仏五左衛門
 ● おくのほそ道 本文
 卅日、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀の清質尤尊ぶべし。
 ● ぼくの細道
 旅の4日目、芭蕉と曾良は、日光鉢石宿仏五左衛門方に泊まった。原文には三十日とあるが、この年の3月は小の月で29日までしかない。実際は4月1日だ。研究者によれば、これは詩人芭蕉のレトリックで、東照宮を訪れる日を月の初日としたいがためだとか。「おくのほそ道」にはこういう作為がいくつもあって、訪問地の順番が入れ替わっていたりする。「おくのほそ道」は、いわゆる旅日記ではないので、このあたりは注意して読み進めなければならない。

 宿の主は自らを「仏」五左衛門と紹介した。
 仏というのは綽名だが、万事正直なので人がそう呼んでいる。安心して休んでほしい…… 自分を仏だの正直だのというヤツにはロクなのがいない。芭蕉もそう思って主を観察したのだろう。結果、剛毅木訥の仁と見定めたようだ。
 ところでこの宿、いったいどういう宿なのだろうか。古からの伝統を今日に引き継いで、資料も多く残る日光の町だが、芭蕉の泊まった宿については、主の名前までわかっているのに、どこのどういう宿か皆目わかっていない。推測の手がかりすらない。なぜか…… 仏五左衛門。怪しいヤツだ。(^O^)
 この宿、宿場の正規の宿屋ではなく、いわゆる「報謝宿」ではなかったか。報謝宿というのは、ちゃんとした宿に泊まるカネのない者や、世を忍ぶ駆け落ち者、あるいは無宿者といった、いわば下層の者を無料か、ごく低廉な宿賃で泊めるお助け宿で、地域の大金持ちが「報謝」で経営していた。
 芭蕉は自分で言うごとく「かゝる桑門の乞食順礼ごとき」姿だったから、報謝宿には似合う。主五左衛門もこの乞食坊主を江戸で名高い松尾芭蕉翁とは、夢にも思わなかったのであろう。
 それにしてもわが敬愛する芭蕉先生、普通の宿に泊まるカネの持ち合わせがなかったわけではあるまいに、なんとも凄い宿に泊まったものだ。
 前夜は、鹿沼の無住の寺、今夜は鉢石の報謝宿(?)、どうやら芭蕉先生はドケチだったと見受けるが、如何?
そういえば先生、鹿沼の寺を出立する際、笠を変えた。江戸から被ってきた笠がボロボロで穴が開いていたからだが…… 無住の寺で笠を売っているとも思えない。 さては…… 誰かの忘れ笠を…… (^O^)
 まあ、侘び寂びで生きてゆくには、少々こすっからいくらいでなければ…… なんて思うのは、侘び寂びに縁のない証拠かな。(^O^)
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