黒  羽
 ● おくのほそ道 本文
 黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つヾけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば感応殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
 修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。
    夏山に足駄を拝む首途哉
 ● ぼくの細道
 黒羽。
 よほど居心地がよかったのか、旅はまだ始まったばかりだというのに、翁はここに14日間も滞在して、付近の観光スポットを見て回った。なかでもとりわけ好奇心を掻き立てられたのが玉藻稲荷(九尾の狐)伝説だった。(^0^)

 「九尾の狐」というのは、世界の妖怪史上、最高最強といわれ、紀元前2000年ほど昔から、中国、インド、日本を股にかけて暴れまくった化け物である。
 平安時代末期、鳥羽上皇の時代のことであった。
 上皇に「玉藻の前」という女官が仕えていた。歳は二十歳前後、絶世の美女で、しかも博識で、院政をしいた上皇を陰で支えていたといわれる。
 こうなると、ほとんど必然的に、二人の間柄は夫婦同然になる。上皇は玉藻の前に溺れ、それがため、病気になる。多くの医師が次々に呼ばれるが、上皇に回復の兆しが見えない。
 そこで呼ばれたのが、ご存知、陰陽師安倍清明(泰成)。
 陰陽師は、病の原因は玉藻の前にありと見極め、悪霊退散の調伏にかける。
 現れたのが、白面金毛九尾の狐。
 清明必死の祈祷にたまらず、九尾の狐は那須野に逃げる。これを八万の軍勢が追ったが、変幻自在の術に惑わされて敗退。これではならじと、犬追物で犬を狐に見立てて訓練し、再度、挑戦するが、どこへ消えたものか九尾の狐が見当たらない。
 ここに登場したのが弓の名手、三浦介。桜の枝に止まったセミの傍らの池に映った姿で正体を見極め、手練の弓でセミを射止めると、さしもの九尾の狐もたまらず死に絶えた、という。
 ただし狐の怨念は那須岳に飛び、山の中腹に張り付いて近づくものを取り殺すようになった。これを誰言うとなく殺生石と呼ぶようになった、とか。
 話はまだ続く。
 石の塊が殺生を続けると聞き及んだのが、会津の玄翁(源翁)禅師。ある日、殺生石を訪ね、手にした金槌で大岩を一撃したところ、岩は粉々に砕け散り、毒気も弱まった、という。この故事にちなんで、今でも大工の金槌のことをゲンノウと呼んでいる、とか。

 芭蕉って言う人は、かなりの物好きだったのだろう。
 玉藻古墳と鏡が池を見た後、殺生石まで足を運んで、玉藻の前の怨念を確かめたようである。(^O^)

犬追物跡

玉藻稲荷神社

那須八幡神社

修験光明寺跡
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