壬 生 道
 ● ぼくの細道
 陰暦3月29日(陽暦5月18日)午前8時過ぎに間々田宿を発った芭蕉は、途中、惣社町(現栃木市)の室の八島に立ち寄った後、壬生道を淡々と歩いて鹿沼宿に宿をとった。距離約40キロ。途中、室の八島で費やした時間を考えると、かなりのスピードだ。もっとも曽良の日記には「スグニ壬生ヘ」とあるから、室の八島はまさに立ち寄った程度だったらしい。
 ほとんど素通りに近いスピードで通過したのは、これといって見るべきところはなかったということだろうが、下野(栃木県南部)のこのあたりは、丹念に見ると古墳群を初め、国分寺、国分尼寺(左写真)などの史跡もあり、万葉時代にはかなり栄えた地であって興味深い。
 国分尼寺は、発掘調査では、塔こそないが、東大寺様式の見事な伽藍配置だったらしい。現在は、この一帯は、下野市国分寺町となり、「尼寺公園」として公園整備され、市民の憩いの場として親しまれている。
 (右)公園内にある万葉歌碑。
  「紫の にほえる妹を 憎くあらば
        人妻ゆえに われ恋めやも」
               (大海人皇子=天武天皇)
この歌は、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き、野守は見ずや君が袖振る」の返歌として、万葉集に収録されている。

(左)落ち葉の降り積んだ疎林の奥で、静かに時の流れを楽しんでいる石塔があった。真偽のほどはわからないが、あの「源氏物語」の作者、紫式部の墓と伝えられている。
 (右)金売り吉次の墓。田んぼの真ん中にぽつねんと、が、いかにも歴史の裏方らしく控えめに、鞍馬の牛若丸の思い出を語っているようだった。源義経ファンの芭蕉はもちろん立ち寄っている。吉次の墓、は、実はもうひとつ、福島県の白河にもある。こちらへは芭蕉の立ち寄った形跡はないが、白河のほうが本物らしく見えるのは私だけだろうか。
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