越後路
■ 曾良随行日記 ■ 
一 廿五日 吉。酒田立。船橋迄被送。袖ノ浦 、向也。不玉父子・徳左・四良右・不白・近江や三郎兵・かゞや藤右・宮部弥三郎等也。未ノ尅、大山ニ着。状添而丸や義左衛門方ニ宿。夜雨降。

○廿六日 晴。大山ヲ立。酒田より浜中へ五リ近し。浜中ヨリ大山へ三リ近し。大山 より三瀬へ三里十六丁、難所也。三瀬より温海へ三リ半。此内、小波渡・大波渡・潟苔沢ノ辺ニ鬼かけ橋・立岩、色々ノ岩組景地有。未ノ尅、温海ニ着。鈴木所左衛門宅ニ宿。弥三良添状有。少手前 より小雨ス。及暮、大雨。夜中、不
止。

○廿七日 雨止。温海立。
翁ハ馬ニテ直ニ鼠関 被趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及暮、中村ニ宿ス。

○二十八日 朝晴。中村ヲ立、到蒲 ・(名ニ立程ノ無
難所)。甚雨降ル。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着、宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵来テ逢。彦左衛門ヲ同道ス。

○廿九日 天気吉。昼時(帯刀公ヨリ百疋給)喜兵・友兵来テ、光栄寺へ同道。 一燈公ノ御墓拝。道ニテ鈴木治部右衛門ニ逢。帰、冷麦持賞。未ノ下尅、宿久左衛門同道ニテ瀬波へ行。帰、喜兵御隠居より被下物、山野等 より之奇物持参。又御隠居より重之内被
下。友右ヨリ瓜、喜兵内 より干菓子等贈。

一 七月朔日 折々小雨降ル。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。 喜兵・太左衛門ハ被
見立。朝之内、泰叟院へ参詣。巳ノ尅、村上ヲ立。午ノ下尅、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙宝寺へ同道、帰 而つゐ地村、息次市良方へ状添遣ス。乙宝寺参詣前大雨ス。即刻止。申ノ上尅、雨降出。及暮、つゐ地村次市良へ着、宿。夜、甚強雨ス。朝、止、曇。

二日 辰ノ刻、立。 喜兵方より大庄や七良兵へ方ヘ之状は愚状に入、返ス。昼時分より晴、アイ風出。新潟へ申ノ上刻、着。一宿ト云、追込宿之外ハ不
借。大工源七母、有情、借。 甚持賞ス。

○三日 快晴。新潟を立。馬高ク、無用之由、源七指図ニ 而歩行ス。 申ノ下刻、弥彦ニ着ス。宿取テ、明神へ参詣。

○四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、弥彦ヲ立。 弘智法印像為
拝。峠 より右ヘ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二三町行テ、最正寺ト云所ヲ、ノヅミト云浜へ出テ、十四五丁、寺泊ノ方ヘ来リテ、左ノ谷間ヲ通リテ、国上へ行道有。荒井ト云塩浜ヨリ壱リ計有。寺泊ノ方ヨリハ 、ワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。

○五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。
間モナク雨降ル。至柏崎ニ、天や弥惣兵衛へ弥三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至鉢崎 。宿たわらや六郎兵衛。

○六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ浜ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ弥三状届。忌中ノ由ニテ強 而不止、出。石井善次良聞テ人ヲ走ス。不帰。 及再三、折節雨降出ル故、幸ト帰ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各来ル。発句有。

○七日 雨不
止故、見合中ニ、聴信寺へ 被招。再三辞ス。強招 ニク(クニ)及暮。 昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨甚。

○八日
 雨止。欲
立。強 而止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下刻、至高田。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。春庵へ不寄シテ、先、池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓 而尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。

○九日 折々小雨ス。 俳、歌仙終。

○十日 折々小雨。中桐甚四良へ 被招、歌仙一折有。夜ニ入テ帰。夕方 より晴。

○十一日 快晴。暑甚シ。巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不届。直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。月晴。

○十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言伝有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。

○十三日 市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四五丁有。中・後ノ 堺、川有。渡テ越中ノ方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ到テ越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒部川ヲ越。雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴。申ノ下尅、滑 河ニ着。暑気甚シ。

○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)。 氷見へ欲行、不往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不勝。 暑極テ甚。不快同然。
■ 曾良の細道 ■ 
 江戸を出立して以来、終始、行動をともにしてきた二人は、ここではじめて別行動をとった。
 芭蕉翁は馬に乗って海岸線を行き、鼠ヶ関の番所を通って越後へ。曾良さんは、半里ばかり山間に入った湯温海へ。
 なぜ? わからない。曾良さんは「見物シテ行」と書いているが、湯温海は湯治場だ。わざわざ見物に行くようなところではない。それも大事な宗匠を一人で行かせて・・・。ましてこの先には関所(番所)があり、出判(出国手続き)が必要だ。手形には、二人連れであることが明記されているだろうから、芭蕉翁が一人で行っても通過はできない。
 ということは、芭蕉翁も曾良さんも、番所は「まともに」通らなかったことになる。つまり「関所破り」だ。なぜそんな必要があったのか? ほらほら、あれだよ。ニンジャ・・・ (^0^)
 「奥の細道」の旅は、奥州諸藩の探索が目的だった。庄内藩でその任務を終え、帰ろうとしたところで新たな任務が下された。「越中、加賀藩を探れ」と。だが二人には北陸街道を往く準備がなかった。
 それでじゃないかなあ、この後大垣まで、二人の旅はなんとなくギクシャクしたものになった・・・





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