裏見の滝
 ● おくのほそ道 本文
 廿余丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。
     暫時は瀧に籠るや夏の初
 ● ぼくの細道
 日光には、実に多くの滝がある。大小、形状ともさまざまで、滝を追って歩くだけでも一日を過ごすことが出来る。なかでも人気があるのは、日光三瀑と呼ばれる、華厳滝、裏見滝、霧降滝だが、これに竜頭滝、湯滝を加えて日光五滝と並び称する場合もある。
 芭蕉と曽良は、このうち日光山内に一番近い裏見の滝を訪れている。芭蕉は、高さ45メートルのこの滝に感動して上記の句を残しているが、いまわれわれが見ることの出来る裏見滝は、岩盤の崩落で形が変わってしまっているのだそうだ。
 この滝、裏見という名の通り、中段の岩のくぼみを通って滝の裏側に行くことが出来るのだが、ご覧の通り滑りやすそうだし、岩盤も弱いとのことだから、ま、やめておいたほうがよさそうだ。
 話は前後するが、芭蕉は、裏見の滝へ行く途中、大谷川沿いの憾満ヶ淵に立ち寄っている。はるかに日光の象徴である男体山を仰ぎ、奇岩急流からなる景勝の地だ。
 多くの「……ほそ道」解説書が、裏見の滝とともに観光で立ち寄ったと書いているが、私にはそうは思えない。
 憾満ヶ淵。かんまん、とはどういう意味だろうか?
 伝承によれば、かんまんは、不動明王の真言「のーまく さんまんだー ぼーだらだん せんだー まーかろしゃーだー そわたや うんたらたー かんまん」の最後の部分を採って名づけられたと言う。実はこの淵、流れの音がこの真言のように聞えるのだという。ためにこの淵は単なる景勝地ではなく、不動明王の霊地と考えられ、芭蕉の訪れる30年ほど前、輪王寺晃海大僧正により寺が作られた。慈雲寺という。
 この寺には、本尊の阿弥陀仏とともに、慈眼大師天海の像が祀られている。天海。その名は徳川300年の歴史を語る上で欠くことができない。家康の知遇を受け、春日局とともに三代将軍家光就任に深くかかわった怪僧で、一説には織田信長を討ち滅ぼした明智光秀の後身とも言われる。
 俗説だが、その証拠とも言われるのが、この川の上流、今日言う第2いろは坂の終点、日光の町を見下ろす台地、明智平である。この地名の正しい由来は誰も知らないが、秀吉に追われた明智光秀が徳川家康に救助され、匿われてのちに天海僧正として徳川300年の基礎を築いた、と考えるとつじつまが合うそうだ。諸君は、どう思う?

 さて、その憾満ヶ淵のほとりにおびただしい数の地蔵が並んでいる。
 並び地蔵、人呼んで「日光化け地蔵」。
もともと、天海僧正の弟子100名が「過去万霊、自己菩提」のために寄進したものだが、この地蔵群、何度数えても数えるたびに数が違うことから「化け地蔵」と呼ばれるようになった。
 試みに私も2度数えてみたが、2度とも74体だった。  ただし1体、これ(→)を数に入れるか、入れないか…… ま、頭巾があるところを見ると、座り疲れてその辺に散歩に出ただけだろうから、居るものとして数えたが。(^○^)

 芭蕉翁は、東照大権現家康公に対して畏敬の念を抱いていた。それは、かつて芭蕉が仕えていた藤堂家が家康公の膝下にあって重く用いられていたことと無縁ではなかろう。その家康公の盟友であり、徳川政治の軍師でもあった天海僧正にまつわる寺に、芭蕉ともあろうものが単なる観光で足を運ぶものか。
 翁は、地蔵一体一体に、徳川の世の永からんことを祈念したと思う。
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