発行している。(平成11年7月現在 367号)


  土屋は、「法然上人の宗教と真生」のなかで、

私達の運動を真生といいます。真に生きるとは、仏子の自覚にたって真実の道に生きるの謂いであります。浄土に往生するというのも畢竟この真生のことであります。何故に私達は往生といわず真生というのかと申しますと、それは今日では往生とは普通には「くたばる」事と思っているからです。(中略)かく往生といえば余りにも誤解がおおいので、私達は阿弥陀仏の本願によって解脱し、生き甲斐のある人生を送ることを真生と名付けたのです。法然上人の信仰はあくまでこの真生の道を説かれたので、いわば私達の真生運動は法然上人の宗教を現代に徹底させんがための運動であります


と述べている。
 この文によれば、真生主義運動は、法然上人の教えを正しく現代に受け継ぐことであった。つまり「従来の浄土教は未来教に立ち、仏の本願は息が切れてから浄土へ往生さしく(ママ)呉れる所にあるように考え、浄土は死後でなくては往く事が出来ぬ所である。そして此の世は闇の世、苦しみの世界であると思っていた。これは自分の目が曇っていたためで、1歩進んで眼さえ開けば、光明はどこにもここにも充ち満ちて居たのである。現実の世界でそのまま助かる道は眼前に展けている。(中略)如来の光は信仰のない人にも、ある人にも等しく照りそそいでいる。すなわち一切衆生が仏の恵みに浴しているのである」と、来世に重心を置くのではなく、現世つまりこの世で如来の光明の裡に摂取されていることを述べている。その信条は真生同盟の経典ともいうべき『真生禮拝儀」をみれば光明会とほぼ同様であって、如来中心主義に貫かれている。そしてそれは同経典の巻頭に掲げられた『信条の網領』に明確に示されている。

 

一味会


(3)、一味会
 一味会は、土屋観道の主唱する真生同盟の運動に携わっていた中野善英(号、剋子)によって、大正15年初頭に創始された運動で、その目的は、天地大宇宙のいのちの根源(阿弥陀如来)に向かって帰依、畏敬し、それを宗教即生活に高め、人間生活をその使命遂行のために生かし、社会発展に寄与する霊的存在として行くことである。その実践行としては、念仏を中心に据え、特に念仏の称え方には、独自性がいろ濃くあらわれている。
 大正10年、土屋観道が神田駿河台に説教所「光明会館」を設立すると、その運動思想に共鳴した中野は、会館に居住し、毎週開かれる定例講演会、座談会の運営と土屋の留守番にあたった。土屋が全国に布教するあいだは、中野が講演会、座談会を行うかたわら、エスペラント学校、愛の園、自由倶楽部(宗教図書館)を開設した。翌年2月、同運動の月刊機関紙『真生』創刊に際しては奔走し、編集並びに後記、発送を大野顕道とともに担当した。


一味会の創設

 このように真生同盟の活動を担うとともに、さらに伝道の熱意の止まぬ中野は、大正14年11月、愛知県津島の西光寺を本部道場として、一味会を創設し、月刊機関誌『一味』を創刊した。ここに40年以上にもおよぶ、真生同盟と二重構造を持った独自性の強い一味会の求道と、伝道の活動が開始された。中野の活動は、津島に帰るのは月2回ほどで、全国の各宗各派寺院や個人宅、工場などでの超人的布教活動をつづけた。さらに、各地の拠点寺院で別時念仏道場を開設し、「念仏廻状」という各地信者の組織化を図ったり、掲示伝道、カレンダー、手書葉書や善英自作の法語とカットの人った葉書の領布といった文書伝道や教えを簡潔に表した図表を大量に作成するなど、実にアイデア豊かなさまざまな伝道の形式を考案し、独自の伝道を展開していった。
 昭和41年4月、中野は68歳で正念往生を遂げたが、西化の1年前に書かれた「告別之辞」のひとつには、「会いたくばナムアミダ仏と称ふべし、私がアナタあなたが私」とある。一味会の会員資格は、機関誌『一味』の講読者をもって会員としている。戦前の最盛期には、平常時1万部、正月号は3万部の発行を記録している。
 一味会の実践活動は、昭和4年から始められた。津島本部道場で毎年1度4月3日間にわたる全国大会(津島大会)がある。現在では13〜15日に行われ、大会後に参加者は手印をおしているが、初期は血判を押していたという。その他比叡山飯室谷で行われる念仏行は、同14年10月から始められた。現在は秋彼岸に3日間行われる。このほかに徹宵念仏の中秋大会(初期は、決死道場)、毎月第1土曜、日曜日の月例念仏会、正月元旦〜4日の新春の集いがある、中野は、以上の他に大阪、名古屋、唐沢山での念仏道場や三大決死道場といわれる山の念仏が九久山・二の宮・播隆山で行われている。この他、個人的なものとしては、全国各地の信者宅で毎朝同時に集まって行う朝参り念仏会(旧名、回願同行会、次いで大願大行会と改称)が行われている。

中野善英の宗教思想

 中野にとって阿弥陀仏信仰は、死後の極楽往生のためでも、追善供養のためでもない。「宗教のなかから常に、個人が目醒め、家庭、国家、社会が、正しい方向へ進んでいく実績が出て来なければ」ならない。こうした宗教観の中から生まれたのが、中野の唱導する「一味」の教えで、「一味哲学」とも呼ばれる。中野の西化後に編纂された『宗教図鑑一味哲学体系』によれば、一味とは、「天地は一心一体一生命一活動なり、これを神と云い仏と云う、又道と謂い教えと言う」という本態論(一味)に始まり、現象論(二道)、宗教論(三誓)、さらに信念論、実践論へと展開する、極めて精緻で独創性の強い教義体系である。それは、換言すれば、大地大宇宙のいのちの根源に対して帰依畏敬し、それを宗教即生活に高め、社会発展に寄与する生活を実行することである。これを具体的な「信仰の七ッの命題」として、中野は、「現実生活の物心両面で良くなりたいという目的で(なぜ信ずるか〉、仏を(何を信ずるか)、今(何時)、ココで(何処)、白分が(誰が)、往相の念仏を称えることによって(如何に)、還相の念仏という如来中心の現実生活となる(結果はどうなる)。」と、念仏を中心とした信仰生活のありようを説き、現実生活での実践を主張した。
 この一味という宗教理念の実践は、念仏に具体化された。中野の独創牲はここにも発揮されている。中野は、念仏の称え方を正調念仏と大念仏とに分け、それぞれ理想的な時間と回数を規定した。正調念仏は、禅と静坐を坐相の基礎とし、1分間に60遍の念仏を称えるのを正調とする。1分間を20秒ずつ3部に区切り、それぞれについて20遍の念仏を称える。20秒は、1念仏を1秒に称え17回連続し、その間息を吐き続ける。残りの3秒間は息を吸いながら無声念仏を3遍、木魚は打ち続ける。こうして無声有声含わせて60遍の念仏を称え続ける。


大念仏

 一方大念仏は、浄土宗の「(念仏を)ただ申せ、申すだけで救われる」との言葉をさらに深く追求し、その称え方を工夫検討してしたものである。昭和10年来検討を重ねたもので、16年の比叡山の飯室道場の結衆を記念して発表された。これは、弾誓念仏を基本とし、徳本流、河崎念仏、光明会念仏を調和し、禅と静坐を基礎として、呼吸と脈拍とを基とした発声法によって、大音声を発し、全身が一体となり、天地の大生命活動に貫通して心身の大調和を招来する念仏である。善英は遷化の直前、正調念仏と大念仏を組み合わせた「一味道大念仏」を別時会以外の通常の例会でも行うことを提唱した。

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