日光山内
 ● おくのほそ道 本文
 卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。
     あらたうと青葉若葉の日の光
 ● ぼくの細道
 日光東照宮参拝は、芭蕉の「おくのほそ道」への旅の序盤のクライマックスともいえる。ここで翁は、東照宮が如何にすばらしかったかは一文字も書いていない。ただ「御光一天に輝きて、恩沢八紘にあふれ」と感動を述べ、「憚多くて筆をさし置」いてしまった。
 今日、東照宮は、修学旅行を始めとする団体旅行の観光コースであり、気が向いたとき、一人でぶらりと訪れても拝観料さえ払えば誰でも見ることができる。しかし、芭蕉の時代はそうはいかなかっただろう。
 なにしろ東照の神、大権現家康公の御社である。これを拝観するには、かなりややこしい手続きが必要だったに違いない。おそらく、芭蕉は旅に出る前に幕府のしかるべき筋を通じて許可証を得ていただろう。しかるべき筋とは、もちろん例の筋だ。(^O^)
 話は元へ戻るが、東照宮拝観の許可証持つほどのものが、無住の寺や報謝宿にタダ同然で泊まるのは、なぜか。だからあたしはドケチだと言ったのだ。(^O^)

 東照宮について、ここで詳しく述べる必要はないだろう。写真も控えよう。必要なら、ネット上でいくらでもみられるのだから。

 と言いながら、なぜ陽明門の写真を載せた? 実は東照宮は、大変な謎に包まれた存在なのだ。国宝だとか、重要文化財というものを見たときは、ただ「ああ、すばらしい!」で終わってはいけないのだ。よくよく見るとあっと驚く事実が隠されていたりする。
 そのひとつが、陽明門を守る神将。その膝に見えるのは、桔梗の紋所! 桔梗は、本能寺で織田信長を葬り、一時は天下に号令を下した悲劇の武将、明智光秀の紋所なのだ!
 明智光秀は、秀吉に追われて逃走する際、土民の竹槍に突かれて生涯を閉じたとされているが、遺骸は見つかっていない。あくまでもうわさだが、実は光秀は逃げ延びて徳川家康に助けられ、天海僧正として幕藩体制の成立に裏から尽力した、という。

 ところで、だれでも知っている下の童謡。東照宮とは深いかかわりがあることをご存知か。

    かごめ かごめ
    かごのなかのとりは
    いついつでやる
    よあけのばんに
    つるとかめがすべった
    うしろのしょうめん
    だあれ

 誰でも知っているが、誰が作ったか、歌の意味は?となると誰も知らない。 鶴と亀? 家康公の墓前には、鶴と亀の像がある。そして鶴はカギを咥えている…… 歌の謎を解き明かし、鶴のくわえるカギを使えば…… あなたは、800万両と伝えられる家康公の埋蔵金を手に入れることができるノダ!
 
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