2010年8月18日(水)  レッスン 2

写真が他のアートと決定的に違う特質を持つことを認識したのは、25年か30年ほど前だろう。

篠山紀信さんが何かの紙面で、ある人の写真を絶賛していた。絶賛されたのは確か70代のお婆さんだった。その人はアマチュアとすら言えない写真の素人で、どういう経緯かは忘れてしまったけれど、ある日突然に写真を撮りはじめたような人だった。そんな篠山さんの紹介文が気になった。
その人の写真がどういうものか知りたくて、早速写真集を注文した。
届いたモノクロームの写真集は、篠山さんが言うほど素晴らしいものではなかった。その人の日々の暮らしを取り巻く、木や家などの自然の風景がページをめくってもめくっても淡々と現われた。
当時のぼくは、もっとエキセントリックな写真を求めていた。内容を知らずに注文した写真集に、度肝を抜かれるような質の写真を期待したわけではなかったが、それにしてもちょっとガッカリした。篠山さんの言葉を勝手に勘違いしたことを悟り、その写真集を部屋の片隅に追いやるように置いた。

でも何だか気になる。あとで見た。数日たってまた見た。そうするうちに、ぼくはやっと糸口を見つけたように思い、きつく編まれていた糸が少しずつほどける気がした。
何度も見たはずなのに、どうしてそれがわからなかったのだろう。その写真の「何でもなさ」にやっと気がついたのだ。そんなふうに撮れそうで撮れない。
適切な例えではないかもしれないけれど、こう言えばぼんやりとでも通じるだろうか。
かつて結核病棟に住まいした人が、その周囲を撮りためたような。特攻兵として訓練されている若者が残り少ないはずの日々を撮らずにはいられなかったような。そんな心の静けさのようなもの、あるいは心を鎮めてくれるものに心を寄せる人の心境のようなものに気がついたのだ。

写真が上手いか下手かと言うまでもなく、下手である。小型カメラをオートにして撮り、DPEに出してフィルム現像もプリントも他人に任せて出来上がった素人の写真である。撮られたものは誰でも普通に見ているはずのもので、だから敢えてカメラを向けないような対象である。
しかし、その写真には、心の趣くままに無心にシャッターを切ったという感覚そのもののがある。ただひたすらに「見る」ことを繰り返すお婆さん。ものを見るストレートな眼差しだけがある写真。
そこには上手く撮ろう、いい写真を撮ろうなどという気配はまるでない。だからこそ、見る者の心にとどまってしまうのだ。

篠山さんは力ずくで写真を撮ってしまう人である。あらゆる手法を駆使して写真を作る。いい意味で、篠山さんの写真は計算され尽くしている。まさにプロの仕事ぶりだ。才能とテクニックを縦横無尽に織り込むことができるのである。
そんな人が、自分と対極にある人の写真の本質を、ちゃんとわかっている。

この体験を通して、写真のある特異性にぼくは初めて気がついた。
「写真は修練を積むことなく成立することが可能なアートである」
その後、これについて実に明快な指摘をした人の著作を読んだ。『写真論』を書いたスーザン・ソンタグである。ちょうど、相原健二君が7月のワークショップ・レポートに書いていた彼女の別の著作の一文を掲載したい。
-----
写真は主要な芸術のなかでただ一つ、専門的訓練や長年の経験をもつ者が、訓練も経験もない者にたいして絶対的な優位に立つことのない芸術である。(スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』)
-----

昔、撮影をはじめ暗室仕事は厄介な代物だった。長い修練や習熟の日々があった。それは絵描きやピアニストが、テクニックを磨くことと同列であった。テクニックを持つことは最低限のことだった。むしろ、それらはテクニックの存在なしに成立しなかった。才能とテクニックはアーティストの両輪だ。彼らが思いを具現化するにはテクニックなしにはあり得ない。
どんなに才能に恵まれても、ピアノを自在に駆使するテクニックがなければピアニストではない。ピアニストは「ピアノを身体化する」ことによって成立しているといえる。身体化するには途方もないレッスンが必要というわけだ。
ところが、写真はカメラをはじめとする進化によって、どんどん簡易なものへと移行する。フィルム(乾版)や印画紙までも自作した明治の写真師の仕事ぶりを、ほとんどの人は知らない。写真がどんな原理で生まれるのかさえも。それをブラックボックスとして封印したまま、写真はどんどん簡易化への階段を上っていく。
簡易になるとは、自分の思いをストレートに現すことに結びつけることが容易になることだ。テクニックがなければ成立しない他のジャンルとの違いは明確である。つまり、カメラは、他のジャンルの道具よりも圧倒的に身体化しやすい道具であるということだ。


そのお婆さんがどういういきさつでそんな写真を撮るようになったかは知らない。そもそもそういう資質をもっていたのかもしれないし、何かのきっかけで、自分の周囲がそれまで生きてきた日々と違う見え方を始めたのかもしれなかった。いずれにしても、あるとき、その人はカメラという道具を手にした。
おそらく、その人の行為は老いと無縁でないように思う。死を意識したのだろうか。

ひとつ断っておかねばならない。写真の特異性を認識しつつ、他のジャンルとの類似性の存在も明確に認める必要がある。そのお婆さんのような写真の在り方がある一方で、写真というものがそれだけでないことは明白だ。篠山さんの写真がやはり写真であるように。
一般の人々にブラックボックスとなった領域、つまり、写真の原理や特性、そしてテクニックを、知り、身につけることで写真は大きく変わる。これはまぎれもない事実である。

名器と呼ばれるピアノさえあれば誰でもいい演奏ができるわけではないように、どんなに高級なカメラを持っていても、いい写真が撮れるわけではない。カメラが飛躍的な進化を遂げて、誰でもプロ並みのテクニックを獲得したとしても、シャッターを押すのは人である。
カメラが進化するほどに、問われるだろう。
何をどう見るか、どう考えるか。そしてどう撮るか。
きれいな写真を撮ることはそう難しくない。きれいな写真と、いい写真は違うのだ。



note menu    close   next