鹿沼笠塚
 ● ぼくの細道

 3泊目、曽良の日記で、「鹿沼」に泊ったことは明らかだが、鹿沼のどこに泊まったかは正確にはわかっていない。
 が、伝承によれば、鹿沼の西の寺、曹洞禅寺光太寺に「一夜を過ごす」とある。当時、光太寺は無住の寺であったというから、勝手にもぐりこんで「一夜を過ごした」のか。旅立ちから3泊目、まだ路銀も残っていそうだが、翌日の宿泊地もあわせ考えると、芭蕉という人、相当の倹約家(もしくはケチ)であったと思われる。(^O^)

 光太寺は、高台にあって鹿沼の街が一望できる絶好のロケーションだ。

   鐘つかぬ 里は何をか 春の暮

   入相の 鐘も聞えず 春の暮

 この二つの句は、どこで作ったのかわかってない。無住だったことを考え合わせ、ここ光太寺で作ったのではないか、とされている。まさにぴたりと決まる地ではないか。(って、芭蕉翁の時代には、ただの荒れ寺だったけどね)
 ところでこの寺には、本堂脇に、大小二つの石碑を立てた塚がある。 「笠塚」と呼ばれている。この塚についての記録は、後年の寺の火災で失われて不明というが、寺関係者の間に次のように伝えられているそうだ。
 この寺に芭蕉が泊った3月朔日は、曽良の日記によれば午後から雨、翌4月1日も朝から小雨が降っていた。芭蕉が持っていた笠は、江戸から持ってきた古笠で、すでに穴が空いていたので、雨漏りを嫌ってこの寺で笠を変えた、というのである。
 翁は、このときから5年後の元禄7年10月12日、旅先の大阪で病に倒れ、51歳の生涯を閉じたが、それから数年後、これを伝え聞いた寺では、供養のため、残されていた古笠を埋葬して塚を築いた、と。

 芭蕉没後44年、江戸の俳人山崎北華なるものが、「おくのほそ道」を忠実にたどり「新奥細道蝶の遊」なる一冊を編したが、北華は光太寺に詣で、笠塚に頭を垂れた。
   我もこの 影に居るなり 花の笠
 このとき、塚には上の碑が建てられていたようだが、刻まれた文字は一部しか残っておらず、何が書かれているのかはわからない。

 大きいほうの石碑は、さらに時を経てから建てられたもので、「芭蕉居士、嵐雪居士」とある。嵐雪の塚との関わりはわからない。
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