草 加 宿
 ● おくのほそ道 本文
 ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。
 ● ぼくの細道
 日光街道草加宿。
 宿場町だったかつての面影はない。どこにでもある街だ。 が、歩きながら目を凝らしていると、往時をしのぶいろいろなものが見えてくる。
 地蔵堂
(右写真)
 近代的に整備された草加市役所の敷地の一角に、ぽつんと朽ちかけたお堂が建っている。このお堂のいわく因縁は知らないが、地蔵や道祖神というものは、もともと町はずれ、村はずれにあって、悪霊の進入を監視しているものだ。結界、バリアと言い換えても良かろう。さらにまた、旅する者の平穏と安全を祈って立てられる。この地蔵堂もまた、草加宿の入り口にあって、その役割を果たして来たのだろう。
 が、時代を下るごとに人口が増え、街が広がり、経済の主力だった「宿場」が消えていって、町外れがいつの間にか街の中心になってしまった。これはこれで仕方のないことではある。が。

 宿場町草加は、かつて全域「大川家」の持ち物であった。
 日光街道がこの地に定められたとき、当主の大川図書は、この地に宿場をおくことを思い立った。壮大な計画であった。
 というのは、この付近に縁のある方はご存知と思うが、草加越谷一帯は低地のため、ちょっと雨が多いと綾瀬川、元荒川などが氾濫してたびたび水害に見舞われた。対策の進んだ今日でも、一部地域では道路冠水などで交通網が遮断されたりする。
 図書の計画は、この地域全体に盛り土をしてその上に宿場を建設しようと言うものだった。
 工事は、近在から人を集めて行われた。期間中、周辺の農家には女子供しかいなくなったと伝えられる。この工事は難航を極めた。もともと低地だから地盤がゆるい。いくら盛り土をしてもその土の重みで地面が下がってしまうのだ。


 三丁目橋親柱というのがある。(左写真)
 かつてここには川が流れ橋が架かっていたという。その橋の親柱が、腰掛け程度に見える石柱だ。この柱も、長い年月を経て、下がってしまったもののようだ。

 ともあれ、苦労に苦労を重ねて、宿場は完成した。が。
 道路原標
(右写真、倒壊の危険があるため鉄枠で固定している)。千住へ「二里拾七町」越谷へ「一里参拾?町」と書いてある。街道筋には宿場が必要といっても、千住宿、越谷宿に近すぎないかい?
 旅は朝立ち。当時、江戸四宿と言って、江戸から旅に出るときは、まず東海道品川宿、甲州街道内藤新宿、中仙道板橋宿、日光街道千住宿に泊って、ここから朝立ちするのが習いであった。千住で朝立ちした旅人は、いくら足がのろくても10キロ程度の草加では泊らない。粕壁宿か杉戸宿くらいまでは足を延ばす。
 江戸ご府内、日本橋から直接旅立ったとしても、草加まで五里程度、せめて越谷宿までは行きたいだろう。
 というわけで、大変な苦労をして造成した宿場の割には、草加宿は儲からなかったと思う。

 ところが!
 「其日漸早加と云宿にたどり着にけり。」と芭蕉は書いている。芭蕉は、草加宿に泊った?
 うそ、うそ。
 芭蕉は食えないジイサンだと言ったろ? 曽良の日記によれば、二人が最初に泊ったの粕壁宿。数々の旧跡、神社仏閣のある草加、越谷を芭蕉は休みもせずに素通りしている。
 芭蕉は、のちに「おくのほそ道」を出版する際、いかにも泊ったように書いて草加宿の顔を立てたのだろう。(^○^)
 いや、笑い事じゃないよ。
 芭蕉がこんな風に書いたおかげで、草加は「おくのほそ道」の代表的なスポットとして、あたしらみたいな物好きが集まるようになったじゃないか。
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