旅 立 ち |
■ 曾良随行日記 ■ |
巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住ニ揚ル。 一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。 江戸ヨリ九里余。 一 廿八日、マゝダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入 。 一 廿九日、辰ノ上尅マゝダヲ出。 一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。 一 小田(山)ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。 一 此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカゝリ、室ノ八島ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。 一 壬生ヨリ楡木へ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。 一 にれ木ヨリ鹿沼ヘ一り半。 一 昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火(文)バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石へ弐リ。 ) 一 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日曇、午ノ尅、日光ヘ着。雨止。清水寺ノ書、養源院ヘ届。大樂院ヘ使僧ヲ 被レ添。折節大樂院客有レ之、未ノ下尅迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。壱五弐四 。 一 同二日 天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出 。ウラ見ノ滝(一リ程西北)・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈(那)須・太田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカゝルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左ヘノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村へカゝリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。 ○今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。 ○大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡し。 ○船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強、漸ク玉入ヘ着。 一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル 。 |
■ 奥の細道登載句 ■ |
剃捨て黒髪山に衣更 曽良 |
■ 曾良の細道 ■ |
![]() 大混乱の原因は、このメモの冒頭にあった。すなわちこのメモは上記のような記述で始まる。つまり出発日だ。「おくのほそ道」本文には出発は「弥生も末の七日」と記されている。ところがこのメモでは「巳三月廿日」とある。この七日間の差をどう読み解くか。 いくつかの可能性が考えられたが、現代の研究者の大方の結論として「曾良が書き間違えた」ことに落ち着いているようだ。だが、私はこれは第一級の「秘書」河合曾良をあまりにも低く見る無礼な濡れ衣だと思う。 もう一度上の文章をよく見てほしい。 これは曾良さんの「奥の細道随行日記」といわれているが、曾良さん自身はそんなことは一言も言っていない。つまり後世の研究者たちが勝手に名づけたものだ。そしてその呪縛に自らはまり込んでしまった、とあたしは考える。 いいかい、これは日記ではなく、曾良さんのメモなんだ。日記風に日付が入っているが、それはその日付の日にあったこと、予定されたことであって、必ずしもこれを書いた日を意味しない。 もうおわかりだろう。 「奥の細道」の旅は、前年暮から準備が開始された。旅の目的は「陸奥」の歌枕を訪ねることだったが、ほとんど未知の国のこと、詳細な計画は立てようもなかっただろう。が、いつ出発するか、くらいは決められるものだ。出発日を「三月廿日」と定め、これに向けてすべての準備を整えた。 芭蕉翁は、帰ってくるつもりもなかったから、家も売った。曾良さんもそうしただろう。そして計画通り出発した・・・ のに、ぐずぐずしていたのは芭蕉翁のほうだ。天気がどうの、手紙がこうの・・・ 決めたことを守らない翁に文句の一つも言いたいところだが、秘書として曾良さんは冷静だった。芭蕉翁がどう云おうと旅はすでに始まっているのだ。翁は道草を食っているに過ぎない。静かに待っていればいい・・・ つまり曾良さんはこのメモの冒頭に予定を書いただけなのだ。証拠? 文章の冒頭、他の日は段落を区切って「一 ・・・」と書いているのにここだけ「巳三月廿日」といきなり書き出しているではないか。 翁が道草を食っている七日間、曾良さんは何をしていたか、それはわからない。「随行日記」は実に克明だが、翁のこと、その日の出来事、見聞きしたことは書いてあっても、自分のこと、自分の感想などはほとんど書いていないからだ。影のように寄り添って、すべてを取り仕切る、それが秘書役河合曾良の真骨頂というものだろう。 ところで写真、与謝蕪村の俳画として有名だが、ここに描かれた曾良さん、小さすぎて小坊主のようだと思わない?(^0^) 芭蕉翁を誇張して大きく描いたのだろうが、旅立ちの日現在、芭蕉翁46歳、曾良さん41歳。二人とも当時としては「ジイサン」といってもよい年頃なのに、ね。 「曾良は河合氏にして・・・」と、芭蕉翁は「おくのほそ道」で紹介している。 だからわれわれは、常識的に芭蕉翁の「奥の細道」の旅の随行者は、「河合曾良」という名だと思っており、また一般的にもそう考えられている。ところが曾良さんの本名は「岩波庄右衛門正字」。複雑な家柄の生まれゆえか、養子縁組などで何度か姓氏が変わるが、「河西」姓はあっても「河合」姓はない。これ、芭蕉翁の創作か、または曾良さん自身に「河合惣五郎」と名乗らねばならない事情があったと考えられる。 どんな事情かはわからないが、このあたりの不可解さをもって、芭蕉、曾良一行の「忍者説」が生まれるのだろう。 |
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