雲 巌 寺
 ● おくのほそ道 本文
 当国雲岸寺のおくに仏頂和尚山居跡あり。
   竪横の五尺にたらぬ草の庵
       むすぶもくやし雨なかりせば
と松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給う。其跡みんと雲岸寺に杖を曳ば、人々すすんで共にいざない、若き人おおく道のほど打さわぎておぼえず彼梺に到る。山はおくありけしきにて、谷道遥に、松杉黒く、苔しただりて、卯月の天今猶寒し。十景尽る所、橋をわたって山門に入。
 さて、かの跡はいずくのほどにやと、後の山によじのぼれば、石上の小菴岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室をみるがごとし。
   木啄も庵はやぶらず夏木立
と、とりあえぬ一句を柱に残侍りし。
 ● ぼくの細道
 臨済宗妙心寺派の古刹、雲巌寺。
 創建は1130年ころの堂々たる伽藍配置の寺だ。禅宗の寺らしく、境内庭園の手入れも行き届き、すがすがしさを感じさせる。芭蕉の逗留した黒羽の中心部からは約20キロ離れており、現代でも「こんな山奥」と評されるほど人里から奥まったところにあるのだから、当時は訪れる人などめったにいなかったのではなかろうか。

 「雨さえ降らなければ、庵すらいらない……」と、仏頂禅師はうたった。何もいらない、住む場所すらも、というのが仏頂禅師の思想で、詩人芭蕉もこれを受け継いだ。その師が居たという庵の跡を見るために、芭蕉は裏山によじ登った。
 石の上に小さな草庵があったというが、その場所は結界の向こう、寺の聖域であり、今は立ち入りが禁止されている。

 師の庵の跡を見て、芭蕉は何を思ったのだろうか。おそらく日を経ずして足を踏み入れる未知の国(みちのく)への夢と怖れを感じていたであろう。

 ところで、「おくのほそ道」では、芭蕉は黒羽滞在の最後の日に雲巌寺に行ったように書いてあるが、曽良の日記には黒羽到着最初の日に訪れたと記されている。つまり雲巌寺訪問は、奥へ旅立つ芭蕉の大切な心の準備だったのだろう。
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