餞  別
 ● おくのほそ道 本文
痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。
 ● ぼくの細道
 「邪魔だなあ、この荷物。捨てちゃおうか?」
 そう思ったほど、翁はいろいろと餞別を貰ったようだ。現代でもそうだが、旅の荷物はできるだけ小さく軽くしたいもの。ましてやこの時代、旅の基本は徒歩だから、旅支度は必要最低限のものだけだったろう。当然、見送り人もそれは心得ていて、決して邪魔になるような餞別は用意しなかった。

 邪魔にならず、旅の必需品といえばおカネ、と、現代では考えがちだが、この時代の通貨は硬貨である。重くてかさばり、およそ旅には不向きだった。
 この時代、通貨制度は金貨、銀貨、銅貨の3種に分かれていて、金貨は武士、銀貨は大商人の決済用、庶民は銅貨を使用するように定められていた。したがって、芭蕉と曽良が使ったと思われるのは銅貨。いわゆる1文銭だ。1文銭といえば銭形平次でおなじみの「寛永通宝」で、重量は1個3グラムほど。まあ1個や2個ならたいしたことはないが・・・


 では、この時代の旅はいくらかかったか? 
 よくはわからないが、わらじ銭(5〜20文)、茶代、飯代(50〜100文)、馬代、関所の通行税(5〜20文)、川渡し賃(50〜100文)、宿賃など、いわゆる路銀という最低必要なものだけでも、1日数百文はかかっただろう。ということは、1日分約1キロ、一週間分くらいは用意するとして重さは約5〜7キロにもなってしまう。そんなもの持って歩けやしない。

 「おくのほそ道」の旅は、およそ半年間に及んだ。さて、芭蕉翁はその間の路銀をどう調達したのか。
 うん、それは分かっている。翁は、各地で働いて路銀を工面したのだ。つまり、逗留した各地で句会を開き、「指導料」を稼いでいたのだ。
 働いて何日ぶんかの旅費(生活費)を稼ぎ出す。それは人間の一生そのものではないか。一箇所に住み着いていても、旅の空の下にいても変わりはしない。
 そんな意味で、芭蕉翁は旅の詩人だったのではなかろうか。

     
(写真はいずれも、本文とは無関係。上は当時の福島付近の奥州街道。下は宿場町)
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