托  鉢
■ 曾良随行日記 ■ 
一 十六日 天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ 被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。高久ニ至ル。 雨降リ出ニ依、滞ル。此間壱里半余。宿角左衛門、図書ヨリ状被添。

一 十七日 角左衛門方ニ猶宿。雨降。野間は太田原ヨリ三里之鍋かけヨリ五、六丁西。

一 十八日 卯尅、地震ス。辰ノ上尅、雨止。午ノ尅、高久角左衛門宿ヲ立。 暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯元へ三リ。未ノ下尅、湯元五左衛門方ヘ着。

一 十九日 快晴 。予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽へ戻ス。午ノ上尅、湯泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬(射)残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。 宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、温也ノ由、所ノ云也。
  温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、雨(両 )神一方ニ拝レセ玉フヲ、
    湯をむすぶ誓も同じ石清水   翁
  殺生石
    石の香や夏草赤く露あつし
  正一位ノ神位被加ノ事、貞亨四年黒羽ノ館主信濃守増栄被寄進之由。祭礼九月二十九日。

一 廿日 朝霧降ル。辰中尅、晴。下尅、湯本ヲ立。ウルシ塚迄三 リ余。 半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不知シテ難通。
  一 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ (十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)、八幡ノ大門通リ之内、左ノ方ニ遊行柳有。其西ノ四五丁之内ニ愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也 (市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。)
  一 芦野ヨリ一里半余過テ、ヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。
  一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。 小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関を尋て白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル(旗ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝。)

一 廿一日 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉 嶋ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。聖武天皇ノ御願寺、正観音ノ由 。成就山満願寺ト云。旗ノ宿ヨリ峯迄一里半、麓ヨリ峯迄十八丁。山門有。本堂有。奥ニ弘法大師・行基菩薩堂有。山門ト本堂ノ間、別当ノ寺有。 真言宗也。本堂参詣ノ比、少雨降ル。暫時止。コレヨリ白河ヘ壱里半余。中町左五左衛門ヲ尋。大野半治ヘ案内シテ通ル。黒羽ヘ之小袖・羽織・状、左五左衛門方ニ預置。 置。矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。 今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。
  ○白河ノ古関ノ跡、旗ノ宿ノ下里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。是ヨリ丸ノ分同ジ。
  ○忘ず山ハ今ハ新地山ト云。但馬村ト云所ヨリ半道程東ノ方ヘ行。阿武隈河ノハタ。
  ○二方ノ山、今ハ二子塚村ト云。右ノ所ヨリアブクマ河ヲ渡リテ行。二所共ニ関山ヨリ白河ノ方、昔道也。二方ノ山、古 哥有由。
    みちのくの阿武隈川のわたり江に人(妹トモ)忘れずの山は有けり
  ○うたゝねの森、白河ノ近所、鹿島の社ノ近所。今ハ木一、二本有。
    かしま成うたゝねの森橋たえていなをふせどりも通はざりけり(八雲ニ有由)
  ○宗祇もどし橋、白河ノ町(石山より入口)より右、かしまへ行道、ゑた町有。其きわに成程かすか成橋也。むかし、結城殿数代、白河を知玉フ時、一家衆寄合、かしま ニて連歌有時、難句有レ之。いづれも三日付ル事不成。宗祇、旅行ノ宿ニテ被聞之て、其所ヘ被
趣時、四十計ノ女出向、宗祇に「いか成事にて、いづ方へ」と問。右ノ由尓々
    女「それハ先に付侍りし」と答てうせぬ。
    月日の下に独りこそすめ
    付句

    かきおくる文のをくには名をとめて
と申ければ、宗祇かんじられてもどられけりと云伝 。
 ■ 奥の細道登載句 ■ 
 
■ 曾良の細道 ■ 
 那須湯本での2日目、曾良さんは「托鉢」に出た。
 旅装束は僧形だったからそれ自体に違和感はないが、なぜだろう、という疑問は消えない。懐が心細かったのか? そんなはずはない。黒羽を出発してからまだ3日、財布はむしろ重過ぎるくらいだろう。それに托鉢で得る金額など知れたもの、二人の糊口をしのぐほどにはとても及ぶまい。
 目的はお金ではなく食料ということも考えられる。那須湯本は温泉地だ。当時の温泉は、湯治が目的だから基本的には自炊である。だが、金さえあれば、その辺はどうにでもなったのではないか。
 では、なぜ?
 いよいよ「みちのく」に踏み入るにあたり、曾良さんは、万一飢えたときのために練習をしたのではないか、といわれている。なるほど。それは考えられる。なにしろ曾良さんは第一級の秘書、そういう時の危機管理も徹底していただろう。
 もっと納得できる解釈もある。芭蕉「忍者」説だ。「托鉢」に名を借りて情報収集ではないか。つまりこのようにして、芭蕉翁も曾良さんも時折不可解な行動をとるという。うん、あたしは、こっちのほうに一票を投じよう。(^0^)
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