粕  壁
 ● ぼくの細道

医王山東陽寺
 
小渕山観音院

 芭蕉一行が奥の細道へ旅立って、最初に泊まったのは、どこか?
 「おくのほそ道」には草加宿とあるが、この旅の詳細を書きとめた曽良の日記によれば、粕壁宿。これが事実とされている。
 それはそれでいいのだが、では粕壁宿のどこに泊まったか? これが論争になっている。
 名乗りを上げているのは二箇所。一は、医王山東陽寺(上左)。こちらは代々の住職の口伝でそう伝えられているという。
 二は、小渕山観音院正賢寺(上右)。こちらは他の文献に、伝聞として記載されているという。さあ、どっちだ?(^○^) 口伝、伝聞では、証拠としてはどちらもイマイチだ。当時はどちらも寺ではなく、普通の民家だったらしいが。
 また、どちらも日光街道沿いにあるが、東陽寺がかつての宿場エリアにあるのに対し、観音院は、宿場を通り過ぎた春日部の町外れにあり、何か特別な理由がなければ、宿を探す旅人は、ここまでは来ないと思われる。
 特別な理由! あるんだなあ、それが。(^^♪
 旅の初日、普通の旅人ならまだ金もあるし、贅沢はしないまでもちゃんとした宿に泊まるだろう。が、芭蕉ご一行様は、このあとの行動から見てもかなりの変人で、金の有無にかかわらず、普通の人なら二の足を踏む野宿同然のところに平気で泊まっている。そう考えると、宿場を通り過ぎて町外れの貧相な?家に宿を借りた、と思えないでもない。
 という理由で、あたしの意見は、観音院説。


 さて翌日、小雨降る中宿を発ったお二人様、淡々と日光街道を下る。
 杉戸宿。
 「おくのほそ道」にも、曽良の日記にも何の記載もないが、ここに不思議なモニュメントがある。いつごろ、誰が、何のために建てたのか不明だが、地元では愛宕山と通称される古石碑類で築いた小山だ。(左写真)
 その中になぜか芭蕉の句碑がある。自然石に「八九間空で雨ふる柳哉」と刻まれている。この句は、芭蕉51歳(没年)の作である。句碑の制作年代は不明だが、他の碑類から推してもかなり古い時代のものだ。
 およそ句碑というものは、その土地に何らかの関係があって建てられるものだが、芭蕉が杉戸町にどんな関係があったのか、全くわかっていない。「おくのほそ道」の旅の途次、ここを「通った」程度では、句碑は建つまい。もしそうなら、「奥…」収録の句が採用されるはずだ。
 芭蕉と杉戸、いったいどんな関係があったのだろうか。
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